山田裕貴は、この冬は
大河ドラマ『どうする家康』
月9の『女神の教室~リーガル青春白書~』
に出演と超売れっ子である。
筆者が山田裕貴を取り上げるのは、初めてではない。

(山田裕貴 イラストby龍女)
【春のイケメン祭り】第1弾で注目株として取り上げた。
山田裕貴は、元プロ野球選手・山田和利の息子である。
山田和利は、現役は中日ドラゴンズ→広島東洋カープの選手だった。
現在は広島東洋カープでコーチをしている
山田裕貴は父の母校でもある愛知の高校野球の名門、東邦高校に進学したが、プロになれるレベルにないと悟り挫折した。
卒業後に入ったのが、演劇学校のワタナベエンターテイメントカレッジである。
日本の芸能界を作った渡辺プロの系列の専門学校だ。
HPを観ると、一番の出世頭な事がわかる。
現在もワタナベエンターテイメントに所属し、俳優集団D-BOYSのメンバーである。
(中略)
大河ドラマも2017年の『おんな城主 直虎』で庵原朝昌役で出ているが、時代劇経験は少ない。
しかし、東映での仕事も多いので、いずれ東映京都制作の時代劇で一度主役をしてほしい。
更に30代の後半あたりに大河ドラマの主役をやってほしい人である。 と書いた。
第2回まで観たところ、想像以上に重要な鍵を握る家臣の役だったので、主役級が演じる重要な脇役であるようだ。
では、山田裕貴が演じている本多忠勝がどれだけ重要か史実と大河ドラマの文脈から探っていこう。
本多忠勝は、三河国の武将である。
日本の古い慣習では、本名を呼ぶことは言霊信仰でタブーとされる。
ドラマの中では通称の「平八郎」で呼ばれることが多いが、以下「忠勝」で統一する。

(山田裕貴が演じる本多忠勝 イラストby龍女)
1543年生れの主君、徳川家康とは5歳年下になる。
徳川家康の有力家臣の一人で、後世徳川四天王と呼ばれる。
他の3人は酒井忠次(1527~1596 大森南朋)
榊原康政(1548~1606 杉野遥亮)
井伊直政(1561~1602 板垣李光人)
である。
『どうする家康』では、第1回は1560年、本多忠勝の初陣である。
松平元康(松本潤)が大高城から逃げようとして、浜辺を歩いていた。
本多忠勝が馬に乗って槍を投げて引き留める。
初登場シーンはなかなか衝撃的だった。
調べていたら、忠勝が槍を使うのに背景が込められている事に気づいた。
忠勝が元々槍が上手いというイメージで語られることはない。
実は槍の名手は、忠勝の育ての親である叔父の本多忠真(1531/34?~1573 浪岡一喜)である。
本多忠勝は徳川四天王のなかでは特に同い年の榊原康政とは仲が良かったそうだ。
第2回は、榊原康政が初登場する。
元康ら岡崎の三河武士団が滞在した大樹寺。
松平家の代々の墓の前で切腹しようとする元康。
本多忠勝は介錯を務めると刀を構える。
ここで忠勝は、自分の生い立ちを語り始める。
祖父・本多忠豊(?~1545)と父・本多忠高(1526?28~1549)は
家康の祖父・松平清康(1511~1535)と父・松平広忠(1526~1549 飯田基祐)を守って討ち死にしたからだ。
この様子を廊下で立ち聞きしていたのが、重臣の石川数正(1534~1609 松重豊)と酒井忠次。
戸が閉まっていてふすま越しに聴いていたのが、榊原康政。
酒井忠次は気配を察して、戸を開ける。
「何者!」
康政はついつい立ち聞きしてしまったこと、寺で勉強中の武家の子息であると伝える。
師匠で大樹寺の住職・登誉天室(?~1574 里見浩太朗)に教えて貰ったある言葉の解釈を語る。
