(北条政子を演じる小池栄子 イラストby龍女)
今回取り上げるのは、『鎌倉殿の13人』の第46回『将軍になった女』でいよいよ演じている北条政子が、尼将軍になったからである。
息子の鎌倉幕府三代将軍実朝が暗殺され、正式な4代目鎌倉殿が決まる空位期間があった。
鎌倉殿の代行として、「尼御台」と呼ばれていた政子は後世に語られる文字通りの「尼将軍」になった。
第43回『資格と死角』では政子と弟の時房(瀬戸康史)は熊野詣を口実に上洛した。
鎌倉殿の後継候補に後鳥羽上皇の息子で、実朝の妻・西八条禅尼(ドラマ上では千世)の甥にあたる親王を四代目鎌倉殿にしたい、と嘆願しに行ったのが目的だった。
そこで政子は、後鳥羽上皇の側近である藤原兼子(シルビア・グラブ)と対面する。

(藤原兼子を演じるシルビア・グラブ イラストby龍女)
その時の兼子の褒め言葉が
「東大寺の大仏にそっくり♡」
だったのだ。
仏像好きである筆者は、以前から小池栄子は仏像顔でしかも奈良時代に流行した仏像だと思っていたので
「そうだそうだ(本当は興福寺の仏頭に似ていると思うけど)」
と感心した台詞だ。
ちなみに、政子が上洛した当時(1218年2月)は、興福寺の仏頭は飛鳥山田寺から興福寺の鎌倉再興期の文治3年(1187)に東金堂本尊薬師如来像として迎えられていた。
今残っている頭だけの状態になったのは、応永18年(1411)に堂とともに被災したからである。

(興福寺の仏頭 イラストby龍女)
さて
「東大寺の大仏にそっくり」には、どういう裏の意味があるのか?
この鍵を握るのは、鎌倉武士から度々発注を受けて数々の仏像を手がけた仏師
運慶(?~1224)の作風と大いに関係がある。
そこで次のページでは、運慶について解説する。
小池栄子が北条政子に選ばれた理由の一つが分かるはずだ。
運慶(?~1224)は日本美術史においても重要人物である。

(集古十種から模写した運慶の肖像 イラストby龍女)
概要として日本美術史を習うと、中世まではほぼ仏像の話だ。
それは、世界史的にも宗教にお金と権力が集中していた時代だったからだ。
政教分離と言われ始める近代よりも500年前の世界だ。
日本でも主なパトロンは天皇上皇や貴族から新興勢力である鎌倉武士に変化していた。
当時の芸術家にあたる職業は殆ど仏師だった。
僧侶になって仏教を学ぶ事は、宗教者と言うより当時の最新の技術や情報を入手する手段としても有効だった。
インテリ・技術者階層が僧侶だった。
当時の先進国は東アジアでは、今の中国にあった帝国宋(960~1279)だ。
宋から最新情報が渡るときに重要な役割を果たしたのが、留学した日本人僧か来日した宋の僧である。
運慶以前に有名な仏師は
飛鳥時代(592年~710年)中期の鞍作止利(生没年不詳)
平安時代(794年~1185年)後期の定朝(?~1057)
がいる。
運慶(相島一之)の台詞にあった、親方として弟子に分担させて集団で仏像を制作するやり方は
定朝の時代に確立された「寄木造(よせぎづくり)」技法のお陰だ。
何十分の一の模型の段階からパーツ毎に分けて組み立てる。
巨大化して本番の仏像を作るための準備である。
全体を親方である運慶が組みあがった巨大な彫刻の修正を加えて完成させる。
この方法だと、極めて短時間で巨大な仏像が完成する。
運慶とその工房である「慶派」の代表作が
東大寺の南大門の金剛力士立像(1203年建立)である。
運慶は、元々当時は南都と呼ばれた奈良の東大寺を拠点に活躍した仏師集団の親方だ。
生年ははっきりしないが、1150年前後の生れである事は、1173年生れの長男湛慶(1173~1256)から逆算して分かるそうだ。
若い頃の運慶は、父であり師匠の康慶(生没年不詳。推定1196年以降没)の元で修行した。
生い立ちが分かっていないが、記録が未発見でこれは受注される仏像が少なかったからと考えられる。
平安の末期はまだまだ京都在住の仏師、宇治の平等院の阿弥陀三尊像を造った定朝の孫・院助の系統である院派が幅を利かせていた。
慶派も定朝の孫・頼助の代から生れた系譜だ。
古都である奈良に留まった傍系の仏師集団で、新作の仏像の発注は少ない。
奈良の仏像の修復作業が主な仕事だったと考えられる。
奈良時代の全盛期の文化を東大寺の大仏を建立させた聖武天皇(701~756)の在位期間(724~749)の内最も長かった元号・天平(729~749)から
天平文化と呼ぶ。
奈良時代は仏像の作り方にも大きな革命をもたらした。
金銅仏は仏教伝来した頃(6世紀)から多く作られた。
銅を型に流し込んで、冷えたら表面を金メッキあるいは金箔を貼って完成だ。
非常に高度な金属加工だったので、銅を用いる貨幣製造にも応用できた。
そして日本における最大の金銅仏が東大寺の大仏
正式名毘盧遮那仏である。
大量の銅を少しずつ下から型に流し込み繋げていって巨大な仏像を完成させた。
今では色は落ちたが、完成当時の東大寺の大仏は黄金に輝いていたはずだ。
しかし金属は今でも希少な材料である。
そこで身近にある材料として木が使われた。
平安の初期まで木の仏像は一木造りと大きな木から掘り出して作られた。
しかし、一木造りだけでは巨大な仏像の発注に答えられない。
特に木像で座像を作るときに不便が生じた。
立った姿勢の彫刻だと、大きな丸太だけで形にはなる。
座っていると、手や膝のあたりがはみ出した。
初期は一部継ぎ足しただけだった。
しかしこれだと、寺院に火災が起こると、仏像を避難して持ち運ぶには重い。
内刳(うちぐり)をして軽くする工夫もしていたが、それでも重い。
そこで平安後期に編み出された工法が、寄木造である。
更に簡単に手に入れられた材料が粘土である。
土器や土偶や埴輪が時代が進んで廃れた。
後に土が材料に用いられる場面は食器の等の土器が主流ではあった。
土の出来たモノを塑像という。
奈良時代に作例が多い。
東大寺法華堂(三月堂)の執金剛神立像、日光菩薩像・月光菩薩立像、弁才天・吉祥天立像。
同じ東大寺の戒壇堂にある四天王像も塑像で出来ている。
修復作業に従事していた慶派の仏師達は更に新しい技術を開発した。
塑像の代表例の東大寺の四天王像の瞳には黒い石がはめ込まれている。
これは黒曜石を瞳に見立てて埋め込んだモノだ。
おそらく慶派の誰かが思いついたのが、これを応用した「玉眼」である。
仏像の目をより本物らしくみせるために水晶の板をはめ込む。
内側からはめ込んだ水晶の板に黒く瞳を塗るのである。
現存する最古の作例が、奈良県天理市にある長岳寺の阿弥陀三尊像で、胎内の銘から1151年の作と判明している。運慶の親の世代である。

