【坂本冬美「休業から死亡説まで」全真相を語る】#1


 猪俣公章、忌野清志郎、本田美奈子.、島倉千代子、二葉百合子、桑田佳祐……あらゆる人との出会いや別れを繰り返しながら、坂本冬美は感性を磨き、全てを歌にぶつけてきた。出場37回の紅白歌合戦、謎の休業、死亡説、涙の復帰、ヒット曲秘話……芸能生活40周年を迎える歌の達人が半生を振り返る。


 1月23日、東京・八王子でメモリアルイヤーのコンサートツアーが始まった。冬美は40年の思いを込め、自身のヒット曲のみならず、石川さゆりや島倉千代子、二葉百合子のカバー曲も歌い、2000人を魅了した。


「客席に向かって『今日、初めての方は?』と聞くと、どこに行っても大体7割を占めます。毎回、新たなお客さまがたくさん見にきてくださる。その方たちにも満足していただけるようなステージを心掛けています」


 小学5年生の1977年、NHK紅白歌合戦で石川さゆりが「津軽海峡・冬景色」を歌う姿を見て、冬美は「演歌歌手になる」と心に決めた。中学になると関西の人気番組「素人名人会」(毎日放送)に出演したが、名人賞には届かず。審査員の大久保怜は「あんた、変わった声してはんな」と切り捨てた。


「すごくショックでした。子供の頃から近所ではいつも褒められて、自信を持っていましたからね。一時期マイクを持てなくなりましたけど、気付いたらまた練習していました」


 和歌山県立熊野高校に進学すると、「アドベンチャーワールド」のレストランでウエートレスをして、アルバイト代でカラオケセットを買った。


「月5000円のローンを組んだ覚えがあります。当時はカラオケボックスなんてないですからね。

2年生の時はタレント養成所に1年間通い、セリフの勉強もしました。研ナオコさんの横にいる相手役のCMオーディションを受けに、東京にも行きましたね。落ちてしまいましたけど」


■和歌山の梅干し製造会社に就職


 歌手への道は開けず、冬美は大阪の飲食業界の事務員として働き始めた。


「寮生活だったのですが、苦手な先輩がいたので、あまり部屋にいたくなかったんですね。そしたら、違う先輩が『そんなもん、気にせんでええ。遊びに行こうや!』と毎晩のように誘ってくれて、門限ギリギリに帰っていました。その気持ちはうれしいし、楽しいんですけど、お給料の半分ぐらいが消えていく。こんな生活を続けていてはいけないと思い、3カ月で辞めました」


 和歌山に戻り、紀州梅干し製造会社の「ウメタ」に就職。白衣を着て、塩分や酸度を測る検査技師のアシスタントを務めた。


「会社の近くに、高校の頃から知っていたカラオケ同好会があったんですね。お昼休憩になると、10分でご飯を済ませて、練習しに行きました。そこの主宰者である中尾弘さんが私の歌を録音してくれて、いろんな番組に応募してくださったんです」


 そのうちの一通が運命を変える──。

 (つづく)


(岡野誠/ライター、芸能研究家)


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