今回のテーマは吉田鋼太郎(1959年1月14日生れ)である。

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(所属事務所ホリプロの宣材写真から引用 イラストby龍女)

現在夏季の連続TVドラマでは

BS時代劇(金曜20時。
再放送は日曜6時45分。BSプレミアム)の『善人長屋』では
長屋の差配(管理人の事。現代に直すと、低所得者用集合住宅の管理人)と質屋は表の顔で
裏の顔は盗品の売買をする「系図買い屋」のボスキャラ
儀右衛門を演じている。

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(『善人長屋』の儀右衛門を演じる吉田鋼太郎 イラストby龍女)

刑事ドラマでお馴染みのテレビ朝日系列水曜21時の『刑事7人』seazon8では
専従捜査班係長で、階級は警視の
片桐正俊を演じている。
法医学の権威・堂本俊太郎(北大路欣也)を除くと、他の6人の中では立場が上で、専従捜査班の創設者である。

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(『刑事7人』の片桐正敏を演じる吉田鋼太郎。シーズン4の場面から引用 イラストby龍女)

2作品に重要な役で出演している売れっ子である。
NHKもTV朝日も、撮影期間は放映時までギリギリ撮るような日程を組まない。
これはコロナ以前から、局の特色である。
NHKは事前準備が細かい。
TV朝日は積極的にアメリカの連続ドラマ同様シーズン制をとっている。
俳優の日程の確保が分かりやすいからだろう。

主役で無くとも出番の多い役柄で、同じ週の連続ドラマに出られる理由である。

さて、吉田鋼太郎と言えば4回の結婚歴があるように、モテ男として有名だ。
しかし、彼がモテるのは女性だけではない。
男性には慕われる兄貴分?であり、特に有名な俳優が、
藤原竜也(1982年5月15日生れ)
小栗旬(1982年12月26日生れ)
である。

では、何故そういう関係になったのか?
ゆっくりひもといていこう。
まずはここ10年前後の吉田鋼太郎の活躍を大ブレイクとなったNHKのドラマを中心に観ていこう。
若い頃から端役では映像作品の出演があったが、大役が回ってきたのは2010年代に入ってからである。
TBS日曜劇場の大ヒットドラマ『半沢直樹』(2013年8月~9月)の第2部で、主人公半沢直樹(堺雅人)の上司内藤寛役、

そして、吉田鋼太郎の名前を全国に広めたのが
2014年度前期の朝ドラ『花子とアン』で演じた
九州の炭鉱王伊藤伝右衛門(1861~1947)がモデルの嘉納伝助役である。
吉田鋼太郎が演じた嘉納伝助はいわゆる悪役として配置されたが、それだけではない魅力があった。
脚本担当の中園ミホの構想時には少なかった出番が増えたそうだ。
それ位、金で結婚させられた20歳以上年下の後妻蓮子(仲間由紀恵)が嫌うだけではない人間的魅力に溢れた男を演じて、映像作品で起用したい機会が急激に増えたはずである。
この時、すでに50代になっているから、映像メディアで大ブレイクした俳優としてはかなりの遅咲きである。


ドラマ初主演はフジテレビの名物番組
世にも奇妙な物語 '14秋の特別編「未来ドロボウ」(2014年10月18日)である。
何故、映像メディアではブレイクが遅れたか?
実は売れない俳優だったからではない。
その理由は後述する。

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(『花子とアン』の嘉納伝助を演じる吉田鋼太郎 イラストby龍女)

NHKでの初主演ドラマが、嘉納伝助のモデル伊藤伝右衛門と同じく九州出身の一代で財をなした大実業家の生涯である。

NHKラジオ・テレビを通じて90周年を記念したドラマだ。
土曜20時放送の5回シリーズ『経世済民の男』(2015年8月~9月)が放送された。
昭和に活躍した経済人を3人取り上げたドラマである。
第1作では大蔵大臣を歴任し日本経済の礎を築いた高橋是清(1854~1936)をオダギリジョーが演じた。
安倍晋三元総理大臣が今年の7月8日に暗殺された。
その前の総理経験者の暗殺を遡ると、高橋是清が殺された1936年の2月26日の226事件である。
脚本家はジェームズ三木(『独眼竜政宗』『八代将軍吉宗』『葵徳川三代』)。

