宮沢賢治(1896~1933)の生涯を父政次郎(1874~1957)の視点で描いた作品だ。
(宮沢賢治 イラストby龍女)
筆者は映画を観る前日の5月8日に、第158回直木三十五賞を受賞した
門井慶喜(1971年11月2日生れ)の原作を急いで読んだ。
受賞した当時(2018年)単行本を購入したが、自宅で探しても見つからなかった。
電子書籍で改めて購入した。
筆者はベッドでタブレットをスクロールしながら涙が溢れて仕方が無かった。
素晴らしい小説だった。
430頁を2時間8分に脚色するに当たっては、省略しなければならない部分もあって、原作原理主義に立ってしまうと文句が出るかもしれない。
筆者自身はシナリオを勉強した経験もあり、原作の要素をどう集約したかに関心があった。
結論から先に言うと、この映画版を描き直した演劇が観たいと思った。
あらかじめ言っておくが、今年は宮沢賢治の没後90年を記念して数々の作品が生れている流れもあって『銀河鉄道の父』は先に演劇化されている。
残念ながらその舞台は未見だ。
チラシによれば会話劇だったそうだが、原作を舞台化するにはどうしても台詞の文量が多くなるのは仕方が無い。
あくまでも筆者が観た範囲内の話として、その点は考慮してもらいたい。
その理由についてはネタバレがどうしても必要なので、次の頁で詳しく述べていこう。

(坂口理子 イラストby龍女)
今回、『銀河鉄道の父』を脚色したのは、原田芳雄の遺作『大鹿村騒動記』(2011)の原案になったNHKの第31回創作テレビドラマ大賞(最優秀賞)を受賞して、NHK長野局で映像化された
『おシャシャのシャン!』(2008)で業界デビューした
坂口理子(1972年5月16日生れ)である。
このデビュー作のお陰で、『かぐや姫の物語』で高畑勲監督の共同脚本者に選ばれた。
今回、坂口理子が脚色する事になったのは
宮沢賢治のファンある事が、『銀河鉄道の父』の製作者に知られていたからである。
自ら所属する演劇ユニット・テトラクロマットで賢治の没後80年を記念した2013年に『銀河廃線~あの夜、僕は汽車から降りた~』と言う舞台を上演している。
これも未見である。
筆者には脚本家・坂口理子のこれまでの映画脚本の流れで観た場合、今回の『銀河鉄道の父』は竹取の翁が主人公の『かぐや姫の物語』と言う構造になっていると考えた。
『かぐや姫の物語』は、かぐや姫が竹から生れて、月へ帰っていくまでの話で、今回の『銀河鉄道の父』と構成が同じシナリオなのである。
つまり、かぐや姫を宮沢賢治、竹取の翁を政次郎に変えると、大枠のシナリオは全く同じになる。
賢治が誕生と死を鉄道のシーンで挟んで終わる構成が見事と言うほか無い。
筆者は沢山観る習慣を持たないため、坂口理子の脚本作品を全て追い切れていないが、少なくとも『かぐや姫の物語』は大好きだ。
学んでいたシナリオセンターで講演が行われていた時には持ってきた映画のパンフレットにサインをして貰った。
『かぐや姫の物語』のもう一つの特徴は、かぐや姫をフェミニズム視点で、描いているところだ。
かぐや姫がプロポーズする3人の貴公子に対して無理難題を押しつける理由が、単なる傲慢と言うより、結婚制度によって奪われる自由によって、竹取の翁が考える幸せが姫自身の幸せとは限らないと描写されている。