ドラマ上では、榊原康政が家康と交わしたの初めての会話となる。
大樹寺の言い伝えでは、登誉天室本人が家康を説得した言葉として
「厭離穢土欣求浄土」の意味を教えて切腹を思いとどまらせたという。
意味は「汚れた道を厭い離れて浄土のような道を追い求める」である。
極楽浄土のような場所を現実に作る、つまり平和を目指そうという解釈になる。
この8文字は、家康の旗印として有名になる。
「厭離穢土欣求浄土」は、大樹寺の宗派である浄土宗の根本思想である浄土教の理論書往生要集からの引用である。
著者は源信(942~1017)である。
浄土宗とは、この源信の数代後の弟子に当たる、法然坊源空(1133~1212)が開いた宗派なのだ。
回想シーンで家康の幼名で竹千代(川口和空)が
「地獄じゃ」
と、信長(岡田准一)と相撲しながらつぶやく。
当時の人々が共通認識として持っていた地獄像は往生要集の多大な影響下にある。
人が住んでいるこの現世も実は地獄である。
西洋のように天国と地獄ではなく、仏教では六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)の一つにしか過ぎない。
信者達は文字が読めない人も多かったから、往生要集を元にした地獄絵図を見せていた。
家康は、その前に大樹寺で死のうと思ったときに登誉上人に出逢った。
一見関係ない動きが、次なる「どうする」の解決策へ繋がる。
ちなみにかつて京都に「厭離穢土」を店名にしたジャズバーがあった。
筆者は学生時代ゼミの先輩に誘われて、飲みに行ったところ、失敗してしまったことがある。
店内に流れるジャズは官能的な空気を生み出して、まるで浄土であった。
忠勝は、武闘派だった。
一回も戦場で負傷したことがないのが自慢だったそうだ。
これはボクサーが顔面に傷がないことが自慢になることと同じで、攻撃だけではなく防御にも優れている事を示している。
まさに「攻撃は最大の防御である」
関ヶ原以降活躍の場がなくなり不遇だったそうだ。
そこで今に伝わる甲冑姿の肖像画を描かせたが、8回も描き直させたそうである。
その影響だろうか、筆者は歴史上の人物の肖像画の模写をこれまでもしているので、本多忠勝もやってみようと試みたが、かなり時間がかかりそうで難しく、断念した。
では、今回の山田裕貴の起用に関わる過去に大河ドラマで本多忠勝を演じた人物が今回他の役で登場している。
どういうことなのか?
次の頁で考えてみよう。
本多忠勝は、1610年に家康よりも先立った。
ところが、家康の最後のピンチにも大きく関わっている。
信長の死後に、ある有力大名と婚姻関係を結んだからだ。
信濃の大名・真田信之(1566~1658)に、娘の小松姫(1573~1620)を主君・家康の養女として結婚させた。
真田信之とは、後に真田幸村として知られる、真田信繁(1567~1615)の兄である。
さて、この辺が詳しく出てくるのが2016年の大河ドラマ『真田丸』である。
この時に本多忠勝を演じたのは、
藤岡弘、(1946年2月19日生れ)である。

(『真田丸』で本多忠勝を演じた藤岡弘、 イラストby龍女)
真田信之を演じたのは大泉洋だから、怖い舅にビクビクしながら演じる様は
「実に面白い」(大泉洋の福山雅治のものまねで読んでみて下さい)
藤岡弘、は晩年の本多忠勝を演じているので、既に武人として評価が定まったイメージである。
山田裕貴は、初陣の13歳から演じるので、家康役の松本潤と共に一生を演じることになる。
つまり、本多忠勝はいかに戦国最強の武将となったのか?
