岡田准一(1980年11月18日生れ)が演じた織田信長(1534~1582)である。
(岡田准一 イラストby龍女)

(狩野宗秀が描いた長興寺の織田信長の肖像画の模写 イラストby龍女)
今回取り上げるのは大河ドラマ『どうする家康』で、天正10年6月2日(西暦1582年6月21日)未明におきた日本史最大の謎
第28回の『本能寺の変』が放送されたからである。
岡田准一がどういう解釈で彼なりの織田信長像を作り上げたかを振り返っていこう。
織田信長は、日本史でも屈指の人気キャラクターである。
しかし、筆者は1983年の大河ドラマ『徳川家康』にハマって以来の徳川家康ファンである。
今回の家康目線の怖い信長には共感しまくりなのである。
京都には、織田信長を祭った建勲(たけいさお)神社と言う場所がある。
筆者は「けんくんじんじゃ」と呼んでいた。
筆者の母校、北大路烏丸にキャンパスがある大谷大学からも近い
北区紫野北舟岡町標高111.7m船岡山の東南に敷地がある。
在学中、当時の友人と3人で階段を上ってお参りに行った。
途中で、段差につまづいて、左のくるぶしをひねってしまったことがある。
元々信長が何となく苦手だった。
母校は信長と長年戦った石山本願寺の分派で江戸時代に東西分裂した東の方
真宗大谷派系の大学だ。
筆者の父方は代々西の方の浄土真宗本願寺派の檀家である。
その影響を何となく受けていたことに気づいた。
「信長が嫌いなのがバレて、お仕置きされたか…」
と妄想してしまったくらいである。
そんなオカルトチックなお話はともかく
次の頁からは、日本映画界を代表する主演俳優でもある岡田准一がどうやっていわゆる
「岡田信長」を構築していったか?
どうする家康「本能寺の変」直前SP
「信長・岡田准一 安土城の地・近江八幡で語る」
(NHKプラスで期間限定で観られる)
に基づいて、筆者なりに要点をまとめてみた。
岡田准一の織田信長の役作りにおいて、どうしても不可欠な人物がいる。
人物デザイン担当の柘植伊佐夫(1960年1月27日生れ)である。

(柘植伊佐夫 イラストby龍女)
長野県伊那市出身で、1979年に隣の南箕輪村の『カットスタジオソヤ』から始まり1982年に都内で大手美容チェーンの『モッズヘア』へ移籍した。
キャリアの始まりはヘアメイクアーティストである。
『ヴォーグ』『エル』などのファッション雑誌や三宅一生などのヘアメイク担当を歴任した経験から、服の方にも詳しくなった。
1999年、手塚眞監督の『白痴』(坂口安吾原作)から映画全体のヘアメイク担当になる。
2010年前後から、カツラ・ヘアメイク・特殊メイク・衣装を総合的に統括する
人物デザインと言う新しい役職を提示するようになった。
2010年の大河ドラマ『龍馬伝』で抜擢された。
特に強烈だったのは『龍馬伝』の副主人公である。
子孫から「こんなに汚くなかった」とクレームがついた
香川照之が演じた三菱財閥の創業者岩崎弥太郎(1835~1885)の事である。
郷士の中でも借金まみれで貧しかった男が出世して行くにつれ、徐々に綺麗になっていく様子が見た目にも分かり易かった。
2012年の大河ドラマ『平清盛』以来、3度目の大河ドラマでの人物デザイン担当である。
イラストは、平清盛が「無頼の高平太」と呼ばれていた少年時代である。
平家の本拠地、瀬戸内海の海賊を従えた平安末期の番長のイメージである。

(松山ケンイチが演じる「平太」時代の清盛 イラストby龍女)
筆者がコラムで取り上げた作品の中では高橋一生主演の『岸辺露伴は動かない』シリーズである。
荒木飛呂彦原作の漫画をいかに実写作品として成立させるか?
岸辺露伴の服やヘアバンドの色を変えるなど、実写の色味と違和感のない変更点を加えている。

