「こんにちは! 庭のアジサイがきれいやったから、持ってきましたよ」

太陽が陰り始めた夕方5時すぎ、大阪府にある「守口市立さつき学園夜間学級」の玄関先で、元気な声が響いた。村田十詩美さん(としみ・81)。

胸に抱えきれないほどのアジサイを抱いている。

「まぁ、見事な咲きっぷり。さっそく玄関に飾らせてもらうわね」

応対に出た中田まり先生(62)が笑顔で迎え入れた。村田さんは、70歳でさつき学園の“夜間中学”に入学し、9年間通い続けた卒業生だ。入学後には「70代の中学生」としてマスコミで紹介され、その波瀾万丈な人生も相まって、地元だけでなく全国的に有名な中学生になっていた。

卒業後は府立高校の定時制に進学し、現在も通学中。それでも村田さんは、自宅から自転車で5分のさつき学園を時折訪ね、花や手製の紫蘇ジュースを差し入れしたり、先生や在校生とのおしゃべりを楽しんでいる。

「60年ぶりに青春を送った場所やから。9年間も通ったから、落ち着くんやね。まぁ、ふるさととか実家みたいなもん。卒業しても、ここに来ると、ホッとするんやわ」

顔がクシャクシャになるほど大きな口を開けて、豪快に笑った。ひとつに束ねた長い黒髪をなびかせて、耳には大ぶりのリングのピアス、白いカッターシャツに黒のパンツ姿で颯爽と、赤いママチャリに乗ってやってきた村田さんは、81歳とは思えないほどはつらつとしていた。

夜間中学は、義務教育を受ける年齢を超えた人に小・中学校の教育を保障する学校だ。’50年代半ばには全国で89校、5千208人が在籍した。その後は減少傾向にあるものの、現在も10都道府県で34校、約千700人が学んでいる。

夜間中学は「社会を映す鏡」でもある。戦後の混乱期に始まった夜間中学は当初、経済的理由で働かねばならず、学校に通えなかった人たちのための学校だったが、’70年代に入ると、差別や貧困で通学できなかった在日韓国・朝鮮人の入学者が増加。日中国交正常化に伴う中国からの帰国者も多数、通った。

90年代に入ると、仕事などで来日した外国人の入学者が急増。現在は約8割が外国籍の生徒で占められ、最近では、時代を反映して、いじめなどで不登校になった生徒や、ヤングケアラーとなり学べなかった人たちが入学するケースも増えている。

「さつき学園の夜間学級は’73年スタートです。現在は5クラスで、14カ国の16歳から88歳まで、138人が通学しています」

と、中田先生が教えてくれた。

「村田さんもいまではこんなに明るくしてはりますけど、入学するまでは相当、悩まれたそうです。入学当初も、とても緊張しているのが伝わってきました。

お話もほとんどしなかったくらいです。皆さんそうですが、勉強するべきときにできなくて、いわば陰を背負って生きてこられた。それが学ぶことで変わるんですね」

■店のなかに身を隠して、通学する同級生のはしゃぎ声を聞いた少女時代

「生まれたのは母の実家があった大阪の西成です。その後すぐに下関へ行ったようです」

小3のとき、両親は離婚。大阪・西成の母の実家に戻ると生活は一転、苦境に立たされた。母は再婚したものの、再婚直後に継父が脳卒中で倒れ、働けなくなった。その後、弟も妹も生まれて生活は苦しくなる一方だった。

村田さんは、いくつもの内職をして家計を支える母を自然と手伝うようになっていた。

「小学校も休みがちでしたが、先生が『卒業証書だけもらっときや』と言って、卒業式だけは出たのを覚えています」

中1の終わりに酒店に住み込みで働く話が出て、村田さんの中学生活は1年弱で終わってしまう。

「それでも中学生活はほんま楽しかった。無駄話をしていたら、先生のチョークが飛んできたり。私は負けん気が強かったので、男子を泣かせて、バケツを持たされて、廊下に立たされたり(笑)」

ずっと笑顔で話していた村田さんの表情が、ここで突然、曇った。

「酒屋の仕事はビールの箱詰めをしたり、自転車で配達したり、まだ1歳にならん店の子の子守。でもほんまにつらかったのは仕事より何より、朝の通学時間やわ……」

言葉が途切れ、みるみる涙がこぼれだした。それまで通っていた中学校は奉公先の酒店の目の前だった。通学時間になると、先日まで机を並べて一緒に勉強していた同級生たちが次々と校門へ入っていく。その楽しげなはしゃぎ声が、村田さんの耳に響いた。