サブストーリーとして、成長していく忠勝のドラマを楽しむことが出来る。
さて、藤岡弘、は『どうする家康』にも出演している。
役柄は織田信秀(1510~1551)である。

(『どうする家康』の織田信秀を演じる藤岡弘、 イラストby龍女)
言わずと知れた織田信長(1534~1582)の父だ。
2020年の『麒麟がくる』では高橋克典が演じ、実は信長の功績は信秀の功績の継承だったことを明らかにしている。
『どうする家康』で、信長を演じるのは岡田准一(1980年11月18日生れ)。
主演俳優でアクション監督も出来る千葉真一・真田広之系のアクションスターがまさかのジャニーズに爆誕した。
岡田准一は、SPシリーズ(2007~2015)の主演をきっかけにフィリピンのカリ、ブルース・リーのジークンドーのインストラクターの資格を持った。
藤岡弘、は武道家の家に生まれ、空手柔術忍術を身につけ初代仮面ライダーで日本を代表するアクションスターでもある。
山田裕貴の俳優デビューも『海賊戦隊ゴーカイジャー』で特撮アクションからキャリアをスタートさせている。
岡田准一の信長を藤岡弘、の父親で格闘技親子、まるでグラップラー刃牙のようである。
藤岡弘、は若い頃大河ドラマで織田信長を演じている。それも2回。
1981年の『おんな太閤記』、1989年『春日局』である。
これはどちらも脚本家橋田壽賀子(1925~2021)の作品である。

(橋田壽賀子 イラストby龍女)
橋田壽賀子にキャスティング権があったかどうかは分からないが、織田信長のイメージは藤岡弘、だったのだろう。
しかし、橋田壽賀子の代表作と言えば『おしん』(1983年4月~1984年3月)。
史上最高視聴率を記録した朝ドラの金字塔である。
実は1983年の『徳川家康』は『おしん』と同じ年の大河ドラマである。
そうした歴史の背景もあって、『どうする家康』は、大河ドラマでありながら朝ドラの影響を強く感じさせる。
大河ドラマをもっと身近な共感できる現代劇に近い作りにするには、女性が活躍した近現代史を描く朝ドラっぽさが必要である。
『どうする家康』のナレーションは、家康の故郷岡崎を舞台にした朝ドラ『純情きらり』でヒロインの姉役を演じた寺島しのぶである。
SNS上では、あまりにお芝居臭い寺島しのぶのナレーションは、実は春日局が家光に語っている神君家康の英雄譚ではないかと考察されている。
実は『どうする家康』のノベライズが既に出版されている。
既にプロットは完成しているはずなので、それを元に脚本化するのが古沢良太で、小説化した人物が木俣冬だ。
木俣冬はテレビドラマのノベライズを数多く手がけているのだが、以前筆者が参考文献に購入した著書がみんなの朝ドラ(2017 講談社現代新書)である。
山田裕貴と藤岡弘、の共通点は、身体能力の高さだけではなかった。
朝ドラにも出演している。
藤岡弘、は1999年度後期の朝ドラ『あすか』で竹内結子(1980~2020)扮するヒロインあすかの父親・宮本禄太郞を演じた。
職業は和菓子職人であった。
これは、藤岡弘、の母親が茶道の師範だった事が大きい。
茶道と和菓子は切っても切れない関係だ。
藤岡弘、の生真面目さは、職人気質にも見える。
山田裕貴は朝ドラの『なつぞら』で帯広の菓子屋雪月の一人息子・小畑雪次郎を演じた。
これも和菓子職人だ。
ここで茶道というキーワードが出てきたが、山田裕貴は茶道に関する作品にも出ているのである。
さて次の頁ではその作品『嘘八百 京町ロワイヤル』について詳しく観ていこう。
先週取り上げた『嘘八百』シリーズでは結局佐々木蔵之介の実家にスポットを当ててしまい、肝心の映画のメインになる抹茶碗の話が中途半端になってしまった。
今回は、題材となる茶碗の本物が出来た時代が、『どうする家康』の時代でもあるので、続きに触れておきたい。
嘘八百の第2作は、京都の祇園周辺が舞台である。
祇園は四条通りと西大路通が交差するところにある八坂神社周辺を差す地域である。