(高橋一生の岸辺露伴 イラストby龍女)
次の頁では、これまで時代劇の定番で描かれた信長像とどこが違うのか?
大きな3つの特長を挙げる。
ただでさえ型破りのキャラクターと言われる信長のどの定番を外したのか?
ジャニーズの先輩木村拓哉が初めて信長を演じた『織田信長 天下を取ったバカ』や
40年前の『徳川家康』で織田信長を演じた役所広司とも見比べてみよう。
①うつけ者(不良少年)時代のあの格好ではない
歴代の織田信長を演じた俳優が「うつけ者」と呼ばれた時代の格好と言えば
髪は茶筅髷
虎皮を染め合わせた半袴
腰の周りには火打ち袋や瓢箪をいくつもぶら下げる
この三つが大きな特徴である。
イラストの木村拓哉の織田信長は体全体を描かなかったので、わかりにくいかもしれないが、この三つをアレンジした衣装である。

(『織田信長 天下を取ったバカ』の木村拓哉 イラストby龍女)
柘植伊佐夫と岡田准一が話し合って決めた事は、赤色と袖なし小袖は元ネタから残すことだった。
岡田准一と織田信長の接点は、格闘技好きだ。
織田信長は相撲好きで知られている。
岡田准一は『フライ,ダディ,フライ』(2005年7月9日公開)の主演でボクシングを身につけた高校生役を演じたことが本格的なきっかけになった。
原作者の直木賞作家金城一紀が脚本家として企画したフジテレビの深夜ドラマ
『SP 警視庁警備部警護課第四係』(2007年11月~2008年1月)とその劇場版(2010・2011)の準備段階から参加している。
ブルース・リーが創始者の総合格闘技截拳道(ジークンドー)
初代タイガーマスク佐山聡が創始した総合格闘技修斗
フィリピンの武術カリ・シラット
三つの師範の免許を取った。
現在は、自ら主演する映画・ドラマのアクション監督まで務めている。
『どうする家康』では、松本潤が家康役をオファーされたときに相談したのが
ジャニーズ事務所の先輩で、大河ドラマ『軍師官兵衛』(2014)で主演を務めた岡田准一だった。
信長を演じることになったのは偶然だったようだが
家康は幼名の竹千代時代に初めて信長に会ったときから、虎の穴のような地獄に放り込まれる。
文字通りの「かわいがり」を受けるのである。
信長の周りには国衆と呼ばれる小領主達の次男三男が馬廻り(親衛隊)を務める
赤母衣衆と黒母衣衆がいた。
柘植伊佐夫はそこからヒントを経てうつけ者時代の信長のイメージカラーを赤にした。

(少年時代の赤い服の信長 イラストby龍女)
上半身は小袖と言って室町中期から庶民が来ていた上着を、上流階級の上着にも取り入れ始めたのが信長と言われている。
平安時代には12単衣の下着と言う認識の着物だった。
時の権力者は、ファッションリーダーでもある歴史がある。
とんがっていた若い頃は小袖どころか袖を付けていないのは信長の合理性も表している。
岡田准一は更に大人になって家康と再会しても、徐々に出世して新しいファッションを取り入れても動きやすい服として下半身は袴にしたいと言ったそうだ。

(真紅色絹朱子袖なし小袖に濃紅色柄織小袴 イラストby龍女)
次の頁では、大人になった信長の人物デザインを見ていこう。
②ちょんまげが江戸時代に先駆けている
柘植伊佐夫は前の頁で触れた馬廻り衆の「黒母衣衆」をヒントに岡田信長が成人してからのイメージカラーは黒にした。
桶狭間の戦いの直後に久々に再会するときである。
史実の信長の格好というよりは家康が抱く信長の怖いイメージを優先して、イラストの信長の衣装は後の時代の南蛮風のファッションを少し取り入れている。

(桶狭間の戦いの直後 イラストby龍女)
仏教伝来の頃には伝わっていたが僧侶が頭の毛を剃るために用いた仏具だった剃刀を一般庶民が使うきっかけを作ったのが信長である。
月代(さかやき)と呼ばれる武士独特のヘアースタイルを整えるためである。
江戸時代になって、元服後は前髪を剃って、月代をするようになる。
前髪を剃らないでオールバックのようにまげを結った状態の髪型を総髪(そうはつ)というが、これは室町時代までは一般的な男性の髪型である。
従来のイメージの茶筅髷ではなく、総髪からのちょんまげとしたのは信長の性格の中の新しもの好きをより強調した人物デザインだ。

