(映画『エルヴィス』の1シーン。
ロックの帝王、エルヴィス・プレスリー(1935~1977)の生涯を描いた伝記映画である。
エルヴィス・プレスリーをオースティン・バトラー(1991年8月17日生れ)が演じた。
『ボヘミアン・ラプソディ』(2018年)の大ヒット以来、ロックスターの伝記映画の制作が盛んになったが、いよいよ大本命の登場となった。
この作品が、これまでの伝記映画と違う点がある。
クイーンのヴォーカル、フレディー・マーキュリー(1946~1991)の生涯は『ボヘミアン・ラプソディ』
エルトン・ジョン(1947年3月25日生れ)の半生は『ロケットマン』
アレサ・フランクリン(1942~2018)の生涯は『リスペクト』
これらの作品は、代表曲を映画の題名にして、ある時期をハイライトとして一部を描いている。
しかし、『エルヴィス』はファーストネームを題名にしており、構成も歌手デビューから死までと全体を描いている。
これは何故か?
エルヴィス・プレスリーのヒット曲が多く、代表曲を一曲に絞るのが難しい。
ある重要人物を通して描くには歌手活動期間中全体を描く方がふさわしい。
監督のバズ・ラーマン(1962年9月17日生れ)が判断したためだろう。
その人物こそ、エルヴィス・プレスリーのマネージャーだった
トム・パーカー大佐(1909~1997)である。
どういう人物だったか?
まずはエルヴィス・プレスリーの人生を簡単に振り返って、彼の生涯に大きな影響を与えたトム・パーカー大佐の正体について最後に紹介することにしよう。
エルヴィス・アーロン・プレスリーは、1935年1月8日ミシシッピ州テュペロで、双子として生れた。
兄のジェシー・ガーロンは生後すぐに亡くなったので、母グラディス・ラブ・プレスリー(1912~58)は溺愛した。
父ヴァーノン・エルヴィス・プレスリー(1916~79)は不渡小切手で服役したりして貧しい暮らしだった。
11歳の誕生日に欲しかったライフルの代わりにギターを与えられてから音楽に夢中になった。
13歳でテネシー州メンフィスに引っ越した。
翌年に転居したロウダーデール・コート公営住宅が貧しい黒人が多く住む地域だったので、自然とゴスペルとブルースに慣れ親しむようになった。
高校卒業後、クラウン・エレクトリック社でトラック運転手として働いていた。
エルヴィスは1953年にメンフィスのサン・スタジオで4ドルを払ってデモ版を録音した。
その歌声を聞いたサム・フィリップス(1923~2003)は、1954年6月に行方不明の歌手の代理として、初めてのシングルThat’s All Right を録音させた。
シングルは翌7月に発売された。
アメリカ南部を中心にヒットした。
黒人のように歌う白人の若者の存在は、実はレコード業界内では待望されていたこともあった。
アメリカレコード協会でゴールドディスクに認定されている。
1955年8月までに5枚のシングル10曲を録音、発売した。
同じ1955年の8月にエルヴィスの両親は、トム・パーカー大佐とマネージメント契約をした。
11月には、サン・レコードが全米に配給先に提携していた大手レコード会社RCAに移籍した。
腰を振りながら歌うスタイルは若い女性ファンを熱狂に導いた。
しかし、白人でありながら黒人のように歌う歌唱法なども含めて、当時のアメリカの保守層に目を付けられるようになった。
慈善コンサートで、腰を振ったために逮捕されるようなこともあった。
単に黒人の音楽を真似たという意味だけでは無い。
エルヴィスがカバーした『トゥッティ・フルッティ』のオリジナルを歌った
リトル・リチャード(1932~2020)はゲイを公言していた。
アメリカ合衆国はまだ同性愛等の性行為を禁じるソドミー法が有効だった時代である。

(リトル・リチャード イラストby龍女)

(リトル・リチャードを演じるアルトン・メイソン イラストby龍女)
しかしエルヴィスの人気はうなぎ登りで、人気TV番組『エド・サリヴァン・ショー』で上半身だけ映して放送するという対策で乗り切った。
また1956年には、映画にも出演するようになった。
初出演初主演映画は『やさしく愛して』
1957年には『監獄ロック』に主演した。

(映画『監獄ロック』の時のエルヴィス・プレスリー イラストby龍女)
しかし、1958年には、エルヴィスに召集令状が届き、2年の兵役をドイツで過ごすことになった。
兵役の最初の年、1958年には最愛の母グラディスが酒に溺れて体調を崩し、8月に亡くなった。この時だけ故郷に戻って葬式には出席できた。
1960年の3月の退役までの間に、ドイツ勤務の米軍将校の娘、プリシラ・アン・ブーリューとの交際が始まった。
彼女は当時、エルヴィスの10歳年下の14歳だった。
8年後の1967年に結婚した。
エルヴィスは、除隊後は主にハリウッドの拠点に年3本の映画に出演する生活をした。
1956年から1969年までに31本の映画に出演したが、その間にロックはビートルズの時代になり、若者の心はエルヴィスから離れていった。
1968年12月3日、NBCで放送された番組『ELVIS』

