「お花はいかが? おみやげにいかがですか」
赤や黄色のバラを中心にアレンジした花束をいくつも抱え、黒塗りの車やタクシーが渋滞する銀座のネオン街で人びとに声をかけるが、立ち止まるどころか目を合わせてくれる者さえいない。
「昔は、花、花ってお客さんが集まってきて大変だったのよ。
銀座の西五番街通りと花椿通りが交差する一角を拠点に界隈を歩きまわり、花束を売っているのは、最後の“銀座の花売り娘”木村義恵さん、81歳だ。あざやかな青いセーターにバラ色のストール、黒いポシェットを肩掛けした木村さんは口調も足取りもはつらつとして、その年齢をまったく感じさせない。
終戦直後の混乱期、♪花を召しませ 召しませ花を~と岡晴夫が歌って大ヒットした『東京の花売娘』(※)にあるように、銀座や有楽町、新橋では多くの若い女性が通行人に花を売っていた。
木村さんが銀座で花売りを始めたのも13歳のときだ。引退した時期もあったが、復帰して40年たったいまも、土日祝日以外は夜8時から11時、時には0時過ぎまで銀座の路上で花を売り歩いている。木村さんは銀座の、いやおそらく東京で最後の“花売り娘”だ。
記者が初めて取材に訪れた10月下旬の夜は冷え込んだが、木村さんは平気な様子。
「冬でも歩いていると汗かいてくるよ。だから首のストールはタオル地。1日1万5千歩は歩くね」
そんな話をしていたとき、若いサラリーマンが声をかけてきた。
「あら、お兄ちゃん、久しぶり!」
木村さんは笑顔で立ち話。なんでも数年前に彼から「2万円くらいで飲めるいいお店を紹介して」と頼まれたのが出会いだという。
「教えてあげたら花を買ってくれて店のママに持っていったのよ。『楽しい』ってそのお店にずっと行ってる。そういう縁はうれしいわね。去年、群馬に転勤になってからはたまにしか銀座に来ないけど」
コロナ禍の緊急事態宣言のときは、木村さんも1カ月間は家にこもっていたという。いまようやく客足が戻り始めた銀座だが、戦後の混乱期、バブル景気、その崩壊から現在の不景気と、移り変わる銀座を路上から見つめながら、木村さんは花を売り続けてきた――。
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■父親の放蕩で食べるのにも困るようになり、姉の代わりに13歳の木村さんが花売りに
木村義恵さんは、太平洋戦争が勃発する直前の昭和16(1941)年11月16日、4人姉妹の三女として東京は港区の麻布で生まれた。父・小林常義さんは、木村さんの母であるまつさんと結婚した23歳のときに、勤めていた大きな家具店から商才を買われて暖簾分けされ、郵便局や官庁などを相手に店は繁盛。
「でも父は、『どうせ戦争に行って死ぬんだから』って、稼いだお金をどんどん自分の遊びに使う、どうしようもない男だったのよね」
やがて父は出征し、東京に敵機が来襲するようになった。麻布に住んでいた幼い木村さんにも空襲の記憶はあるのだろうか。
「あるわよ。
東京はいよいよ危なくなり、一家は父の長野県の大地主の実家に疎開。3日後、芝公園の防空壕に爆弾が落ちて避難者全員が死亡したという。その後、木村さんたちは群馬県の母親の実家に移動。獣医の祖父の元には、近隣農家からの米や芋、卵などが豊富にあった。
「祖父が、そういうものを扱うお店を母にやらせたのよ。東京からたくさんの人が買いに来たわね。闇屋さんも来て、すごく儲かった」
しかしそんな生活は、敗戦4年後に父が帰還したことで終わった。
「先に東京に戻った父が、儲けたお金を女や遊びに使っちゃったのよ。それで父は、焼け野原の浅草の観音様(浅草寺)近くのバラックみたいな家でまた家具店を始めたの。私が6歳のころには弟2人も生まれていて、家族8人がそこで雑魚寝。朝鮮戦争特需(’50~’53年)のころは、私も鉄くずや銅線とか拾って売りにいったわね」
花売りを始めたのは、昭和29(’54)年、13歳のときである。
「父が女をつくって出ていったりして、食べるにも困っちゃって」
木村さんは苦笑しながら、当時のことを回想する。
