そんなマフィア梶田氏の活躍は、フリーライターという職業では言い表せない領域にまで突入。さらには「マフィア梶田教」なる謎のガヂャ宗教や、プライズ向けぬいぐるみ「マッフィーくん」まで誕生しており、ますますマフィア梶田という人物がいったい何者なのか分からなくなってきました。
そこでインサイドでは、マフィア梶田氏がフリーライターになるまでの軌跡に迫るインタビューを企画。ライターとはどういう仕事なのか、好きを仕事にするという事はどういう事なのか、どのような想いで日々を過ごしているのか、そして過去にどの様な出来事と出会いがあったのか――。それらを時間の許す限り伺ってきましたので、ゲームやアニメファン、そして将来ライターを含めた“好き”を仕事にしようと思っている方々へ向け、この記事をお届けします。
◆究極の二択と「エヴァ」との出会い
――そもそもの話になるんですが、最近の梶田さんはどういった肩書きになるんでしょうか。
マフィア梶田:自分の肩書きってよく聞かれるんですが、明確に言い表せる肩書きがなくてですね……。ラジオやら動画やら役者やら、色々とやってはいるものの、始まりはライターなので、必要がある時はフリーライターと名乗っています。ひたすら“自由”に何でもやるという意味を込めて“フリー”ライターです。
――では“フリーライター”というお仕事について話を伺って行きたいんですが、まずは学生時代の話からスタートしようと思います。現在29歳との事ですが、世代的にはスーパーファミコンとプレイステーションの間ぐらいになるのでしょうか。
マフィア梶田:それなんですけど、中学卒業まで上海に住んでいたこともあってゲームを手に入れるのが凄く遅くて……世代のモノはほとんどリアルタイムじゃ通っていないんですよ。
――まさかの3DO!日本では1994年に松下電器産業(現パナソニック)が販売したゲーム機ですね。同時期だとセガサターン、プレイステーション、ニンテンドウ64、ネオジオCDがあったわけですが……。
マフィア梶田:俺が買ったわけじゃないんですよ(笑)。親に「どうしてもゲームがほしい」とお願いしたら、「松下電器に務めている知人いわく、次のハード戦争で勝つのはこいつらしい」と言いながら買ってきまして。箱を開けて「え、なにこれ!?」ってなりましたね(笑)。当時は“ハード戦争”なんて言葉すら知りませんでしたし、3DOという名前も聞いたことすらなかったので。「そ、そうなんだ」と。
とはいえ俺にとっては念願のゲーム機だったわけです。ところがまぁ、遊べるソフトがない。そもそも玉石混淆で……いや、ほとんど石でしたけど……。
――ずいぶんマニアックな方面からのスタートですね。その後はどのようなゲーム体験をされたんですか?
マフィア梶田:それから数年後、ようやくプレステを買ってもらいました。なので、初めて触ったFFが『7』で、ドラクエも『7』。これ言うとゲーマーの先輩方からバカにされることもあったんで、いまだに劣等感があります。悔しいから、いくつかのタイトルは遡ってプレイしましたね。ちなみに携帯ゲーム機だと、なぜかゲームボーイはすんなり買ってもらえました。『ポケットモンスター赤』を筆頭に、『ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド』『星のカービィ』『スーパーマリオランド』なんかが思い出深いです。
ただ、この頃はまだ“自分がオタクである”という自覚はありませんでした。ゲームは周囲のクラスメイトもみんなやっていましたし、衛星放送のアニメなんかも貴重な日本語のコンテンツなので熱心に観ていたんですけれども……それは海外住まいで娯楽に飢えている自分からすれば、至極当たり前のことでした。
――私も中学時代はあまりゲームを買ってもらえず、その反動で高校時代はかなりガッツリとゲームで遊んでいました。梶田さんはいかがですか?