(トシを演じる森七菜 イラストby龍女)
この役割は、宮沢賢治の亡くなる約10年前に先立たれた妹・トシ(1898~1922)が担っている。
彼女の死は『永訣の朝』と言う詩に結実したので、宮沢賢治を読んだことがある人ならよく知られていることだろう。
近年の研究によって彼女も非常に文才があったことが分かった。
原作もそれを踏まえて、詳しく描写されている。
トシの有能さを映像で再現するのが分かるシーンがある。
政次郎が最初賢治の進学を反対していたのに、トシの説得で賛成することに変化する。
政次郎が賢治に喋る時に右手で天を指さす仕草は、トシの受け売りと言う流れだ。
賢治以外にも宮沢家の家長だった政次郎に影響を与えたと言う指摘がフェミニズム視点である。
トシが元気だった頃(岩手県立花巻高等女学校の教師時代)は賢治は彼女の文才を認めていた。
いくら彼女に執筆を勧めても中々書こうとしなかった。
当時の岩手のエリート層には10年年上に
石川啄木(1886~1912)がいた。
啄木と同い年に柳田国男の『遠野物語』に多大な影響を与えた
佐々木喜善(1886~1933)がいたりと、文学が盛んな地域である。
賢治が遠慮してしまうのは当然の時代の空気でもあった。
こうした芸術作品は何か触発される出来事が起らないと中々生み出されるのは難しいことも描かれている。
又この原作の脚色として大きな特徴は、トシの死は史実に忠実で賢治の死はフィクションを選択した描き方だ。
この映画の中で政次郎は賢治が遺した手帖に書かれた『雨ニモマケズ』を朗読する。
これは、賢治の文学を伝えた政次郎とその家族が題材の主旨になっているので、賢治の作品を朗読して欲しいと言う意図がありありと窺えるのだ。

(宮沢賢治を演じる菅田将暉と父・政次郎を演じる役所広司 イラストby龍女)
また映画を観た全体の印象としては、宮沢賢治の文学は主に童話なので、
声を出して読みたい作品の数々が多く、元々も演劇との相性が抜群である。
筆者は、母が岩手の県北出身(朝ドラ『あまちゃん』の舞台、久慈市の隣・野田村)のため、県南の花巻と少々方言が違うことも知っている。
台詞に出てくる「なじょした(どうした)」は
親戚がよく使っていたのは「なじょしたじょ」と実際は語尾が多少異なる。
出演者の方言のアクセントの再現は、全体的イマイチだったと厳しい感想を持っている。
比較的菅田将暉が上手くみえたが、あくまでも程度の問題である。
なんせ、宮沢賢治の詩の朗読に関して
岩手県盛岡市出身の俳優、文学座出身の長岡輝子(1908~2010)という偉大な先人が存在するのである。
また、賢治は国柱会という日蓮宗系の新興宗教にはまってしまい、真宗大谷派の熱心な門徒だった政次郎と対立する。
これに関しては、まず筆者の親戚に国柱会に影響を受けた日蓮宗系の新興宗教・創価学会の信者がいる。
更に筆者自身は政次郎が信仰していた真宗大谷派が経営する大谷大学の仏教科の中国仏教専攻であった。
法華経をテキストに勉強していて、この両者の宗教上の対立を詳しく知っていた。
そのシーンをもっと観たかった不満もある。
シナリオ上では少し触れていただけだし、政次郎の信仰が消極的にみえる印象が史実と異なる。
宗教対立のシーンは会話の方では無く、喜助の葬式とトシの葬式の変化によって表現していた。
原作ではこの対立の描写が過不足無く書かれていたので、筆者は門井慶喜の取材力に感動した。
しかしそれでもこの映画が素晴らしいと思ったのは、一人の天才が後世に名を残すためには家族の存在が不可欠だという主旨が伝わったからである。
監督の成島出(1961年4月16日生れ)のアイデアだろうが、明治・大正・昭和で移り変わる様子が、ろうそく→ガス灯→電球で表現した様子が、宮沢家の世代が田中みん(氵に民)演じる初代の喜助→2代目政次郎→豊田裕大演じる3代目清六(賢治の弟)と対応している。
これは小説で強調されている本の読み方によって分かる時代の変化、音読→音読+黙読→黙読から音読に回帰だけでは時代の移り変わりを表現しきれない。
映画ならではの表現で良かった。
主役が無名塾(2022年6月22日のコラムを参照) 出身の役所広司なので、演技全体の熱量からまるで新劇の芝居を観ているかのような印象を持った。
従って、どこか大きな新劇の劇団が坂口理子が映画版の始まりと終わりのシーンを残して、あらためて演劇用に脚色した『銀河鉄道の父』を上演して欲しいと心から思った。
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