「姉が同じ年の友達に、そのことを相談したら、『じゃ、ついて来な』って。17歳と15歳の姉が銀座に花売りに行った。ところがお巡りさんから『あんたたちは大きいから米兵に強姦されちゃうよ。やめな。俺はそういうのを見てきたから』といわれて、いちばん小さかった私が行くことになったのね」
荒涼とした焦土の東京で、銀座だけが沸いていた。GHQによる占領は2年前に終わったが、日本にはまだ多くの米兵が残っていた時代だ。
「銀座にも米兵がいっぱいいた。数寄屋橋公園のそばには露店が100軒くらいズラーっと並んで、スカーフでもなんでも売っていた。若い女たちが米兵の腕にぶら下がっていてね。花売りも100人くらいいたわよ」
そんななかに加わる13歳の娘のことを両親は心配しなかったのだろうか。
「ぜんぜん。帰ってきた父が、寝てる私の足を踏んづけて『花売り、行け』なんてこともあったし、家具店への入金は全部自分の遊びに使って、もうメチャクチャ。
ほどなくタクシー運転手から「横浜のほうが花が売れるよ。住んでいる外国人たちは花が好きだから」と聞き、仲間3人で横浜の将校クラブの前で花を売り始める。
「将校だから金持ちでしょ。一緒にいる女の人にお花欲しい? って聞いて、その人がうなずくと、OKって、いっぱい買ってくれた」
そのときの光景が蘇ったのか、木村さんは柔らかくほほ笑んだ。
「1ドルが360円の時代よ。40円くらいで仕入れた花束を1つ100円くらいで売ってた。いまのお金なら千円くらいかな。東京の路面電車の運賃が10円の時代だから。女のコ3人で花を売ってたら家が建つんじゃないかってほど儲かった。将校たちは、ほんと金持ちで優しかったわね。こっちが子供だし、戦争でいじめたからかな」
中学2年生のとき、木村さんは浅草の家を出て、お金を入れることもやめた。
「だって、あんな父のいる家は嫌いだったからね」
■コロナで変わったけど、やっぱり銀座は粋で特別な街
木村さんは19歳で花売りを辞め、結婚、離婚を経て、さまざまな職を経験。
ある日、銀座の街を歩いていたときのことだ。
「昔やっていた花売りがまだいるじゃないの。『これだ!』と思ったのね。人に使われて地下で食品を売るより、一人で花を売るほうがお金になる。銀座は道が広くてきれいだし、日本の最先端の人たちを眺められるし、なんといっても“昔取った杵柄”でしょ(笑)」
昭和58(’83)年、41歳で木村さんは花売りに復帰したのである。
現在、木村さんは大田区の平和島公園近くの一軒家で、派遣社員の長女と2人で暮らしている。母親が70歳で病死後に、花を仕入れる大森市場近くの南馬込に引っ越したが、市場の移転に合わせて平成元(’89)年、築20年だったこの家を購入したのである。
朝6時半に家を出て車で大田市場に行き、7時から始まる花のセリに参加。
「3千円で売る花束の仕入れ値は2千円ほどだから、10束売れると儲けは1万円ほどね。私が食べていく分は出る。私は花が好きだし、売ることも好きだし、子供のころから居慣れてる銀座が好きなのよ」
元気の秘訣を尋ねると、「青森のにんにく!」と即答。土日祝日は、スポーツクラブでのヨガやサウナのほか、平和島公園でサイクリングをしたり、図書館に行ったりという充実ぶりだ。
「父も元ダンナも70歳で病気で亡くなった。あんな父でも病院には姉妹が順番で看病にいったのよ。でも亡くなっても悲しくなかった。長男だけは結婚してるけど、孫はいない。私も欲しいと思わないし、息子たちには市場で買った正月用のおいしいものを送るくらいでめったに会わないわ。娘にも早く出ていってほしい(笑)。姉が一緒に老人ホームに入ろうなんて誘うけど、まっぴらごめんよ。私は身ひとつで自由なのがいちばんいい」
銀座での取材を終えて記者が帰宅したのは夜11時過ぎ。木村さんは寒空の下で一人、まだ花売りをしているのだろうかと案じていたときだった。木村さんから電話が入った。
「あれから岩城滉一さんが来て、花を全部買ってくれたのよ! コロナで銀座は変わったけど、やっぱりここは粋で特別な街ね」
銀座で生き抜く木村さんの声は、誇らしげに弾んでいた。
【後編】最後の“銀座の花売り娘”81歳。作家・伊集院静さんとの路上での“対決”に続く