入浴のたびに鏡に映る自分の乳房に呆然とする。自分が気持ちよく生きるためには、決意が必要だった。

乳房切除手術から13年。いまでは女性のパートナーと、ゲイの友人・ゴンちゃんとの3人で子育て奮闘中の、トランスジェンダー活動家・杉山文野さん(40)。

長女、長男のパパである幸せをかみしめている。6人いるジジ、ババは、孫にメロメロだ。子どもたちには願う。女のコはこう、男のコはこう、と決めつけず、選択肢を多くして自分で人生を選んでほしい、とーー。

人生を振り返り、ふと遠い目になった杉山さん。

「中学生のころ、まだ自分が何者かわからないときに、深夜番組『トゥナイト2』で“おなべバー”特集を見て。『ああ、自分はこれかもしれない』と、翌日には自転車で、このあたりを走っていました。何か手掛かりがあるんじゃないか、と。でも、昼間の新宿2丁目なんて、ただの通り。何もわからなくて(苦笑)」

トランスジェンダーとは、出生時に割り当てられた性別(戸籍上の性別)とは異なる性自認を持つ人のこと。

81年8月10日、次女として生まれた杉山さんは、生まれたときから性別に違和感を持っていた。

「幼稚園の入園式のとき、スカートをはかされて。イヤだ、イヤだと大泣きして逃げ回っていましたから。女装というより、女体スーツを着せられている感覚ですね」

手術の前は、入浴のたびに、鏡に映る自分の乳房に呆然とする自分がいたという。

「おまえは誰だ? という感覚が拭えない。結局、僕がひっかかっているのは、性別であり、体だったんです」

■パートナーには交際5年目にプロポーズ。反対していた彼女の両親も認めてくれた

3歳年下の彼女は、元スキー選手だ。引退後、ロンドンに留学して舞台衣装のデザインを学び、帰国後、実家のピザ店の手伝いをしているころに知り合った。

彼女の父親は若いころから杉山さんの実家が営むとんかつ店「すずや」の常連で、彼女も彼女の家族も、杉山さんのトランスジェンダーを知っていた。著書が出たときなど、「頑張りなさい」と応援してくれたほどだ。

「たまたま彼女と舞台を見に行くことになって、そのときすっごくいいコだなと思って。僕のほうから猛アタックしたんです」

彼女は長く付き合った彼と別れたばかりで、楽しければいいかなという軽い感じで、交際が始まった。

ところがーー。

「お義母さんは、デザイナー。ファッション業界ってゲイの方が多いから、大丈夫っしょぐらいに思っていたんですけど……。交際となると全然ダメでしたね」

「うちの子は普通なの。あなたの世界に引きずり込まないで」

義母の言葉は心に刺さったが、その心情はよくわかった。彼女の両親にも時間が必要だったのだ。

30歳の12月、実家を出た杉山さんは新宿3丁目で一人暮らしを始めた。やがて彼女も一緒に暮らし始める。彼女のご両親には内緒のままで……。

「これからは、自分にしかできないことをやりたい」

と、12年3月、勤めていた外食系企業を退職。

ほどなく生きづらさを抱えた人が思いを語る番組『Our Voice』(NHK Eテレ)の司会の仕事が舞い込んだ。それからは講演会をこなし、バーで収入を得ながら、杉山さんはLGBTQ+(性的少数者の総称)の人々の居場所作りや啓発活動に邁進していった。

13年5月、LGBTQ+の子どもの居場所を作ろうと、NPO法人「ハートをつなごう学校」を設立。14年には日本最大のLGBTQ+啓発イベント「東京レインボープライド」の共同代表に就任する。そんな杉山さんの活動を、彼女の両親は遠くから見つめていた。15年、渋谷区の「同性パートナーシップ制度」のニュースが大々的に報道されたときは、お義母さんも見ていてくれたようだ。

交際5年目の記念日に、彼女にプロポーズし、6年目には彼女の両親と和解。義父は、

「俺は俺、お母さんはお母さん。2人は2人ってことだ」

義母もこう言ってくれた。

「渋谷区のこと、頑張ってるのね」

とはいえ、婚姻届を出すためには杉山さんの戸籍の性を男性に変更しなければならない。そのためには乳房だけでなく、生殖機能も摘出する必要がある。それが現行の「性同一性障害特例法」だ。

