「これが、昴がつくってくれた金メダルです」 そう言うと、瀬古利彦さん(64)は黄色い紙製の“心の金メダル”をしみじみと見つめた。

日本のマラソン界の第一人者であり、レジェンド。

現在の役職は、DeNAアスレティックスエリート・アドバイザーおよび日本陸連マラソン強化戦略プロジェクトリーダーだ。

88年、最後のマラソンとなったソウル五輪から帰国した瀬古さんを、妻・美恵さんと、2歳になったばかりの長男・昴くんが出迎え、手ずからプレゼントしてくれたのが“心の金メダル”。

《とっちゃん ごくろうさま 心から勇気と夢と愛をありがとう!》

33年前に書かれた文字は、ほとんど消え落ちてしまったが、昨日のことのように手ぶりを交えて、瀬古さんは振り返る。

「昴を抱っこしたら、私にかけてくれた。『お父さんは金メダル!』と言われたようでした。いままで頑張ってきてよかったな、と報われる思いと同時に、これからは、家族を大事にしなきゃ、と決意を新たにしたんです……」

皺を寄せる目尻に、うっすら涙が浮かんでいるようにも見えた。その長男・昴くんは、もうこの世にはいない。

去る4月13日、8年間の長い闘病生活の末、34歳の若さで旅立っていた。ホジキンリンパ腫という血液のがんの一種で、治療しても完治が難しい「難治性」のものだった。

「なんと言えばいいのか、親より先に亡くなるなんて……あっていいわけがない。まだ気持ちが落ち着いていなくてね」

瀬古さん夫妻が、愛息との三人四脚、34年間の軌跡を振り返る。

昴さんは86年9月9日、東京・千駄ヶ谷で長男として生まれた。

「宇宙の星のように輝いてほしい、そんな願いを込めました」

昴さんは、幼少のころから「長男としての自覚の強い子だった」という。やがて慶應義塾中等部に合格。大学まで一貫教育を受けた。中・高で陸上ではなく野球、つまり父と違う道を選んでいる。

昴さんは自著『がんマラソンのトップランナー 伴走ぶっとび瀬古ファミリー!』(文藝春秋)でこう綴っている(以下《 》は昴さん)。

《同じ道を行っていたら比べられるかもしれないですが、まったく別の道を行っていたので、特に気になることはありませんでした》

昴さんが社会人2年目のころ、11年3月に東日本大震災と福島第一原発事故が起きる。事故の爆発映像を目にした昴さんは、そこで大きな衝撃を受け、会社を1年余で辞め、ピースボート世界一周の船旅に活路を求めた。

しかしその洋上で病魔は忍び寄っていた。背中に湿疹ができて治らなくなり、体調不良にウスウス気づき始めていた。その後、ピースボートの職員となったが、咳は止まらず胸の痛みも出てきた。痛みは全身に及ぶ。呼吸が辛くて不眠になり、歩くのさえキツくなり、とうとう13年6月、東海大学医学部付属病院に入院。

そこで告げられた検査の結果は、「ホジキンリンパ腫」という耳慣れない病名だった。

昴さんの主治医だった東海大学血液腫瘍内科の鬼塚真仁准教授が、病気の特徴と症状を説明する。

「ホジキンリンパ腫とは、比較的若い方に発症する傾向がある悪性リンパ腫です。標準的な治療は、4種の抗がん剤を2週に1度投与するABVD療法です。近年は新薬が出て副作用も軽減されつつありますが、昴さんのように難治性、つまり完治が難しくなるケースもあるんです」

治療のさなか、ドライアイが強烈になり、左目には乾燥防止のアイパッチを装着。鼻には酸素供給のためにチューブが。そして移動は車いすに。さらには排尿障害が出て、導尿トレーニングをしたこともあった。

しかし、こうした闘病の苦しみがありながらも、昴さんは、心の平穏と安らぎを得られていた。

《母の作った食事を、家族で囲めること。他愛ない話をしながら、家族と観るテレビ。スマホのゲームを一緒にやったり……僕が病気になったことで、家族が一丸となる場面が増えました》

それは、瀬古家にとって、いい意味での“事件”だった。

「瀬古利彦の長男」として《父に変なライバル心があり、強く反抗していた。父はいろいろなことを成し遂げてきたけど、僕はまだ何もできていない》と吐露していた昴さんに、変化の兆しがあったのだ――。

妻の美恵さんは、この取材を受けて、ふと思ったのだと明かす。

「それは『私も、生きて、生きて、生き抜くよ!』ということです。『そうしないと、次のステップに進めないよ、お母さん』と、そんなふうにいま、昴が教えてくれているのかなって……」

昴さんは、同じ病と闘う人の先頭に立ち続け、走り抜いた。そしてこれからも、瀬古さんと美恵さんのなかで昴さんは生き続ける。昴さんを先頭に、瀬古家のマラソンはずっと続いていくのだ。

その先には“心の金メダル”が待っている──。

(取材・文:鈴木利宗)

編集部おすすめ