第2作は宝塚を始めとする阪急東宝グループの創業者小林一三(1873~1957)を阿部サダヲが演じた。

脚本家は森下佳子(朝ドラ『ごちそうさん』大河ドラマ『おんな城主直虎』)。

そして、最終回の第3部は九州と中部の電力会社・東邦電力(1921~1942解散)の2代目社長で、「電力王」「電力の鬼」と呼ばれた人物だ。
70代となった戦後は電力再編に尽力した松永安左エ門(1875~1971)を吉田鋼太郎が演じた。
脚本家は池端俊策(1946年1月7日生れ)である。

松永安左エ門は、戦中東邦電力を解散させられた後に実業界を引退し、所沢市の柳瀬荘という別荘で隠居生活をしていた。
美術収集家、茶人としても知られ、雅号は耳庵とした。
若いときは美男子だったが、晩年は能面の一種で鬼を表す般若の面そっくりの風貌に変化した。
吉田鋼太郎は、特殊メイクで、実際の松永安左エ門に寄せて演じた。
しかしこの美術収集と趣味には、大きな問題がある。
最も有名な美術番組『開運!なんでも鑑定団』でもお馴染みの依頼人の家族あるあるがドラマのシーンで描かれる。
骨董収集にハマった既婚者の男は、気に入った品があってもなかなか妻には理解されず、無駄遣いにしかみえない。
松永安左エ門(吉田鋼太郎)は、妻の一子(伊藤蘭)にはとにかく頭が上がらない。

その一コマをイラストにしてみた。

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(経世済民の男・第三部『鬼と呼ばれた男~松永安左エ門』の主人公を演じる吉田鋼太郎 イラストby龍女)

ちなみに柳瀬荘を松永安左エ門は1948年に国に寄贈して、後に東京国立博物館の管轄になった。
建物の外観だけは毎週木曜日に見学が出来るそうである。

松永安左エ門の茶人としての活動は、小田原に別荘を作って、小田原三茶人(他は益田鈍翁、野崎幻庵)と呼ばれるようになったそうである。

さて、茶人で松永と聞いて、日本史好きならもう一人重要な人物を思い出した方はいないだろうか?
そう、戦国の梟雄松永弾正久秀(1508~1577)である。
源平合戦時の平重衡(1158~1185)に続く東大寺を焼いた2人目の人物と伝えられてきた。
歴史研究をすすめると、必ずしも松永久秀が直接手を下したそうではなかったらしい。
最新の研究も取り入れた、新しい松永久秀像を演じる俳優として、吉田鋼太郎は選ばれた。
『麒麟がくる』(2020年)の主人公明智光秀(1528~1582 長谷川博己が演じた)は最終的に信長を裏切る事になる。
松永久秀はその前に天下人になっていく信長を裏切った。
明智光秀の動機に大きな影響を与える重要な存在として、出番が多かった。

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(『麒麟がくる』松永久秀を演じる吉田鋼太郎 イラストby龍女)

こうして、脚本家池端俊策(『麒麟がくる』でも脚本を担当)のお陰で、日本史上有名な二人の「松永」さんを演じた事になる。


さて、現在では映像作品でも大活躍中の吉田鋼太郎だが、40代までは主にどこで俳優の仕事をしていたのか?
一気に遡っていこう。

吉田鋼太郎は地元の東京都日野市立第三中学校卒業後、八王子市の全寮制の男子校聖パウロ学園高等学校(現在は男女共学。全寮制と男子のみは2002年に廃止)に進学した。
その在学中に、劇団雲のシェイクスピア喜劇『十二夜』を観て、衝撃を受けたそうだ。
吉田鋼太郎に限らずとも、誰しも高校生の頃に衝撃を受けた出来事に後の人生を左右されるではないだろうか?

吉田鋼太郎が世界で一番有名な劇作家ウィリアム・シェイクスピア(1564~1616)の作品群に出逢った事は、彼の人生を大きく方向付けた。

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(伝ジョン・テイラー作『ウィリアム・シェイクスピアの肖像画』1610年頃を模写 イラストby龍女)

劇団雲とは、戦後(1945年以降)から1960年代前半までの三大新劇(他は俳優座・劇団民藝)の劇団の一つ、文学座から分裂した劇団の一つである。
1963年に設立した。
しかし、二人の中心人物の対立で1975年に解散した。
わずか12年ほどの活動期間しかなかった、今となっては幻の劇団である。

その対立した人物を紹介しよう。
元文学座の文芸部員の福田恆存(1912~1994)だ。
新潮社のシェイクスピアシリーズの翻訳を担当した。

もう一人は、俳優・演出家の芥川比呂志(1920~1981)である。
今や文学賞として日本一有名な芥川賞の由来となった芥川龍之介(1892~1927)の長男である。
「比呂志」とは、父・芥川龍之介の親友であった作家で、菊池寛の「ひろし」を字を変えていただいたそうだ。
菊池寛は、龍之介の死後芥川賞を創設した。文藝春秋の初代社長でもある。