(相島一之演じる運慶 イラストby龍女)
鎌倉時代の仏像は、よく新しい技法の玉眼やリアルな表現ばかり取り上げる。
古くからあった技術を学んで編み出された事を忘れてはならない。
慶派が鎌倉時代に新しい仏像を残せた理由とは?
源平合戦の中で起こったあの出来事を思い出さずにはいられない。
そう東大寺に起こったあの悲劇である。
1181年1月15日(治承4年12月28日)、平重衡が南都を焼き討ちにした。
東大寺と興福寺は壊滅的な打撃を受けたのだ。
後白河法皇は、俊乗房重源(ちょうげん)を大勧進職に任命し、大仏や諸堂の再興に当たらせた。
1185年4月の壇ノ浦の戦いの後、頼朝の怒りを買った義経。
10月には後白河法皇から頼朝追討の宣旨を受けて挙兵するが失敗する。
義経は、世話になった奥州藤原氏の都・平泉へ逃れるのに山伏の変装をしたらしい。
この時期の山伏の旅の目的が、東大寺の再建を募る書状いわゆる「勧進帳」を持って、資金を集めることだった。
歌舞伎十八番の一つ、『勧進帳』とは、そういう前提で成り立っている芝居だ。
それほど東大寺の再建は、国を挙げた大事業だった。
その時、東大寺の再建に多くの資金を提供したのが
北条政子の夫源頼朝(1147~1199)であった。
1185年には、東大寺の大仏殿は後白河法皇らの列席の下、大仏開眼法要。
1190年には、上棟式が行われた。
1195年には再建大仏殿が完成した。
源頼朝らの列席の下、落慶法要が営まれた。
つまり、藤原兼子が「東大寺の大仏にそっくり」と褒めたのは
「東大寺を再建してくれてありがとう。これからも都の建物が壊れて再建する様な事があったら、またお金出してね」
と再建資金のおねだりをしていたのだ。

(東大寺の大仏 イラストby龍女)
つまり、仏像の歴史から観ると、鎌倉時代とは古い技術を再現するために新しい技術の助けを借りたまさしく仏教のルネサンス(復興)期であった。
最初の東大寺の開眼法要に列席したのは、聖武上皇と共に孝謙天皇(718~770)だった。
孝謙天皇は聖武の娘である。
奈良時代は女性天皇が政治上のトップだった。
鎌倉時代は武士の女性が事実上のトップになった。
東大寺は奈良時代に六十六ヶ国との国府におかれた国分寺の総本山として建立された。
つまり、「東大寺の大仏にそっくり」とは「日本一の女」と言っているにも等しい。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公は北条義時だ。
しかし、義時を主役に導いたのは間違いなく姉の政子が源頼朝の妻だったからである。
ドラマの副主人公とも言うべき政子は、日本一の仏像顔の俳優・小池栄子にふさわしいのだ。
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