マフィア梶田:高校はミッション系の厳しいところでした。エリート揃いの進学クラスと誰でも入れる普通クラスが混在していて、生徒はガリ勉かクソ馬鹿の2種類。もちろん俺はクソ馬鹿の方で、入試の成績なんか全教科合わせて90点とかでしたよ。
しかも校舎が山奥にあって。俺は男子寮に入っていました。授業は1日8時間、その後に自習という名の監視付き強制学習が2時間。娯楽は漫画や小説などを持ち込めたものの、少年院のような場所でしたよ。ゲームは携帯ゲーム機のみ許されていたのですが、俺が遊びたいタイトルはコンソールに集中していたので辛かったです。だから「週刊ファミ通」を毎週買って、色々なゲームの記事を読むことで気を紛らわせていました。
――厳しいですね……。そのような環境から、どういった経緯でライターを志すことになったのでしょうか。
マフィア梶田:勉強はからっきしだった俺ですが、読書家だった親父の影響で本は好きだったんです。学校でも数少ない娯楽として毎日小説を読んでいたおかげで、自然と文法が身に付きまして。作文だけは昔から得意でした。そんな中で、ファミ通に載っていたバンタンゲームアカデミーの広告が目に止まったんです。そこでゲームライターという職業の存在を初めて知り、「そういえば俺が読んでいるファミ通の記事も、誰かが書いているんだよな」と意識するようになったのがきっかけです。
――ある意味、過酷な環境に置かれていたからこそ見出だせた目標だと。
マフィア梶田:そうとも言えるかもしれませんが……当時はがんじがらめに縛られた学校生活が本当に苦痛で、閉塞したコミュニティの中でくだらない規則を押し付けてくる周囲の人間が、とにかく憎くてしょうがなかった。しばらくはそれでも我慢して大人しく過ごしていたのですが、2年生になった頃から限界を迎えまして。気に入らないものは暴力で遠ざけるという最悪の方向に進んでしまい、学校では数少ない友人も無くして完全に孤立していました。周りからは、突然人が変わったように見えていたと思います。
今思うと視野が狭くて本当に恥ずかしいことですが、すっかり捨て鉢になってしまって。この先も社会に適応できずに苦しむくらいなら、徹底的に暴れまくってやろう、ヤクザにでもなってやろうかと思っていたところに差し込んだ光明がゲームライターでした。今となれば冗談のように聞こえるでしょうが、その時点では本気で自分の進路を裏社会で生きるか、ゲームライターを目指すかという2択に絞っていたんですよ。自分で言うことじゃないかもしれませんが、“こうしよう”と決めたらすぐ行動に移してしまうところがあるので……ヤクザどころか、中国の知人を通じて大陸系マフィアと顔合わせするという話まで進んでいました。本当に危ういところだったと思います。
――なんという2択。選択肢によってその後の人生が180度変りますね。
マフィア梶田:それからまた色々と考えたうえで、裏社会への道はとりあえず保留して、“まともになる”最後のチャンスだと思ってゲームライターを志す決心をしたんです。
――その道を選んで本当に良かったと思います。ところで、ライターの道を決意されてからは少し落ち着いたんでしょうか。
マフィア梶田:いや……その後、大きな問題を起こしてしまい、結局は2年生の終わり頃に転校する形になりました。学校とは一切の繋がりを断ちたかったので、自分から「いっそ退学にしてくれ」と話したのですが、学校側が退学者を出すという汚点を避けたかったのか転校という形で処理したようです。
……あ、でも、そんな酷いもんだった学校生活でもひとつだけ良かったことがあります。まだ本格的に荒れて孤立する前の話で、自分がこっそり寮に持ち込んでいたノートパソコンでDVDの上映会をやったことがあったんですよ。
みんな暇を持て余していたので、なんでもいいやという気持ちで近くの部屋の奴がコレクションしていたアニメのDVDを借りてきたんです。それが……。
――まさか……。
マフィア梶田:『新世紀エヴァンゲリオン』だったんです。
――うわ(笑)、なんとも運命的な出会い。
マフィア梶田:これがもう、人生観が変わるレベルで面白かった。海外に住んでいた頃からアニメは娯楽の一つとして当たり前に観ていましたが、エヴァの衝撃はそれまでまったく味わったことのないものでした。日々を流されるままに生きてきた自分にとって、もっとも濃厚な人生経験とまで呼べるものだったように思えます。最初は2,3人で観ていたのですが、気付いたら狭い部屋がギュウギュウになるくらい人が集まってきて、皆が真剣な眼差しでノートパソコンの小さなモニタに見入っている。とても異常で、なんとも心地よい空間でした。