筆者が長ったらしい文の芸能コラムを書くようになったのは、小説家・コラムニスト・評論家でもあった橋本治(1948~2019)の映画エッセイ『虹のヲルゴオル』に高校生時代に出逢ったせいである。
橋本治の他の著書で、題名は忘れてしまった。
とある芸能コラムに、シェイクスピアの四大悲劇のうち『ハムレット』の主人公、デンマークの王子ハムレットを演じた芥川比呂志のすごさを書いていた。
1955年の文学座の舞台で演じたハムレットは伝説になっているらしい。
橋本治が直に観たのだとしたら、まだ彼が小学生の頃である。

吉田鋼太郎が観た『十二夜』の配役や演出は、詳細は筆者には不明だ。
しかし、芥川比呂志は演出家としても定評があったようなので、芥川が演出した舞台だったかもしれない。

吉田鋼太郎は高校を卒業後、上智大学ドイツ文学科在学中シェイクスピア研究会公演『十二夜』で初舞台を踏む。
上智大学は中退したそうだ。
芥川比呂志が劇団名を付けた今ではミュージカルの方が有名な「劇団四季」に6ヶ月在団した。
シェイクスピア・シアター、劇工房ライミング、東京壱組と小劇団を渡り歩いた後、1997年に演出家栗田芳宏と共に劇団AUNを結成、演出も手がける。

芥川比呂志が病気のため演劇そのものに関われなくなった、70年代半ばに入れ替わるようにシェイクスピアの作品群を手がける日本人演出家として名前が上がってきた存在がいた。
それが日本を代表する演出家になる蜷川幸雄(1935~2016)である。
蜷川は四大悲劇の『マクベス』を日本の戦国時代に置き換えた『NINAGAWAマクベス』(初演1980年)で演出家としての名声を獲得した。
しかし、筆者が蜷川演出でシェイクスピア作品を楽しんだのは、NHK芸術劇場の舞台中継で放送された渡辺謙主演の『ハムレット』(1988年)である。
VHSのビデオテープに録画して、数回観た。
舞台装置がひな壇になっている演出が強烈な印象が残っている。
渡辺謙(1959年10月21日生れ)は、直接薫陶は受けていないが、劇団雲解散後芥川比呂志が作った劇団円の劇団員だった。
円の養成所在籍中に、蜷川幸雄演出の唐十郎作の『下谷万年町物語』(1981)で本格的に俳優デビューしたそうなので、演劇の歴史の繋がりを感じる。

蜷川幸雄は、埼玉県川口市出身である。
1994年に開館した埼玉県が管理する彩の国さいたま芸術劇場がある。
1998年から彩の国シェイクスピア・シリーズが始まった。
シェイクスピアの戯曲は公式には全部で37作品あるとされている。
その全作品を当初は13年間で、彩の国さいたま芸術劇場を皮切りに地方巡業へ廻るシリーズであった。
その芸術監督に埼玉県が誇る世界的演出家蜷川幸雄が選ばれた。

藤原竜也も小栗旬も頭が上がらない?吉田鋼太郎が50代になってからメディア露出するようになった理由とは?

(1984年の角川映画『Wの悲劇』で舞台演出家役の蜷川幸雄 イラストby龍女)

吉田鋼太郎がシェイクスピア俳優として、ようやく蜷川幸雄の演出に関わるのは2作のギリシャ悲劇の作品の上演を経た後だった。
主役に抜擢された第13弾『タイタス・アンドロニカス』(2004年1月~2月)まで待つ事になる。
吉田鋼太郎は、蜷川幸雄の芝居にどうしても出たかったそうだが、オーディションに落ちた事もあったらしい。
蜷川幸雄の芝居を観たい演劇ファンは多かった。
毎月のように上演されていて、日本一忙しい演出家だった時期もある。

吉田鋼太郎が俳優になった動機はシェイクスピアを演じられるようになりたかったからである。
俳優としての優先順位が演劇にあった。
蜷川の演出するシェイクスピア劇こそ最も多くの観客に観られる舞台設定である。
そして、2010年代に蜷川幸雄と吉田鋼太郎に起きた大きな変化が遅咲きの映像メディアのブレイクとも関わってくる。
吉田鋼太郎が次に蜷川演出のシェイクスピア作品に関わったのが、第14弾『お気に召すまま』(2004年8月6日~21日)である。
これは出演者が全員男性で構成されていた。
当然女性の役も男性が演じる。
この舞台の主役級に小栗旬が出演した。
シェイクスピア劇が初めての小栗旬に、シェイクスピアの特徴的な詩のような言い回しを慣れさせるために、吉田鋼太郎が指導するように、蜷川幸雄は指示した。

藤原竜也も小栗旬も頭が上がらない?吉田鋼太郎が50代になってからメディア露出するようになった理由とは?

