2025年12月7日名古屋市内で、「東南海地震(1944年(昭和19年)12月7日)」の犠牲者追悼式が行われた。

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 この式典に、地震発生時に三菱重工業名古屋航空機製作所で韓国からの徴用工として働いていた女性:95歳が参列した。
彼女は当時14歳。「日本に行ったら、働きながら学校にも通える」とのことで来てた。しかし、純粋の日本人の子供でさえ軍需工場に徴用されるか学童疎開させられていたので、「学校に通える」は口車に過ぎない。彼女の村は始め韓国全土から動員された女子は24人で、そのうち6人が地震のために亡くなった。
地震で命を落としたと思われる日本人59人の追悼碑は存在するが、そこには6人の少女の名前も刻まれている。

 地震の翌年(おそらく昭和20年になってすぐ)彼女は、韓国に帰ったが、「日本にいたと言うことは絶対に口にするな」と生きてきた。従軍慰安婦などと間違えられないために大人たちが知恵を絞ったのだろう。それは彼女の心の中で大きな重荷になっていた。

 理不尽な大人がいなくなった、彼女が90歳の時、徴用工として働いた証の厚生年金の損害賠償訴訟を起こしたが、当時の金額に相当する額99円が振り込まれただけだった。彼女が現在望むことは、日本政府による「申し訳なかった」の『謝罪の言葉一言』だけだ。慰安婦のように金品は求めてはいないようだ。

 ただ「日帝強制動員市民の集まり」という団体の理事長は「反戦企業の三菱の強欲さと暴力が悲劇を拡大させた」と主張する。
当時の三菱は、今はない。そして地震は自然災害であり防ぎようのないことだ。
「学校に行ける」という言葉、さらに「働けばお金になる」と思った時点で、望んで日本に来たのだ。判断力が乏しい少女だったとしても、日本に謝罪してほしいのならば、地震で亡くなった他の53人にも日本政府は平等に謝罪しなければならない。それを求めている遺族は少なくとも聞いたことはない。
【編集:fa】
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