そこで気が付いたんです。幼い頃からゲームやアニメに触れているし、当たり前すぎて無趣味だと思っていたのは勘違いで、自分はきっと“オタク”の素質があるんだと。思えば、あれがオタクとしての立脚点でした。何者でもなく、ただ現実に退屈しながら過ごしていた自分の身を置く場所が見つかったというか。俺は現実ではなく、虚構に生きるべき人間なんだと確信しました。
……しかし、“オタクであること”が心の支えとなった一方で、それがますます「現実なんぞどうでもいい」という偏った思考を助長した面もあり。本当にお恥ずかしいのですが、前述したような荒んだ学校生活へと繋がってしまいます。ゲームライターという職業に興味を持つようになったのも、その後ですね。
――そして、転校して新たな学校生活が始まるわけですが。
マフィア梶田:転校先は週に2日ぐらいしか行かなくていい通信制だったんです。それ以前とは比べ物にならないくらい、気楽でした。自由にできる時間がタップリあったので、毎日ほぼ引きこもり状態。オタクとして成長するために、とある匿名画像掲示板に入り浸り、そこで濃ゆいオタクたちが語り合っている情報を徹底的に吸収していったんです。自分がオタクとしてのスタートダッシュに出遅れていることは自覚していましたし、通るべきモノを通らず、知っているべきことを知らないということが許せなかった。そんな中で、その掲示板は良いこと悪いこと古いこと新しいこと全部ひっくるめて教えてくれる、先生のような存在だったんです。
住民の年齢層も高めで、そんな中に10代の自分が紛れ込んでいた。特有の閉鎖的な文化があり、そこで自分が歓迎されない存在であるということは理解していましたし、自らスレを立てたり書き込んだりすることはあまりしませんでしたね。ゲーム・アニメ・漫画・小説・映画などジャンルを問わず様々なエンタメの情報が混沌と絡み合っているのが魅力的で、スレが短時間で消えるからどんどん新しいスレが立ち、レスのやりとりも非常に早い。時間制限付きのチャットルームが混在しているかのようなイメージでディープなオタクの世界を学ぶには最適だったと言えます。そこで知ったアニメやゲームは極力すぐに調べ、入手できるようなら実際にチェックしてハイペースでオタクとしての経験値を積んでいきました。
その後、ライターとしてデビューしてからの話になるのですが、ひょんなことからその掲示板のイベントに出演することになりまして。住民から“同類”として認知される機会があったのですが、最近は「あいつ変わっちまったよ」「俺らを踏み台にして行っちまったよ」とか書き込まれているわけですよ(笑)。
――皆さん知ってるんですね(笑)。
マフィア梶田:もうライフワークみたいなもんなんで、今でも毎日チェックしてるんですよ。たまに俺のスレが立ったりして「どうせあいつ今はもうココ見てないだろ」とか言われているのを、苦笑いしながら眺めています。そもそも昔からROM専なんで、掲示板で「やっほー!俺だよ!」と自己主張したことなんか1度も無いんですよね。存在が感じられなくて当たり前なんで、離れちゃったと思われてもしょうがないかなぁと。まぁ、ベタベタした関係性を好む人達でもないので、これはこれでいいのではないでしょうか。
向こうからすればそんなの知ったことじゃないでしょうし、そもそも住民もすっかり入れ替わっているかもしれませんが、俺自身は立派に(?)育ててもらったことに対して多大な恩義を感じています。どう思われようと、彼らへの感謝は一生忘れないつもりですね。
……ちょっと話がそれちゃいましたが、残りの高校生活はそんな風にオタクとしての修行に費やしていました。傍から見ればただのネット中毒で引きこもりなので、両親や祖父母には相当心配かけたと思いますが(笑)。そして、専門学校へ入学するわけです。
◆ついに訪れた青春とデビュー
――続いて専門学校時代の話に移りますが、実際に勉強されてライター業に対するイメージは変りましたか?
マフィア梶田:大きく変わりましたね。ライターって作家みたいに黙々と原稿だけ書く仕事だと思っていたんですが、実際は足で稼ぐ取材が多いですし、インタビューなんかもしなければいけないのでコミュニケーション能力が必須だったんですよ。
ただ、むしろこれは“変われるチャンス”だと思い、「まともになろう」「人間を拒絶していたら道は開けない」と意識改革をしました。入学に備えてギャルゲーの主人公にアテレコすることで対話の練習をして、登校初日からクラスメイトの誰に対しても愛想良く、話しかけたり遊びに誘うことから始めました。いきなりグレるのが高校デビューなら、これは“いい人”になろうとした「専門学校デビュー」でしょうか(笑)。
そのおかげで、初めてモニタ越しではないオタク友達ができまして。やっと青春ってやつを味わうことができました。ゲームやアニメの話で盛り上がったり、長期休暇には旅行してみたり……本当に楽しかったです。
――その頃もこのビジュアルって事ですよね……警戒とかされませんでしたか?