「トランスジェンダーの性別違和って個人差が大きくて。手術しなければ生きていけない人もいれば、手術はイヤだけれど、結婚できるならと、手術を選択する人もいます。

でも僕は、性別適合手術を強制するいまの制度の形を変えたほうがいいと思っています」

■親3人の子育てで、ジジ、ババは6人に。「子育てに関われてよかった」思いは共通

彼女と暮らすうちに、いつしか「子ども欲しいね」という話が出るようになった。冗談まじりに「僕、まだ子宮あるから産めるかな」などと話したこともある。

「ホルモン注射を打ち忘れると、途端に生理になっちゃうから、可能性はゼロではないけど、でも、やっぱり想像つかないな」と、彼。「自分で産みたいけど、全く知らない人から(精子提供)っていうのは怖いな」と、彼女。

そんな話をしているうちに、ゲイの友人で、信頼関係のあるゴンちゃんの顔が浮かんできた。ゴンちゃんは5歳年上の元広告マン。10年ほど前に知り合ったLGBTQ+活動の戦友的な存在だ。

そんな彼と子どもの話になったのは、共通の友人のレズビアンカップルが妊活を始めたからだ。お互い子どもが欲しいという思いがあった。

「僕たちもゴンちゃんも、パートナーとは子どもが持てないという状況は同じなのに、僕たちだけが親で、彼は親じゃないというのは、フェアじゃないと思うんです」

3人で育てるという基本路線のうえで、妊活に入った。杉山さん35歳、彼女は32歳、ゴンちゃんは40歳。

1年間は人工授精を試し、さらに確率の高い顕微授精に移って2回目で、妊娠に成功。

杉山さんの両親に報告すると、

「おめでとう! でも、私たちの孫って呼んでいいのかしら」

と、戸惑ったが、あれほど結婚に反対した彼女の両親の喜びようは想像以上だった。義父は「文野を選んだ時点でうちにはそれはないと思っていたからな」と涙した。

妊活に、フィジカルには関われない杉山さんも、彼女のつわりを労り、毎日、おなかのなかの子に話しかけて、誕生を待ちわびた。

出産に立ち会い、産声を聞いた。

「生まれた瞬間、血のつながりなんて関係ないなって思いましたね」

18年11月に生まれた長女の名前は「あるがままに」から「ある」。20年12月生まれの長男は「きのむくままに」から「きの」。

親3人の子育てが始まった。養育費は3人で分担。杉山さん、ゴンちゃん、彼女で2対2対1だ。

「彼女は妊娠・出産時の母体のリスクがあるし、子育てが仕事に響くこともありますから」

ファースト抱っこをしたのは、杉山さん。ファースト沐浴をしたのは、ゴンちゃんだった。

呼び名は「パパ」「ママ」「ゴンちゃん」。妊娠を機にアパートを出て、杉山家での2世帯同居も始まった。

子どもたちは0歳から保育園に預けたが、ゴンちゃんは週1~2回の保育園のお迎えと、土日のどこかで半日、公園に連れていくのが、現在の基本のルーティンだ。

「最初は、ゴンちゃんに『来られるときに来て』と言っていたんですが、かえって都合がつかず、1~2カ月、会えないことがあって。ゴンちゃんが来ても、子どもたちは『この人、誰?』って。それで、ゴンちゃんのお迎えは定期的にしようということになったんです。

実際の生活は大変です。役割分担やペースが合わず、全員がイライラすることだってあります。

ただ、揺るがないのは、子どもはかわいいし、子育てに関われてよかったということ。3人共通の思いです。ジジ、ババは6人になるんですけど、6人とも楽しそうで、よかったなと思っています」

昨年11月、あるちゃんの3歳の誕生日には、コロナもあってなかなか会えなかったゴンちゃんの金沢の両親も来てくれて、初めて3家族が全員、集合できた。

「親たちも、子どもたちのユニークな関係性なんて、孫がいるともはや関係ないみたいですね」

杉山さんの母・麗子さん(69)が電話取材に応えてくれた。

「LGBTQ+に関して、もう少し早く、もっと理解してやっていたらという思いはいまだにあります。文野の生き方を見れば、あの子のした選択は間違っていなかった。文野とパートナーが決めたことは、これからも受け入れていきます」

この両親がいてくれたからこそ、杉山さんのいまがある。

きのくんの満1歳の誕生日には“一升餅”のお祝いの写真が、杉山さんのツイッターにあがった。12月16日には、杉山さんとあるちゃんのディズニーランドでのツーショット写真が掲載された。

《子連れでディズニーに来る日が来るなんて。なんだか感慨深いな~》

そのコメントに、結婚も子育ても想像できなかった20代までの彼自身への思いがあふれていたーー。

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