八坂神社は明治時代以前は『祇園社』と呼ばれていた。
神仏習合で寺でもあり神社でもあったことが、「祇園」という言葉に入っている。
「祇園」とは「祇樹給孤独園精舎」を略した「祇園精舎」としても知られている。
元々インドにある「アナータピンディカ園」を鳩摩羅什(344~413)が漢訳したのが「祇樹給孤独園」である。
お釈迦様と弟子の雨季の修行の場として、富豪のアナータピンディカ(スダッタ)が提供した土地に建った寺院を指す名前だった。
筆者は大谷大学の在学中に、インドの研修旅行で現地を訪れている。
非常に瞑想するのに涼しくて過ごしやすい場所であった。
そこになぞらえた地名なのである。
こうした聖地と呼ばれるところは人が集まる繁華街にもなるので、京都の芸子・舞妓の街として知られるようになった。
祇園の茶屋町の中心、花見小路通りの南にある大きな寺院が建仁寺である。
初代の住職は宋に留学して禅の一派臨済宗を日本に広めた栄西(1141~1215)である。
茶自体は奈良時代や平安初期にも伝わっていたとされるが、本格的に喫茶文化を伝えたとされるのが栄西である。
建仁寺の寺領を提供したのは、鎌倉幕府2代将軍源頼家で、3代将軍実朝が酒で二日酔いしたときに栄西は茶を勧めたという。
筆者は実は酒を飲んで記憶を失ったことがない。
それは肝臓が強い訳ではない。
健診では脂肪肝と注意されている。
しかし、記憶を失わないのにはコツがあって、飲み過ぎそうになると、酒からお茶に切り替えるようにしていたからである。
今でも、お茶は酒の酔いを覚ますのに役立つ。
祇園や建仁寺を南下すると、清水寺が有名な五条坂周辺である。
ここには清水焼と呼ばれる京焼の一種の作陶が出来る場所も近い。
筆者は茶道は素人だが、京都陶磁器会館で、野点(外で点てるお茶のこと)用のおかめの絵が描かれた小ぶりの抹茶碗を購入したことがある。
山田裕貴が演じたのは、 陶芸王子と呼ばれる若手陶芸家の牧野慶太である。
鑑定番組『あなたのお宝みせてぇな』のリポーターとしても人気のタレント性を持ったイケメンの役である。
映画の中で、写真集まで作った細部の凝り様である。

(「陶芸王子」牧野慶太の1st写真集の1カットを引用 イラストby龍女)
若き日の野田佐輔(佐々木蔵之介)同様、骨董商(加藤雅也と竜雷太)に精巧な写しの茶碗を作らされ、偽物としてあくどい商売の片棒を担がされていた。
『嘘八百 京町ロワイヤル』の重要なアイテムになる抹茶碗は織部焼である。
1591年に秀吉が千利休に切腹を命じた後、天下の茶頭を務めたのが大名で千利休の高弟だった古田織部(1543~1615)である。
古田織部は本業は秀吉・家康に仕えた一万石の大名である。
従って、古田織部大名茶人と呼ばれているが、一般名詞では数寄者(すきしゃ)と言われる。
『嘘八百』の第1作で、野田佐輔の一家がすき焼きを食べているシーンがあった。
すき焼きの「すき」は、諸説あるがこの映画では「数寄焼」と洒落ているのだろう。
京町ロワイヤルの発端は、橘志野(広末涼子)という美人が祖父がもっていた鑑定額約5000万円の織部焼の「はしかけ」を取り戻して欲しいと持ちかけたところにある。

(『嘘八百 京町ロワイヤル』に登場する織部焼「はしかけ」 イラストby龍女)
広末涼子演じる美女の下の名前が志野 なのは、有名な美濃焼の一種で、白い釉薬が特徴である志野焼からきている。
志野は志野宗信(1443?~1522?)という室町幕府の同朋衆(将軍の下で芸能に優れた者)が作らせたという。
千利休の祖父は千阿弥(生没年不明)と言う同朋衆で、志野宗信と同時代人らしい。
志野焼は、織部の前に流行した焼物である。
— 龍女の道楽記 コラム『なんですかこれは』専用アカウント (@asenatamako2021) January 7, 2023
筆者はそんなに詳しくはないが、抹茶を飲むために練習で買ったこの茶碗は、志野焼ではないだろうか?