マフィア梶田:まぁ……されますよね。学校側も「やべぇのが来たぞ」とザワついていたそうです。ただ、そこで何とか上手くやっていこうと振る舞っているうちに、「マイナスは大きなプラスへと転じやすい」ということを学びまして。俺みたいなのがちゃんと“オタク”であることを示すと、皆さん面白がって仲良くしてくださるんですよね。
―― 一種のギャップ萌えですね(笑)。そしてライターになるための勉強が本格的に開始したと。
マフィア梶田:はい。中高のように何のためにやっているのかイマイチ分からないものじゃなくて、学ぶものすべてがリアルで実践的でした。「これから仕事で使っていく技術だ」と明確に意識できたんです。だからどの授業も真面目に受けていましたし、成績も良い方でした。作品の審査会でも優秀賞を頂いたりして、自信に繋がっていきましたね。
ちなみにウチの学校は、2年生からデビューが認められるんです。自分も早い段階から現場へ出るようになりまして、記事を書いたり攻略本を作ったり、珍しいものでは老年層向けの散歩ガイド誌まで手掛けました。なので、2年になってからはほとんど学校に行ってなかった。学校生活を楽しめたのは実質1年だけでしたが、濃ゆい青春を過ごせたと思っています。
◆そして4Gamerへ
――では4Gamerさんとはどの様に出会ったのでしょうか。
マフィア梶田:2年生に進級して間もない時期に、4Gamerの小野さんという編集者が特別講師として学校にやってきたんです。そして休み時間に小野さんが喫煙所へ向かったのを追いかけて行き、「4Gamerで書かせてください」と営業をかけたところ、トントン拍子に話が進みまして……。数日後には、編集長と面接する事になったんです。
――面接には凄い服装で行かれたと聞きましたが……。
マフィア梶田:恥ずかしながら……(笑)。チンピラが着るような白いジャージ上下で、よく追い返されなかったなと。服装の規定がユルい業界とはいえ、常識無さすぎですよね。心の広い編集長で良かったです。
そこで編集者の皆さんにも御挨拶したんですが、中でも特に俺を気に入ってくれた方が居まして。青山さんというんですが……まぁ、その人も口ピアスでちょっとアレな人だったという(笑)。元フリーライターということでコチラの気持ちをよく理解してくれましたし、サンプルとして送った原稿を「色気のある文章だ」と褒めてくれて、とても嬉しかったのを今でも覚えています。
――4Gamerさんの著者別ページを見ると、2007年に公開された『真・女神転生IMAGINE』の取材記事が最初のようです。
マフィア梶田:懐かしいですね、小野さんがくれた仕事です。それが4Gamerにおける最初の記事でした。当時はハリキリすぎちゃって、取材記事としてはありえないボリュームになっていましたね(笑)。「長すぎる」と言われてもおかしくなかったんですが、「こんなにもしっかり書いてくれるなんて」とメーカーさんはとても喜んでくれまして、幸先の良いスタートでした。
――そして4Gamerさんで経験を積まれて行ったんですね。
マフィア梶田:学校を卒業してからも、4Gamerからは継続的に仕事をいただいていました。その一方でファミ通WaveDVDとか、他媒体でもちょくちょく書いてましたね。ムックや攻略本も作りました。そして2008年、ゲームに関してはPC向け専門だった4Gamerがコンシューマーも手がけることになりまして、そのタイミングで青山さんから「専属にならないか」というお誘いがあったんです。デビューしたての若いライターからすると、収入が安定するのは魅力的でしたし、それまでの付き合いで4Gamerが自分の“個性”を大事にしてくれる媒体だということは分かっていましたので、お引き受けすることにしました。ただ、生意気にも仕事の幅を狭めたくはなかったので、「ゲーム以外の仕事は自由にやらせてもらう」という特例まで認めていただきまして……。幸いにもそれが声優業界や、自分の人生を大きく変えた杉田智和さんとの出会いに繋がっていきます。
◆まさにそれは、運命の出会いだった
――“人生を変えた出会い”とのことですが、杉田さんとはどのようにして出会ったのでしょうか。