(小栗旬 イラストby龍女)

藤原竜也は、1997年に16歳で寺山修司作の『身毒丸』のオーディションで抜擢された。
蜷川幸雄が育てた俳優の中でも最も純粋培養の存在と言っても過言ではない。
藤原竜也は埼玉県秩父市出身だ。
おそらく西武池袋線を使って池袋に遊びへ行っていたところで、ホリプロの「児玉さん」にオーディションのチラシを渡されてスカウトされたのが、シンデレラボーイの誕生のきっかけになっている。
池袋という土地も演劇やその他の芸術も盛んな街である。

彩の国シェイクスピア・シリーズ2014年の第29弾『ジュリアス・シーザー』で主役のマーカス・ブルータスを演じた
藤原竜也は、蜷川幸雄に
「稽古場では言われ放題でした」
と述懐している。
通常の稽古だけでは足りないと感じた。
共演した吉田鋼太郎と横田栄司に一緒に残って稽古をつけて欲しいとお願いをしたそうだ。

番外編の2015年の『ハムレット』で2003年に演じたデンマークの王子を再び演じるが、師匠である蜷川幸雄との仕事はこれが最後になる。

藤原竜也も小栗旬も頭が上がらない?吉田鋼太郎が50代になってからメディア露出するようになった理由とは?

(藤原竜也 イラストby龍女)

蜷川幸雄は2016年の5月12日に亡くなった。
蜷川幸雄は最後の演出作品、第32弾『尺には尺を』(2016年5月25日~6月11日)の本番を観る事が出来なかった。

蜷川幸雄が演出できなかった5作品を誰が演出するのか?
2代目の彩の国シェイクスピア・シリーズ芸術監督に選ばれたのが吉田鋼太郎である。
晩年の蜷川幸雄からのバトンをしっかり受け継いだ男。

昨年上演された彩の国シェイクスピア・シリーズの最終作第37弾の題名は
『終わりよければすべてよし』である。
主演は藤原竜也である。

ただし、第36弾『ジョン王』(2020年6月8日~6月28日)は新型コロナウイルス感染症の感染拡大の影響により全公演中止になってしまった。
これは、小栗旬が主役の予定であった。
実は小栗旬は生前の蜷川幸雄と喧嘩別れして2010年代の蜷川作品には参加していない。
彼が演じる予定であったジョン王(1166~1216)は、別名失地王と呼ばれ、イングランドの歴史上、最も評判が悪い。
彼が今大河ドラマで演じている北条義時(1163~1224)と同時代人だ。
再び小栗旬がジョン王を演じる機会は訪れるのだろうか?
大河ドラマの後、主役の俳優は大役の疲れでしばらく休む事が多いので、慌てずにゆっくり待つしかないようだ。

藤原竜也も小栗旬も吉田鋼太郎に頭が上がらないのは理由がある。
藤原竜也や小栗旬は子役や若手と呼ばれる時代から俳優をしている。
世間は勝手なイメージで順調にいったようにみえたかもしれないが、実際にはそうではないだろう。
吉田鋼太郎は成人してから俳優として実績を重ねた。
特に俳優が演じて面白いと感じるのは悪役だそうだ。
藤原竜也の映像メディアの代表作『カイジ』(2009、2011、2019)シリーズを見ても、人間のどうしようもなく弱い部分を演じている。

吉田鋼太郎は他のシェイクスピアの作品も含めて、数多くの悪役を務めてきた。
どうやって悪役を演じたら良いのか?
自分なりの答えを見つけ出すためのヒントを与えてくれそうな先輩が吉田鋼太郎ではないのか?

吉田鋼太郎は今でこそ映像メディアに引っ張りだこだ。
40代までは蜷川幸雄の演出でシェイクスピア俳優としてガチガチの舞台俳優だった。
ブレイクが遅れたのはそんな理由がある。
シェイクスピア作品は人間の普遍的な行動を描いてきた凝縮された作品群である。
蜷川幸雄は日本でも最大のシェイクスピアの伝道者であった。
吉田鋼太郎はその役割を継ぐべく、有名になる運命を与えられたのかもしれない。

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