来年デビュー40周年を迎えるマドンナ(63)が、12月20日に自身のインスタグラムを更新。レイ・シュリマーのスウェイ・リーなどとともに楽曲制作を行っていることを明らかにした。
マドンナは63歳になった今でも、“クイーン・オブ・ポップ”として、音楽活動にとどまらず多彩な活躍を見せている。現在制作中の自身の伝記映画では、『JUNO/ジュノ』でアカデミー賞脚本賞を受賞したディアブロ・コーディとともに、なんと共同脚本も務めているのだ。
映画の脚本は今年10月に完成。米『ローリング・ストーン』のインタヴュー「ミュージシャン オン ミュージシャン」で、マドンナは自身の半生を振り返ることになった脚本執筆について以下のように語った。
《脚本を書くのはこれまででも最も大変でやりがいのある体験だった。(中略)私自身を形作ることになったすべてを思い出していった。アーティストとしての旅路、ミシガン州を出てニューヨークに行くことにした決断、若くナイーヴだった頃にあったこと、家族や友人との関係、たくさんの友人が亡くなるのを見てきたこと、脚本を書きながら、時々ベッドに行って、泣きたくなった》
■レイプ、強盗…若いマドンナに突き付けられたニューヨークの過酷な現実
今でこそ、世界で最も成功を収めた女性音楽家の1人として名をはせる彼女だが、下積み時代は苦労の連続だったのだ。
‘58年8月16日、ミシガン州で8人兄妹の3番目として誕生したマドンナ。5歳の時に母を乳がんで亡くし、8歳の時に父が再婚。再婚相手や再婚を選んだ父との間には確執が生まれたという。
幼少時のマドンナは成績優秀で、高校ではチアリーダーも務めた。
あこがれて移り住んだニューヨークだが、現実は厳しかった。ダンスの勉強をしながら、時給の安いアルバイトをこなす毎日。お金を稼ぐためにヌードモデルの仕事も行った。苦労は金銭面だけでない。マドンナが住んでいたアルファベット・シティは、当時はマンハッタンの中でも特に治安が悪い場所として有名だった。
マドンナは雑誌・ハーパーズバザーに寄せたエッセイに、下積み時代のことをこう綴っている。
《最初の年には銃口を向けられるような場面もあったし、背中にナイフを突きつけられてビルの屋上に引きずられ、レイプされたこともあった。強盗には3回入られたわね。1回目のときにラジオを盗られて以来、金目の物なんてひとつもなかったのに》
苦労に満ちた下積み時代を経て、’82年、23歳の時にレコード会社と契約。’83年のサードシングル「ホリデイ」でその名をはせると、‘85年の「ライク・ア・ヴァージン」、’86年の「マテリアル・ガール」で一気にスターへの階段を駆け上がった。
これまで全世界で3億枚以上のレコードセールスをあげ、もっともリッチな女性歌手といわれるほどのアメリカンドリームを実現したマドンナ。想像を絶する苦労を乗り越えて掴んだ今の人生だからこそ、何歳になっても全力で芸能活動に取り組んでいくのだろう。