「娘が天国に旅立ってしまったあと、みんなの中の『椿』が消えてしまうのが怖くて。だから、娘が生きた証しを作ろうと思ったんです」

井上みやびさん(37)は、A4サイズ、84ページに、細かな文字がびっしりと詰め込まれた冊子を手に、強い口調でこう語った。

目にはうっすらと光るものが浮かんでいるようにも見える。

この日、記者が訪ねたのは岡山市郊外の一軒家。3年前に再婚した夫・晋志さん(43)と長男・楓くん(7)、そして、みやびさん……、家族で囲むダイニングテーブルの上に、ピンクのかわいらしいテディベアが、ちょこんと座っていた。

「生前、娘がいつもそばに置いてかわいがっていたもの。彼女が亡くなってからは“椿ベア”と名づけて。いまは私たちと、いつも一緒です」

みやびさんの長女・椿さんは生後すぐ、心臓に疾患があることが判明。長く苦しい闘病の末、昨年2月、14年という短すぎる生涯に幕を下ろしたのだった。

「でも、椿はずっと頑張って、すごく頑張って生きてきたんです」

懸命に生きる娘のことを知ってほしいーー、そんな思いで、みやびさんは数年前から、SNSに椿さんの闘病のことを投稿していた。

娘の最後の日々を切々とつづり続けた母の投稿は、たくさんの人々の涙を誘ったーー。

■生後8日目に突然の異変。15万人に1人の難病で、2歳5カ月までに3度の心臓手術を

「幼いころから漠然と『早く結婚して家族が欲しい』と思っていたんです。だから、妊娠がわかったときは素直にうれしかった」

高校卒業後、地元企業に就職したみやびさんが職場で知り合ったのが、子供たちの父親となる1歳下の男性だった。

半年ほどの交際を経て、2人はいわゆる“授かり婚”をした。そして06年10月7日、みやびさんは21歳で母になった。

「自宅から少し離れた助産院で、水中分娩で産みました。助産師さんが生まれてきた赤ちゃんを胸に抱かせてくれて……。ちっちゃいな、本当に赤いんだな、頑張って生まれてきてくれたんだな、って胸が熱くなったのを覚えています。ありきたりですけど『やっと会えたね』って声をかけたと思います」

体重2千640gの女の子。「その花のようにりりしく堂々とした女性になって」と願いを込めて、両親は「椿」と名付けた。

妊娠中も出産時も、椿さんに異常は見られなかった。ところが、生後8日目の夕方、異変が起こる。

「自宅のベッドに寝かせていた椿から、いつもと違うおかしな呼吸の音が聞こえてきて。見ると顔は紫色で、舌が落ち込んで呼吸がまともにできていない状態でした」

慌てて椿ちゃんを取り上げてくれた助産師に相談し、倉敷中央病院の救急外来に駆け込んだ。そこで対応した医師から「娘さんは心臓病で、すぐに手術が必要」と診断され、今度は岡山大学病院に救急搬送、緊急手術を受けることに。

診断によれば、椿さんは胎児のころ脾臓が形成されず、無脾症候群になっていたという。その合併症として、単心室症という先天性心疾患も抱えていた。単心室症は、15万人に1人がかかるという難病だった。

「まさか!? いったい何が起きてるの?」

ぼうぜん自失の思いで診断結果を聞いていた。ほんの数時間前までの幸せが、一気に萎んでいくような気がした。手術中は「どうか娘を助けてください」と震える手を合わせ祈り続けた。あふれる涙を拭うことも忘れて自分を責め、心の中で娘に向かって頭を下げた。

「ごめんね、健康な体に産んであげられなくて、本当にごめんね」

母の願いが通じたのか、誕生間もない小さな体は6時間に及ぶ大手術を乗り越えた。しかし、これは長い闘病の始まりでもあった。

生後4カ月でふたたび呼吸困難になって緊急入院し、2回目の心臓手術。手術は成功したものの、術後の合併症に苦しみ、1歳を過ぎるころまで入退院を繰り返した。

そして、2歳5カ月のころ、椿さんは3度目の心臓手術を受ける。

「この手術は、静脈血の戻る血管を心臓から切り離し、肺動脈につなぐ『フォンタン手術』と呼ばれる大がかりなものでした。でも、この手術のおかげで椿の体調は格段によくなって。とくに運動制限や食事制限もなく過ごせる時期がしばらく続きました」

その1カ月後にはペースメーカーを埋め込む手術を受けたり、ときおり感染症を患って入院することはあったが、心臓病が原因での入院や手術はなくなった。

「幼稚園や小学校にも積極的に通い、行事にも参加できました。弱々しいイメージを持たれがちですが、椿はどちらかというと勝ち気な性格。おしゃべりで。人を笑わせることも大好きな活発な子。クラスの人気者? う~ん、ちょっと我が強すぎるところもあったから、お友達みんなと仲よくできたかはわかりません(苦笑)」