詳しい方にご教授願いたい。
さて、同じく美濃焼で古田織部が作らせたのが織部焼である。
古田織部は、大坂の陣で東軍に属していたが、豊臣方に通じていると疑われて切腹した。
つまり、真田信繁が討ち死にしたのは1615年の6月3日。
古田織部が切腹したのは、1615年の7月6日。
およそ一ヶ月違いである。
大坂の陣の戦後処理によって、古田織部は死を家康から賜り、織部焼の流行が終わるのは、大坂の陣の終結がきっかけだったようだ。
さて、筆者が山田裕貴が本多忠勝役を演じるご縁の最後の決め手とみる志村けんについて、徳川家康との関係について、紐解いていこう。
『志村けんとドリフ大爆笑物語』(2021年12月27日 フジテレビ)
志村けん(1950年2月20日生れ)は、2020年3月29日に新型コロナウイルス感染症による肺炎で亡くなった。
ドラマは、所属事務所のイザワオフィスが企画した。
公式の追悼番組の中のTVドラマであった。
年末に、ドリフのコントの傑作選と共に放映された。
山田裕貴は、志村けん役に抜擢されたのである。
山田裕貴と志村けんとの繋がりは芸能界の歴史にも通じている。
ザ・ドリフターズの源流は大学生のバンド活動である。
しかし、大学を卒業したのは荒井注の二松学舎と仲本工事の学習院と高木ブーの中央だけである。
他のメンバーは高校までだ。
志村けんは、高校時代はサッカー部だった。
志村けんの笑いは、バンドマンの集団ザ・ドリフターズで鍛えられた間で絶妙なリアクションの芝居が基本にある。
それは文化系の笑いだけではない。体を張った言葉以上に分かり易い表現である。
山田裕貴も高校時代まで野球で鍛えた身体能力を基本に、文化系の笑いも交えた体を使った表現が出来る。
山田裕貴は、ザ・ドリフターズの古巣、渡辺プロが作った
ワタナベエンターテイメントカレッジ出身である。
渡辺プロの新人育成機関としては、かつては有限会社東京音楽学院の選抜メンバーで構成されるスクールメイツだった。
ドリフ大爆笑のオープニングで、バックで踊っているのがスクールメイツだ。
ここからスターにのし上がったのが、キャンディーズで『8時だよョ!全員集合』のアシスタントをしていた時期がある。
早稲田大学からジャズ・ミュージシャンになった渡辺晋(1927~1987)が起こしたのが渡辺プロである。
ザ・ドリフターズは、看板グループクレイジーキャッツの後輩バンドとして宣伝されて、プロデビューした。
志村けんは、本名ではない。
ザ・ドリフターズのメンバーは下の名前だけ芸名なのである。
きっかけはクレージー・キャッツのリーダーハナ肇(1930~1993)が初対面の時に、いかりや長介に芸名を付けたのが始まりである。
いかりや長介(1931~2004 遠藤憲一)は、長一。
荒井注(1928~2000 金田明夫)は、安雄。
仲本工事(1941~2022 松本岳)は、興喜。
高木ブー(1933年3月8日生れ 加治将樹)は、友之助。
加藤茶(1943年3月1日生れ 勝地涼)は、英文(ひでゆき)

(『志村けんとドリフ大爆笑物語』の一場面から イラストby龍女)
そして、志村けんの本名は康徳(やすのり)である。
これは、徳川家康の徳と康を貰って、順を逆にした。
芸名の「けん」は父親の「憲司」からとっている。
志村けんはザ・ドリフターズのメンバー中最年少だった。
バンドマンの世界では、楽器の機材を運ぶ「ボウヤ」と言う付き人がいて芸人の世界の弟子に相当する。
数年が経って、コンビでマック・ボンボンを組んでみたが、すぐに解散した。
その矢先の出来事だった。
メンバー最年長の荒井注が売れすぎて多忙のため疲労困憊になり、脱退することになった。
ドラマでは全員集合の中で、交代の挨拶をするシーンが完全再現されている。
監督・脚本(佐藤さやかと共同)は福田雄一(1968年7月12日生れ)である。
福田雄一は当コラムでは、第1回で取り上げた映画作品『新解釈三国志』の監督・脚本家でもある。
晩年NHKのコント番組『となりのシムラ』で仕事をしている。
全6回の内、第1・2回で関わっている。
