住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代、ボディコンを着て踊ったディスコの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。

「大学進学を機に上京して、初めて山手線に乗ったとき、小学生が標準語を話しているのを見て“ドラマや漫画の言葉をしゃべっている!”と、びっくりしました。だからこそ、その1年後にマハラジャに行ったときは“わずか1年で、ついに私もここまで来たか……”と感慨深く思ったり(笑)」

こう振り返るのは、フリーアナウンサーでナレーターの近藤サトさん(53)。「田舎(岐阜県土岐市)に生まれ育った」ため、テレビがすべての情報源だったと明かす。

「古い話ですが、最初にどハマりしたのは『フィンガー5』(’72~’78年)。テレビで歌う姿を見て、“あっち側”の世界への憧れが芽生えました。とはいえ、アイドルになりたいなんて大それたことは考えていなくて。木村太郎さんや宮崎緑さんの『ニュースセンター9時』(’74~’88年・NHK)、『野生の王国』(’63~’90年・TBS系)といった番組を見るうちに、何かしらテレビに携われる仕事をしたいという思いが強くなっていったんです」

とくに好きだったのは、時代劇。中村敦夫の『木枯し紋次郎』(’72年・フジテレビ系)の再放送を見たのがきっかけだった。

「私にとってテレビは夢を見るための道具だったので、大人気だった『3年B組金八先生』(’79~’11年・TBS系)は、リアルすぎました。時代劇なら“過去”という非現実な世界に入り込めたのです。それに勧善懲悪という、ある一定の型というか、予定調和があり、見ていて安心感も持てました。同じ話を何回聞いても、そのたびに楽しめる落語のように」

『8時だョ!全員集合』(’69~’85年・TBS系)にも、計算しつくされた“一定の型”を感じていた。

「前半のコントの最後は毎回ドタバタで、タライが落ちてきたり、屋根が崩れたりして、舞台がメチャクチャになるのを、おなかを抱えて笑って見ていました。親に叱られ、罰として“今週の全員集合は見ません”と書かされたこともあるくらい(笑)」

近藤さんが中学に入ったころ、アイドルブームが巻き起こる。代表格は松田聖子であり、たのきんトリオだった。

「たのきんの中ではマッチが好きでした。今は48人もいるグループが複数ありますし、2次元に2.5次元と、アイドルは幅広い。そしてインターネットから多様な情報を得ることができますが、当時はテレビという“窓”しかなく、男性はジャニーさんが提案したアイドルが中心。限られた選択肢に多くの女子が没入し、熱狂していましたよね」

さらに高校生にかけて、映画やテレビから吸収したのが、アメリカの文化だ。

「『フラッシュダンス』(’83年)も、時代劇に通じる、わかりやすいサクセスストーリーですよね。『MTV』やNHKラジオから聞こえてくるカルチャー・クラブやマイケル・ジャクソン、デュラン・デュランの曲に、“なんだこの音楽は!”と衝撃を受けました。高校時代、友達の家で“お泊まり会”をしたとき、夜遅くにみんなで『MTV』を見て、『マイケルのムーンウオークって、どうやって動いているの? すごい!』と盛り上がったのを覚えています」

夢の世界を見せてくれるテレビが大好きなまま迎えた、大学への進学時期。

「高校生にもなると現実的になるので、テレビ局や大手広告代理店に入るのはさすがに難しいことを理解していました。でも、東京に行けば、関連会社など、大きな意味でマスコミに関わる仕事ができるかもしれないと思ったんです」

こうして、多くのマスコミ人を輩出している、日本大学芸術学部の放送学科へと進学した。

■ニットのボディコンに、ショッキングピンクのバッグを合わせて

「世はバブル経済全盛期で、女子大生ブーム。まわりはみんな『JJ』から抜け出したようなファッションでしたが、私は本流から少し外れていました。当時ははやり始めで、まだマイナー感があったヒップホップやレゲエ、ワールドミュージックが好きで、ラッパーみたいなファッションをしていたんです。すこぶる評判が悪かったですけど(笑)」

サークルも人気のテニスやオールラウンドではなく、オタク要素の強い朗読研究会に所属。

「朗研は、『安寿と厨子王』や『平家物語』などを説教節で朗読したりする、アニメ研と並ぶくらいオタク度の高いサークルでした」

女子大生ブームの大波に乗り切れない大学生活を送っていた近藤さんの元にも、ディスコへの誘いがあったという。

「“そっち側”の人間ではないと感じつつ、“ちょっと、どんなものか見ておかねば”と探求心も芽生えて(笑)。でも、TPOを考えると、ラッパーみたいな服装で行くわけにもいきません。そこで、のちに“お立ち台の女王”といわれた荒木師匠(荒木久美子)のような、ボートネックになっているニットのボディコンを、人気ブランド『ピンキー&ダイアン』で、5万円ほどで購入。仕送りが家賃も合わせて10万円だったので、まさに一張羅でした」

“いいオンナ”の象徴だったダブル浅野を参考にワンレンにし、ショッキングピンクのバッグに、黒のハイヒールを合わせ、夜の六本木に繰り出すとーー。

「初期のディスコは、フォークダンス的要素もあって、盆踊りのように輪になって踊ったりするものだから“日本人っぽいね”とゲラゲラ笑ったり。はやりの音楽を聴き、◯◯フィズとかいうかわいらしいお酒を飲みながら、バカ話。時にはナンパされたり。

非常に内向的で特殊な空間に感じましたが、それはそれで楽しくて、思ったよりも居心地がよかったですね。田舎育ちで何も知らないまま上京して、吹けば飛ぶような存在だった女子大生の私にとって、同じ属性や年代の仲間と一緒に過ごす安心感、“ここの住人なんだ”という意識も与えてくれたように思います」

大学卒業後、フジテレビのアナウンサーになった近藤さんにとって、貴重な体験となった。

「在学中はNHKでアルバイトをし、レポーターも体験。勉強はあまりせず、朗読にヒップホップといった、ちょっと偏った趣味を持っていました。学生らしさに欠けていたところもありましたが、ディスコに出入りし、流行の中に身を置いたことで、バランスがよくなったのかもしれません」

だからこそ、幅広い情報を扱うマスコミ業界に飛び込み、活躍することができたのだろう。

【PROFILE】

近藤サト

’68年、岐阜県土岐市生まれ。’91年、フジテレビに入社し、アナウンサーとして報道番組や情報番組で活躍。’98年のフリー転身後は、ナレーションも数多く担当している

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