14年、椿さんが小学校1年のときに弟・楓くんが誕生し、家族が増えた。いっぽう、2年後の16年、みやびさんは子供たちの父親と離婚。彼は家庭や育児に関心を示そうとしなかった。難病を抱えた娘のケアも、みやびさんのワンオペ状態が続いていた。

「離婚は避けたかった。

でも、私自身が自分を保てなくなって。彼の帰宅時間が近くなると動悸がしたり。子供の前なのに涙が止まらなくなったり。それで30歳、節目と思い決意して、離婚しました」

同じ年の秋、小学校4年生になった椿さんの人生も、ふたたび暗転してしまう。軽い咳と微熱が続いた椿さんに、フォンタン術後症候群の診断が下ったのだ。

「詳しい原因はわかっていないそうですが、フォンタン手術を受けたのち、全身状態が悪化すると発症するそうで。根本的な治療法はなく予後も不良と説明されました」

患者によって症状はさまざまで、医師は手探りでの治療を余儀なくされる。椿さんの場合、とくに顕著に現れたのが蛋白漏出性胃腸症と、それに伴う難治性腹水だった。消化管など体内から漏れ出た体液が、おなかにたまってしまうのだ。椿さんはこの症状に、最後まで苦しめられることになる。

■「どうせ椿は心臓病だし」。投げやりな態度は院内学級の子供たちと出会うことで変わった

「おなかにたまる水と、摂取する水分量の管理には、肉体的にはもちろん、精神的にも相当、椿はしんどい思いをしたと思います」

水がいっぱいたまった椿さんのおなかは、まるで臨月の妊婦のように膨らみ、自分の足元が死角になってしまうほどだったという。

「腹水を抜く治療をするんですが、水がたまるスピードがどんどん速くなって。当初は1週間で1,500ccほどだったのが、最大4日間で3,400ccにも。水がたまる過程で体内循環のバランスが崩れ、頭痛や吐き気も伴います。パンパンにたまると体の内側から細い針で刺されるような痛みもあったようで、椿は泣いて悶える夜が何度もありました」

飲んだ量だけ、漏れ出てたまる腹水も増えるため、椿さんには厳しい水分摂取量の管理が求められた。さらに、心臓の負担と、腹水の貯留を和らげる複数の利尿剤を服用するようになっていた。

「当初は1日1,000ccまで飲んでいいということでしたが。追加された利尿剤というのが、先生いわく『砂漠にいるぐらい喉が渇く』そうで。椿は私たちに隠れて水を飲むようになっていきました」

小学5年生の冬、椿さんは医師から最初の余命宣告を受ける。やはり、難治性腹水が原因だった。

幸い、このときは点滴によるステロイド投与やカテーテルなど、医師たちの懸命の治療でなんとか命をつなぐことができた。その後も、たまり続ける腹水を定期的に抜いては、漏出した必要な成分を補充するという、終わりのない治療が続いた。入院生活に疲れてしまったのか、椿さんはこのころ、自暴自棄になっていた。

「どうせ椿は心臓病だし。何もできないし」

そんな言葉を繰り返す娘に、みやびさんはこう言葉をかけた。

「無理することはないけど、何もかもできないわけじゃないでしょ。一緒に頑張ろうよ」

それでも、投げやりな態度を崩さない娘に、母はある提案をした。

「主治医の先生にも勧められて『院内学級に行ってみない?』と誘ったんです。何回か誘っても断るので、体調のいい日を選んで無理やり連れていって(苦笑)」

余命宣告から奇跡的に回復した18年の1月。初めての“教室”で、椿さんが目にしたのは、自分と同じ、闘病中の子供たちの姿だった。

「白血病の子が何人かいて。やはり頭髪がないんですね。それに、見たこともないような特殊な機器を装着した子も。ひと目で、しんどさがわかる子たちが、それでも楽しそうに勉強したり遊んだりしている。そして、その子たちが、とても優しく椿を受け入れてくれて。それで、彼女の中で何かが変わったんです。『自分だけじゃないんだ』と心強く思ったんでしょうね。院内学級に行くようになって、また活力がみなぎってくるのが、見ていてもわかりました。生き生きとした椿が戻ってきた、そう思えました」

