「笑ってるの? そうか、カメラマンさんのカメラが気になるのね」
車いすの夫のにこやかな表情を見て、こう声をかける妻。彼女自身も柔らかな笑みを浮かべていた。
長野県飯田市。坂内秀行さん(42)と織子さん(45)は、この自然豊かな、のどかな町で暮らしている。
「カメラにギターと、彼はもともと多趣味な人で。出会いのきっかけもカメラなんです」
’08年春、2人はSNSのカメラ愛好家が集うコミュニティで知り合った。当時、織子さんは京都の実家から大阪の職場に通う販売員。いっぽう福島出身の秀行さんは、奈良の酒造会社に勤務していた。
「初心者の私がコミュニティで質問を書き込むと、いちばん丁寧に答えてくれるのが彼でした」
初対面はその年のゴールデンウイーク。休みを利用し彼が彼女のもとを訪ねてきたのだ。
「私は身長152cmですが、彼は180cmほど。『大きい人だな』が第一印象。派手なアロハシャツにデニム、ハンチング帽と少々イカついいでたちで(笑)。でも、とても優しい目をしていて、一緒にいると居心地がいい人だなって」
こうして交際を始めた2人。
「日曜日でした。桜の季節で、2人で写真を撮りに出かけた後、彼のアパートに戻って、夕食後にコーヒーを飲んでくつろいでいたら突然、彼が意識を失ってしまって」
救急搬送された病院で、秀行さんはくも膜下出血と診断され、緊急手術に臨むことに。
「まるで映画でも見ているかのようで。目の前で起こっていることが現実とは思えなかった。勝手に涙があふれてくるばかりでした」
夜を徹しての大手術だった。
「くも膜下出血の多くは、動脈瘤ができて、破裂して起こるそうです。でも彼の場合、首の後ろからつながる大事な太い血管の1本がちぎれて、そこから大出血していた。手術は無事終わりましたが、脳のダメージは相当なものだったようで、先生は『会わせたい人がいるなら呼んでください』と」
■当時は夫婦ではなかったけど『この先もずっと、一生一緒にいる』と決めた
関西に身内のいない秀行さん。織子さんは病院で「婚約者です」と自らを名乗り、医師からの説明を受け、手術の承認もし、秀行さんの実家に連絡も取った。
でも、厳密には婚約を交わしていたわけではない。手術の翌々日には、彼の母も福島から駆けつけた。
「そうですよね、そこでお別れする人もいるのかもしれません。でも、私にはなぜか『彼はこのまま絶対終わらない』っていう確信があって。それに、私にとって彼は本当にかけがえのない存在でした。当時は夫婦ではなかったけど『この先もずっと、一生一緒にいる』と、その時点で私、決めたんです」
こうして、織子さんは術後のリハビリにもずっと付き添い続けた。
「でも、なんとなく病院からは匙を投げられている感じで。回復の見込める患者に対しては、病院も懸命にリハビリをさせてくれるんです。でも、彼の場合、その見込みは薄いと思われていた。体はどこも動かせなかったし。気管切開をしていますから、声でコミュニケーションも取れない。
彼はこのまま終わらない、私が絶対よくしてみせるーー。強い信念のもと、彼女は奔走した。そして、秀行さんに手を差し伸べてくれる医師を求め、2人は奈良から彼の地元・福島、さらに山形へと転居・転院を繰り返した。
「山形で診てくださった嚥下機能のリハビリ専門の先生が、とても親身になってくれた。のみ込む力が回復してくると、彼の全身の状態もどんどんよくなっていったんです。それまで混濁しがちだった意識も、はっきりするように。その後、その先生が長野の病院に移ることになり、私たちも’17年の暮れ、ここに移住してきたんです」
’20年、彼の意識障害が癒えたことで、2人同意のもと入籍。はれて、2人は夫婦になったのだ。
■時間にして2分。左手を動かして書かれた4文字「しあわせ」
やがて、秀行さんは左手をかすかに動かせるまで回復。リハビリがてら、その左手でペンを持ち、妻の介助のもと、簡単な絵を描くのが日課の1つとなっていった。
「そのうち、たどたどしいですが、字も書けるようになって。
ところが、奇跡が起きる。
「今年の1月です。朝から彼、ずっとニコニコと私を見ていて。『言いたいことあるの?』と聞いても、ニコニコだけ。『試しに書いてみてよ』と、いつものペンとスケッチブックを用意すると……」
時間にしておよそ2分。懸命に左手を動かし続けた彼が記したのは「しあわせ」の4文字だった。
「『え、まさか!?』って、本当に驚いて朝から大号泣しました。『幸せって書いてくれたの?』って聞いても、彼はいまのようにニコニコと笑うだけでしたけど。もう、この4文字とその笑顔で、私の10年間は報われた、そう思えました」
病いに倒れる以前の秀行さんは、サプライズが大好きだったという。
「何も言わずにカメラをプレゼントしてくれたり。
こう言って笑う織子さんの目に、光るものが浮かんで見えた。