マフィア梶田:俺が19か20歳の時、先輩ライターから人狼ゲームの集会に誘われまして。そこが初遭遇でした。ただ、その時は特に紹介もされませんでしたし、自分が声優に詳しくなかったものですから、何者なのか分からなかったんです。大変失礼なことに“若本規夫さんのモノマネが上手い人”ぐらいの認識だったんですが、ひょんなことから当時好きだったアニメ『ローゼンメイデン』の話になりまして。お互い「水銀燈」が好きだったことから、意気投合しました(笑)。それから妙に気に入られたようで、よく遊びに誘ってくれるようになったんです。
1年ほど経ったある日、ラジオ「杉田智和のアニゲラ!ディドゥーーン」(以下、アニゲラ)を4Gamerで取材する事になったんですが、なぜか杉田さんが「お前も出ろよ」と言い出しまして、ドラマパートに出演する事になったんです。どういうわけか、それからズルズルと毎週出る事になり、気が付いたら「アニゲラ」は2人のラジオになっていました。今ではもっと人が増えていますが(笑)。
当時、ライターとして名前は売れ始めていたんですが、ラジオのおかげで爆発的に広がったのは間違いないですね。記事を読んでくれた人がラジオを聴く、ラジオを聴いてくれた人が記事を読む、という相乗効果のおかげ、ひいては杉田さんのおかげで今の自分があると思っています。
◆大切なのはやること。そしてやりきること。
――“マフィア梶田にしか書けない記事”というのを自覚したのはいつ頃になるのでしょうか。
マフィア梶田:ラジオに出るようになってからでしょうか……「マフィア梶田っぽい記事だと思って読んでたら、やっぱりマフィア梶田だった」という感想をネットで見かけるようになりまして。自覚はしていなかったんですが、自分の文章には特有の読み心地というか、クセがあったみたいです。
それが明確に表面化したのは『ラブプラス』ですね。当時、この素晴らしいゲームに注目している人は少なかったんですよ。俺は4Gamerからプレイレポートを依頼されて発売前にプレイしていたんですが、その内容に衝撃を受けて「これは恋愛ゲームの歴史が変わるぞ」と本気で思いました。そして感性の赴くままに記事を書いた結果、それが「ガチすぎる」と評価されてゲームと一緒に大ヒットしたんです。
――その辺りからマフィア梶田というライターの個性が固まっていったんですね。
マフィア梶田:そうですね。先述したラジオとの相乗効果もあり、「マフィア梶田って『ラブプラス』の記事書いた人でしょ?」となったわけです。元々自分の得意ジャンルは洋ゲーなどで、恋愛ゲームの記事を書いたのはそれが初めてだったんですけれども、不思議なもんですね……。
――さらに最近はメーカー公式の番組などにも出演されていますよね。
マフィア梶田:有り難いことです。杉田さんが現場で鍛えてくれたおかげで、ラジオパーソナリティとしても着実にキャリアを積み重ねることができました。執筆もトークも、本質的には同じことを求められているんですよ。自分の中にある知識や、作品への愛情を分かりやすくアウトプットして共感を得ること。言葉か文字かの違いってだけで、番組をやる際にも「ライターとしての自分」が前面に出てきますね。
――“新しいライターの姿”が今のマフィア梶田さんなのかもしれません。
マフィア梶田:いやいや、そんなに大それたものではなく……。自分は常に刺激がなければ退屈してしまう性質ですし、その欲求と環境が上手く噛み合った結果なんだと思います。ただ、ライターに限らずフリーランスは常に「やれる仕事」を増やしていくことを意識すべきなのは間違いないですね。
――そしてその行動力は本当に凄いと思います。
マフィア梶田:専門学校時代、講師から「“できない”とは言うな。ハッタリでもいいから“できる”と言え」と教わっていたのですが、それが俺の根本を形作ってます。やったことのないこと、できないと思うことでも、結果的にできてしまえばOKなんですよ。
まずは挑戦しなければチャンスもないわけで、できなければ負け、やりきれば勝ち。とてもシンプルで男らしい生き様だと感じました。それをずっと実践していて、驚くような依頼が来ても「できない」とは言ったことがありません。そして、一度でもやりきった仕事は「ラジオパーソナリティ」や「イベントMC」のように肩書きに組み込んでしまいます。そうすることで、また同じような仕事が舞い込んでくる。自信と覚悟さえあれば、なんとでも名乗れるのがこの仕事の面白いところです。
◆好きは仕事になる
――そこのギャップも魅力ですよね。ライターなのに役者、役者なのにイベントMCみたいな。では表現する上でのポリシーなどがあれば教えてください。