気力は戻ったものの、腹水はたまり続け、喉の渇きは一向に治まらなかった。そして、症状を抱えたまま、椿さんは中学生になった。

■最後まで頑張った椿さん。葬儀の翌日、部屋の片付けで出てきたカバンに入っていたのは

「中学生になった椿とは、水分のことでよくけんかしました。椿は隠れて飲むんです。でも、すぐに顔が、目が開かないほど浮腫むし、本人がすごくしんどくなるから、わかるんです。それで『飲んだよね?』って聞くと、『飲んでないよ!』って、うそまでついて」

そんなとき、みやびさんは決して怒鳴るようなことはしない。

「何回言ったらわかるの? そんなことしてたら椿は死んでしまうかもしれないんだよ」

言葉を尽くし娘の理解を促した。それは「先々、私がいなくなっても、自分で自分の体を管理できるようになってほしい」から。

そんな親心を知らず、椿さんは、こう言って悪態をついたという。

「だって喉渇くんだもん、ママはいいよね、好きなだけ飲めて!」

何度、説明しても椿さんの水の過剰摂取はやまず、そのつど母娘は衝突を繰り返した。そして、たまった腹水を抜く治療は、椿さんの体に大きな負担となっていった。

中学2年の後半、目に見えて椿さんの体調は悪化していく。

「一昨年の11月に入ったころ、体力が急激に落ちてきて、ちょっと歩くだけで息が上がるように」

12月初旬、鼻血が止まらなくなり呼吸も苦しくなって緊急入院。いったん退院するも、クリスマスの日に再度入院し、2日後、医師から2度目の余命宣告を受ける。

「先生に呼ばれ説明を受けました。これ以上の治療はないということでした。『椿ちゃんとご家族が後悔のないよう、残された時間をどう過ごすか考えていきましょう』と言われて。年明けのカンファレンスでは『どこで最期を迎えたいか、決めておいてほしい』とも……」

じつは、みやびさんはこの少し前、椿さんに言われていた。「死ぬときが来たら教えてね」と。

「でも、言えませんでした。先生とも相談したんですが、本人の生きる気力を奪いかねないと。でも、感受性の強い子だから、椿はきっともう、わかっていたと思います」

医療スタッフの全面協力のもと、椿さんは最後の日々を過ごしていく。まずは退院して自宅に。そして、家族で温泉旅行。親友を家に呼んでおしゃべりもした。実の父の家に行き手料理もごちそうになった。幼いころから慣れ親しんだからか「病院にも行きたい」という本人のリクエストどおり2月3日、改めて入院もした。でも、もうこのときはモルヒネの量も増え、眠っている時間が長くなっていた。

そして、2月4日。早朝、椿さんの体はけいれんを起こした。それでも「最期はおうちがいい」という希望をかなえようと、みやびさんの妹が運転する車で自宅に。後部座席にみやびさんと椿さん、そして主治医も同乗してくれた。

「病院を出て15分ぐらいすると呼吸が弱くなって……、でも一度、大きな呼吸をして持ち直して。すぐその後、大きく2回、深呼吸をして、そして、息を引き取りました……。最後まで、椿は頑張ってくれたんだな、と思いました」

2月7日。

前日に葬儀を終え、みやびさんたち家族は、椿さんが使っていた部屋の片付けをしていた。

「そこに病院に持参していたカバンがあって。『この中も整理せんといけんね』って。じつは椿、使ったティッシュとか、食べ残したお菓子とか、平気でどこにでも入れておく癖があったから。そしたら、本当にそんなゴミが出てきて『ほら、やっぱり』なんて3人で、笑ったり、泣いたりしながら……」

そのカバンのポケットに入っていたのが、小さなメモ帳だった。

「『どうせ使っていないやつよな』と言いながら、何げなく、本当に何げなく、でもなぜか私、後ろ側からパッと開いたんです。そうしたらそこに『ママ!!』って、椿の書いた文字が……、目に飛び込んできて……、不意に、椿から呼びかけられたみたいな気がして……」

メモ帳には、1ページに1フレーズずつ大きな、でも震える線で、次の言葉が書き連ねてあった。

〈ママ!!〉
〈大好きだよ〉
〈愛してるよ〉
〈必死におうえんしてる〉
〈いつでも見てるよ〉
〈天国かじごくで〉
〈だから〉
〈がんばって立ち直って〉
〈あの世でまたあそぼ?〉

ページをめくるみやびさんの目から、みるみる涙があふれていた。

「びっくりして、でも、うれしくて。声を上げて泣きました。泣きながら、いろんな思いが湧いてきてしまって。『いったいいつ書いたの?』とか、『どうしてこんなこと書けたの?』とか。死を前にしてすごく怖かったろうに、そんなことおくびにも出さずに私を気遣う言葉を書き残したあの子が誇らしく、そしていっそういとおしく思えました」

そうふり返った母の目に、あの日と同じ大粒の涙が光っていた。

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