1995年1月17日。淡路島北部を震源としたマグニチュード7.3の直下型地震は、神戸市を中心とした地域の人々の暮らしを一瞬で破壊した。
地震で倒壊した家屋を大火災が襲った神戸市長田区。震災から2週間後、美智子上皇后(当時は皇后)が被災地を訪れ、焼け焦げた臭いが漂うがれきの中に花束をそっと手向けた。それは皇居で摘まれた17本のスイセンーー。清楚でいながら力強い香りを放った花。
改装した生花店を開店予定だった森本照子さん(70)は、店も住まいも何もかもを失って絶望に打ちひしがれていたが、白い花束に励まされて前を向いた。震災から14年後に店を再開した森本さんの人生をたどろう。
「父は、戦後すぐに母と結婚して神戸で花屋を始めたんです。父は、斬新な発想力とセンスがある人やったから、松月堂古流(生け花の流派)の家元に気に入られましてね。一手に花材を納めて、花を生けるのを頼まれたりもしていました。私はそんな父を尊敬していて、父みたいな花屋になりたいと憧れていたんです」
森本さんは多忙な父を手伝い、中学3年生のときには、松月堂古流の師範代の免許も取得した。しかし、ほどなくして父母は離婚。森本さんは父に引き取られたが、父の再婚相手から虐待を受けるようになり、中学を卒業してすぐにい家を追い出されてしまう。
「今でも体に義母から受けた虐待の痕があります。父には言えませんでした」
実母は再婚していて、居場所はない。引き取ってくれたのは実母の友人のおばちゃんだったというが、森本さんは、迷惑をかけまいと高校には進学せず17歳から知り合いのスナックで働くようになる。
「水商売なんて最初は怖くて、ビールの栓を抜きながら泣いてたの(笑)」
美人でスタイルも抜群の森本さんは、瞬く間に人気者に。20歳で神戸の繁華街、三宮に自分の店を出すことになった。お金の苦労をしたくないと、がむしゃらに働いた森本さん。昼間は化粧品会社の美容部員、夜はお店、空いた時間は雑誌のモデルもしたという。
転機が訪れたのは、森本さんが25歳の時。六つ下の夫・政一さん(63)との出会いだ。
「当時私は婚約者がいたから、学生みたいな夫のことなんて眼中にもありませんでした。ですが、夫はクルマを売ったお金を持ってきて『これが全財産です。結婚してください。
当時、婚約者から「結婚したら仕事は辞めて」と言われていた森本さん。働くのが好きだった森本さんは悩んだ末に、周囲の反対を押し切って政一さんとの結婚を選んだのだ。
森本さんは結婚後、夫と2人で生花店の従業員として働いた。多いときは一日で花を100万円分売ることもあった。
40歳で独立し、念願の生花店「花恋」を神戸市長田区の商店街、菅原市場に開店。震災が商店街を襲い、炎が街を焼き尽くしたのは、「花恋」が新装開店を迎えるはずの1月17日だった。建物の1階部分は倒壊し、用意した花も、業者に渡すつもりで店に保管していた600万円も、焼けてしまった。
「若い頃から働きづめで、やっとここまできたの……。過去も未来も全部失って、残ったのは600万円の借金と罹災証明だけでした」
当時、45歳だった森本さんにとって再起は難しく思われた。あの花束を目にするまではーー。
「(美智子さまの手向けた)そのスイセンの花束を見たとき、なんて清楚で、なんて力強いんやろう、と。涙がぽろぽろ出てね。
それから、再建に向けての長い戦いが始まった。住居が手に入るまで2年もの間、車上生活を続け、クルマに花を摘んで墓苑で花を売る。コツコツと開店資金を貯金し、店を再開できたのは震災から14年後だった。
「私は美智子さまの花束があったから、花屋を再建できた。花の命は短いけれど、本当に相手のことを思って作った花束は、いつまでも心の中で咲き続けるんです」
波乱万丈の人生を振り返って、森本さんはそう語った。
「女性自身」2020年1月28日号 掲載