「うちは自分の姿を見られぬよう、店のなかに身を隠して、校門が閉まってから外の掃き掃除をしていました。それでも、学校が終わると、友達が面白がってか、うちが働いてるのをのぞきに来る。それが嫌で嫌でねぇ」

結局、酒店は1年弱で辞め、堺の学生服の店で2年、住み込みで働いた。実家に戻ってからも、昼はミシン工場、夜は母の内職の手伝いという日々が続く。

継父が花街の働き口を持ってきたのは、16歳のときだった。花街の見習いに入れば、前金がもらえる。そう聞かされて、花街が何かも知らなかった村田さんは、「行くよ」と答えた。

血相を変えたのは、母だった。ふだんは絶対、夫に逆らわない無口な母が、猛然と反対したのだ。

「それで花街の話は立ち消えになったんです。あのとき花街に出ていたら、私の人生、どんなだっただろう。やっぱりお母さんは、私の……お母さんなんだと思います」

再び村田さんの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。何歳になっても、多感な少女時代のやりきれなさ、悔しさは簡単には拭えない。

「母には感謝しましたね。私の名前は、母の十三子(とみこ)の“十”をもらっているんですよ」

■夜間中学の存在を知り、迷った。70歳、ギリギリで勇気を出して飛び込んだ

NHKの朝ドラ『おしん』のような少女時代を過ごして、村田さんは17歳で結婚する。とんとん拍子に話が決まった夫は、日立造船のサラリーマン。18歳で長女、20歳で次女、22歳で長男、24歳で次男を授かり、安穏と暮らせるかに思えたが、夫は病弱で、その上ばくち好き。夫は働かなくなり、村田さんが一家の大黒柱になった。

末っ子が高校を終えたころ、村田さんは子どもたちに言った。

「お母ちゃん、家を出てええか?」

母の苦労を見てきた子どもたちは全員、「ええよ」と賛成してくれた。次第に子どもたちも皆、それぞれの家庭を築き、安心した彼女は、守口市内に庭付きの家を借りた。68歳だった。

「また、どっかで働こうかな」

そんなことを考えながら、市の広報紙を眺めていると、夜間中学の案内が目に飛び込んできた。

「えっ、夜間中学? 夜間って、高校だけやないのん? えっ、うちの近所やん。そうか、こんな近所に夜間中学があったんや……」

それからの村田さんは、チャウチャウ犬の「チャウちゃん」を連れて、散歩がてら、さつき学園の様子を見に行くのが日課になった。

「校門からは若い人しか出てこんでしょう。あんな若い人たちにはようついていかんわと思って」

それでも諦めきれず、毎日、チャウちゃんを連れては、学校の周りをグルグルと回った。

そんな日々が3年、続く。

「働き続ける生活のなかで、漢字が書けるようになりたいと思うことが何度かあって。夜間は高校だけと思っていたから、ぼんやりと高校へ行きたいと思ってたんです。

いちばん難儀したのが新聞やった。上と下のひらがなはわかっても、間の漢字がわからない。想像で読んでました。まぁ、そない間違えてへんやろ、と(笑)」

迷いに迷っているうちに、気がつけば70歳になっていた。

「入学希望の電話をしたのは4月で、時間もはっきり覚えています。締切りは夕方の5時。ギリギリまで迷って、4時59分、『エイ、ヤッ』で受話器を取ったんです」

2011(平成23)年4月、村田さんは晴れて、夜間中学の生徒になった。

「うちのクラスは20人くらい。驚いたことに、私より8つも上の人がいたんです。『ひ孫もいる』と言っていました。あとは20歳前後の若い人が2人と外国人。これなら私もついていけるわと、安心したのを覚えています」

憧れの中学生活のスタートだ。自分の孫ほどの年齢の若い同級生たちを前に、村田さんは目を輝かせてこう言った。

「10代からずっと、いつも外から校舎を眺めていたうちが、まさか教室のなかで勉強してるなんて。教室のなかから眺める外の景色は、そりゃあ~、輝いとったねぇ。夜間中学に通うようになって、うちのなかに光が差してきた気がするんや」

村田さんは現在高校生。今も、追い求めた青春の中にいる――。

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