マフィア梶田:全てを通して、自分がまず“オタク”である事。必ず愛をもって、作品へのリスペクトを欠かさないようにしています。番組などを観ている皆様に「こいつ仕事で仕方なくやってんな」と思われないように気を付けています。たまにあるじゃないですか、作品に興味がない、オタクでもない人がイベントMCやってたり。芸能人が話題性だけで起用されて、ゲームの話はまったくできないとか。そういうのって、作品のファンはとても残念な気持ちになるんです。
俺自身、アニメやゲームの存在がこの世界で生きる意味そのものでして、もはや「好き」という言葉で片付けられるものではない。いわば神や悪魔への狂信に近い。だからこそ、人一倍そういうことには敏感なんです。
――その話もう少しお伺いしたいです。
マフィア梶田:アイデンティティの話になりますね……昔から両親の都合で日本と中国を行き来していたのですが、そのせいで日本では中国人として、中国では日本人として扱われて常に自分は“異物”でした。そのため国家に対する帰属意識が薄く、「自分は何者なのか」という漠然とした不安だけがあったんです。そんな中、先述した高校時代の体験が自分に“二次元”という身の置き所を示してくれました。国や民族なんて関係ない、くだらない、長年の葛藤が取るに足らないものになるくらい、オタクの世界は懐が深かった。
――梶田さんの仕事はオタクを広める事かもしれませんね。
マフィア梶田:そこまで高尚な想いがあるわけではありません。好きなものだけに関わって生きたいからやっている、凄く利己的で自分勝手な仕事です。実際、オタクが住み良い世の中のためならば他の何が犠牲になってもいいと考えるくらいには狂信的です。
――私も好きで編集者の仕事をやってるので、共感できます。
マフィア梶田:自分の仕事が結果的にオタク業界の活性化に繋がっているのであれば、それはとても嬉しいことなんですけどね。また一歩、自分が生きやすい世の中に近付いたということですから(笑)。
――最後に好きを仕事にする楽しさや、好きを仕事にしたいと思ってる方々へメッセージをお願いします。
マフィア梶田:「趣味は仕事にしないほうがいい」って言葉、よく聞きますよね。あれ言っている人は、きっと「そんなに好きじゃない」んですよ。ホントに好きなこと、他の何を犠牲にしてでもやりたいと思えることなら、仕事にしたほうがいいに決まっています。なんせ人生の大半は仕事をしなければいけないわけで、その人生の大半を好きなモノに捧げるのと、趣味で付き合うのとでは「関わることのできる時間」が大きく変わってきます。
また、この業界はとても狭く、チャンスに溢れています。「憧れのクリエイターや役者さんと仕事がしたい」なんて夢は、きっと現実的なレベルで叶ってしまいます。なので、常に“目標”は更新し続けてください。それが“好き”であることを続ける秘訣です。
……ただし、どこまでいってもこれは狂信者の言い分です。自らの人生を“それ”に捧げる覚悟が無いのであれば、オススメできません。自分にとって“好き”のレベルがどの程度のものなのか、よく考えたうえで決めてください!
――本日はありがとうございました。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
今回の記事は他媒体で活躍されているライターを取り上げるという珍しい企画になっていますが、その話はとても面白く、インサイドが掲げる「人生にゲームをプラスするメディア」というテーマにマッチしたものだと実感しています。この生き方に共感する方も多いのではないでしょうか。
また今回は、特別に「84」というお店にご協力頂きました。同店は完全会員制の飲食店となっており、場所や営業時間などの情報は非公開。元任天堂社員で、現在はゲームのバランス調整などを行う猿楽庁の橋本徹氏が店長を務められているお店です。店内には宮本茂氏、近藤浩治氏、青沼英二氏、増田順一氏、堀井雄二氏らのサインや、様々なゲームグッズが飾れており、限られた業界人しかその場所を知らない事から、「任天堂の聖地」や「ゲームクリエイターの聖地」などと呼ばれています。
インタビューの中でマフィア梶田氏も言われていましたが、この業界は非常に狭く、あわよくば……という事が現実的なレベルで起こる世界です。今回ご協力頂いた「84」へ行くための道は険しいですが、この業界に飛び込んで仕事をしていれば、“あわよくば”という事が本当にあるかもしれませんね。