(TV番組『ELVIS』を再現。オースティン・バトラー。 イラストby龍女)
トム・パーカー大佐は当初クリスマスソングだけを歌わせようとした。
プロデューサー兼ディレクターのスティーヴ・ヴィンター(1932年12月12日生れ)とプロデューサー兼エンジニアのボーンズ・ハウ(1933年3月18日生れ)が反対し、クリスマスソングは一曲のみ、これまでのヒット曲と新曲で構成された意欲的な内容となった。
視聴率は70%の脅威の数字をたたき出し、エルヴィス・プレスリーの復活を印象づけた。
しかしこれ以降、エルヴィスの生活はコンサートツアーに忙殺されることになり、徐々に疲労回復に始めた薬物使用が徐々に体を蝕んでいく。
こうした生活の中で、メンフィスマフィアと呼ばれる取り巻きとの生活などで、夫婦間のすれ違いが続き、プリシラとは1973年に離婚することになってしまった。
1969年からは、ラスベガスのインターナショナルホテルでの長期公演が始まり、5年続いた。
実はこの頃、プレスリーに日本公演のオファーがあったが、トム・パーカー大佐が警備がどうのこうと言い訳をしてうやむやにしてしまった。
同じように、バーブラ・ストライサンドからオファーされた『スター誕生』の出演をトム・パーカー大佐が断ってしまう。
1977年8月16日。
新たなツアーが始まる17日を前に、グレイスランド(エルヴィス邸の名称)でエルヴィス・プレスリーは42歳の若さで、処方薬の誤用による不整脈が原因で亡くなった。
では、エルヴィス・プレスリーの死後20年も生き延びた悪徳マネージャー
トム・パーカー大佐とは如何なる人物だったのだろうか?
そもそもトム・パーカー大佐の大佐とは正式名称ではない。
大佐はColonelを直訳した。
字義通りなら軍隊の階位の一つである。
何となく偉い男性に対する敬称といった方がよい。
映画『エルヴィス』の台詞で、エルヴィスがわざと「カーネル・サンダース」とケンタッキーフライドチキンの創業者の名前でパーカーを揶揄する。
パーカーは元々アメリカに違法に移民してきたオランダ人だ。
本名はアンドレアス・コルネリス・ファン・カウク。

(トム・パーカー大佐 イラストby龍女)

(トム・ハンクスが演じたトム・パーカー大佐 イラストby龍女)
エルヴィス・プレスリーに出逢う前は、移動遊園地で、見世物小屋とカントリー歌手の巡業で喰っていた興行主である。
日本の社会に置き換えて考えると、一番近いのは、テキ屋の親分である。
つまり、トム・パーカー大佐というより、トム・パーカー親分、トム・パーカー親方と呼んだ方がふさわしい人物なのである。
しかし、ロックを商売にした人物として歴史に名を残すべき存在であろう。
今では当たり前になったアーティストのグッズ販売を始めたのが、トム・パーカーだからである。
しかも、ギャンブル好きで負債を肩代わりにする契約が、エルヴィスのラスベガス長期公演だった。
トム・パーカー大佐は、とことんエルヴィスを金で搾り上げた。
国境の規制がないカナダ以外で海外公演をしなかったのも、パーカー大佐が違法移民である事をバレないようにするためだった。
しかし、エルヴィス・プレスリーは世界的なスーパースターである事は理解していたので、衛星中継を利用して、ハワイ公演のライブ映像を世界中に発信した。
苦肉の策であったが、後に続くチャリティコンサートの生中継にも活用され、パーカー大佐のビジネスセンスが画期的だったことは証明されたようなモノである。
映画本編の中では、エルヴィスを殺した原因は「愛」だと
自分の責任を否定したトム・パーカー大佐。
愛とは、ファンがもっとエルヴィスをステージで観たいという願望にある。
トム・パーカー大佐は金儲けの側面もあったが、そんなファンの願望に答えた側面もあったのである。
晩年のあまりにも多いツアーの数が、エルヴィスを孤独に追い込み、スタッフはエルヴィスの体力を持たせるために薬物を処方するように主治医をせかした。
エルヴィスは、離婚後の孤独な心のストレスを高カロリーの食に求め、肥満による心臓の負担は増大していった。
この2つの要因が重なり、結果、処方薬の誤用による不整脈が原因で亡くなった。
だから、エルヴィス・プレスリーを殺した愛の一部には、トム・パーカー大佐の共犯も含まれている。
筆者はそう信じて疑わないのである。
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