『新解釈三国志』の冒頭に登場する西田敏行の大学教授は、ドリフ大爆笑のもしもシリーズに出てくるいかりや長介の語りから、影響を受けているようだ。
『志村けんとドリフ大爆笑物語』は、クイーンのフレディ・マーキュリーの伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』のように、その場面の完全再現は試みるがものまねに振り切らないように微調整して演出されている。

(若い頃の志村けん イラストby龍女)
しかしすぐに荒井注の抜けた穴は埋まらず、受けない日々が続いた。
突破口は「東村山は田舎だ」と下町の墨田区出身のいかりや長介に言われて、からかい半分に返した郷土の歌だった。
それが1976年の3月、全員集合の少年少女合唱団で披露された東村山音頭である。
元々は1963年東京オリンピックの前年に町おこしのために企画された曲だった。
民謡出身で全盛期だった流行歌手の三橋美智也(1930~1996)と下谷二三子が歌った。
地元の東村山で、徳川家康と関係のある地名と史跡が二つある。
板碑で元弘三年斎藤盛貞等戦死供養碑だ。西暦に直すと1333年で、鎌倉幕府が滅びた年である。
東村山音頭の元々の歌詞にある「久米川古戦場」と言う史跡と関係がある。
ここは、倒幕のために新田義貞(1301~1338)が駆け抜けた鎌倉街道の一部である。
戦いの犠牲者の供養塔として、徳蔵寺に保管されている。
徳川家康の時代よりも古いのになんの関係があるのか?
新田義貞はもともと室町幕府初代将軍足利尊氏(1305~1358)のライバルだった。
「徳川」とは元々新田氏の分家の家名だった。
家系改ざんとは観られているが、家康は、徳川家の権威づけのために新田義貞の事蹟を遺すように家臣に命じたと思われる。
もう一つは、「鷹の道」と言う街道名で、歴代将軍も鷹狩りで使っていた通り道だが、おそらく家康時代からではないだろうか?
志村けんの家名である「志村」は元々甲斐国にルーツがあるらしい。
人気バンドフジファブリックのヴォーカル志村正彦(1980~2009)は山梨県出身で、親戚ではないだろうが、志村のルーツは現在の山梨県に存在している。
志村一族は、武田家の滅亡に伴い一部は徳川家の家臣になって武蔵国に移住した。
現在でも、東村山に志村を名乗る一族は多く、安土桃山時代から江戸初期に移り住んだ子孫とみられている。
そこまで自分のルーツを知っていたわけではなかっただろうが、志村けんの有名キャラクターの一つ、バカ殿様の設定に徳川家康の影響は見て取れる。

(バカ殿様 イラストby龍女)
バカ殿様は、江戸時代の架空の藩、志村藩の藩主で、フルネームは分からない。
本多忠勝を最初に紹介したように、本名を直接呼ぶことは日本古来の慣習ではタブーである。
しかし、バカ殿の名前の一部は分かっている。
バカ殿には必ず幼少時代のコントが出てくる。
そこでは、竹千代と呼ばれている。
これは徳川家康の幼名であり、3代将軍家光も竹千代という幼名を与えられている。
山田裕貴の出身は、愛知県名古屋市である。
晩年の志村けんは舞台「志村魂」で座長を務め、全国を回っていた(2006~2019)。
その内2017年までは名古屋圏の公演は、中日劇場で行われていた(2018年3月に閉館)。
筆者はその公演があったある年の夏、地元にある和菓子屋で買い物をしていた。
その店名は、餅萬と言って、先代の社長は志村けんの同級生である。
店内にはイートインがあったので、そこで買ったお菓子を食べてお茶を飲んでいたところ、段ボールがおいてあった。
宛先を観ると、「中日劇場」とある。
それは志村けんが座員達に向けての差入をおくる直前の様子だったのである。
餅萬の名物は『だいじょうぶだァー饅頭』だ。
筆者のオススメは地元の酒蔵、豊島屋酒造の「東村山」を使った地酒 酒まんじゅうである。
和菓子、藤岡弘、志村けん。
この3つの要素が山田裕貴のまさかの本多忠勝役へのご縁だった。
ますます、『どうする家康』のサブストーリーとしての本多忠勝の活躍から目が離せなくなった。
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