(岡田准一の月代姿 イラストby龍女)
③出てこない人物・エピソードがある
1983年の『徳川家康』での本能寺の変と比べてみよう。
織田信長(役所広司)は外の不穏な物音に気づいて起きる。
小姓と濃姫(藤真利子)と一緒に戦う。
信長は濃姫が討ち死にしたのを見届けて自害する。
『どうする家康』では、濃姫どころか最も愛した側室と言われる生駒吉乃すら出てこない。
さて他に気になる点と言えば、役所広司の信長は月代の茶筅髷ではなく総髪の茶筅髷にしている。
大河ドラマで本能寺の変を描いた最も古い作品
『太閤記』(1965)で演じた高橋幸治も総髪の茶筅曲げだったのでその型に従ったのだろうか?
信長は、本能寺の変の頃は長男の信忠に家督を譲っていたので、そういうことを髪型で表したのだろうか?
明智光秀が本能寺の変を起こす動機は信長と信忠がかなり近くの距離で京都に滞在していたからである。
光秀(酒向芳)は台詞で信忠に触れているが、一切登場していない。
1992年に放送された織田信長(緒形直人)が主役の『信長 KING OF ZIPANGU』は月代の茶筅髷にかわった。
もちろん信忠(東根作寿英)も登場する。

(役所広司の織田信長 イラストby龍女)
岡田准一の場合は第27回『安土城の決闘』で、家康に自分を殺すように挑発する。
信長を討つかどうか逡巡する家康。
堺で偶然出会った信長の妹のお市に兄が一番楽しかった時代が家康との少年時代だったと打ち明けられる。
本能寺にいた信長は寝込みを後ろから何者かに刺される。
覆面を外すと家康の顔が顕われるが、それは信長の幻覚であった。
信長は白い寝間着を真っ赤に染めた姿は、楽しかった少年時代を思い出していることを示す。
「家康、家康」と叫ぶが、討手が明智光秀だと分かるとがっくりして火のついた本能寺の奥の間へ去って行く。
信長は、桶狭間の時は不意打ちで討つ側の大将だったが、本能寺の変では討たれる側の大将である。
この時、どちらかで信長が必ず舞う演目がある。
幸若舞の敦盛である。
その中で信長がお気に入りだった箇所が
「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり」である。
これは源平合戦の一つ、一ノ谷の戦い(平安時代末期の寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)に摂津国福原および須磨で行われた戦い)の時のエピソードが元になっている。
熊谷直実(1141~1207)は若き貴公子敦盛を討ち取った。
自分の息子・直家と同じ年頃の美少年を討ち取ったショックは大きく、後に出家して法然の弟子法力房 蓮生 (ほうりきぼう れんせい)と称した。
法然の起こした浄土宗は、家康の先祖と同じ宗派である。

(本能寺の変の寝間着姿 イラストby龍女)
今回の岡田准一の織田信長は、脚本家古沢良太と役が共通するためジャニーズ事務所の先輩木村拓哉が出た
『Legend&Butterfly』と比較されている。
同じ脚本家でありながら信長の本能寺の変の描写が違うのは、俳優が違うだけではない。
信長をどういう視点のテーマで扱っているかの違いでもある。
木村拓哉が演じたのは、帰蝶(綾瀬はるか)とのラブストーリーの相手役
岡田准一が演じたのは、家康(松本潤)の友情物語の相手役なのである。
対人関係の違いを描く作品として、古沢良太の一番分かり易い作品がある。
舞台の会話劇から映画化された『キサラギ』(2007)である。
2006年の2月4日に自殺したマイナーアイドル・如月ミキの一周忌にファンサイトを通じて集まった5人の男を描く密室劇だ。
この中で5人にとって、マイナーアイドル如月ミキとはなんだったのか語られていく。
この作品のように、相手役との間にしか分からない個人的な関係によって人生を賭けた行動を起こすと言う構造が、古沢良太の脚本の大きな特徴である。

(古沢良太 イラストby龍女)
織田信長は、戦国時代の最大のアイドルと言っても過言ではない。
殺した明智光秀がすぐに殺されたことも含めて、謎の死になってしまい黒幕は誰なのかと未だに論争が絶えない。
それすらもアイドルの証になってしまっている。
『どうする家康』では信長を演じる岡田准一も柘植伊佐夫もこの脚本の中の信長をどう膨らませていくか?
見事に応えてくれたのである。
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