【前編】障害児キッズモデル「僕たちから目をそむけないで!」華ひらく社長・内木美樹さんよりつづく

12月3日午前10時、週末の千葉県のイオンモール木更津。多くの家族連れでにぎわうなか、2階にある展示スペースで、ひっそりと小さな写真展が始まった。

30点ほどのパネルには、子供たちがカラフルなバルーンやシャボン玉に夢中になっていたり、あどけない表情でソファでくつろぐ姿などが写されている。

一見、何げない日常の光景だが、作為のない子供たちの表情や、会場全体の飾りつけもパステルのトーンで統一されていて、不思議な幸福感に満ちているのだ。

《ここにいる全員、障害のあるキッズモデル》

入口脇に掲げられた写真展のタイトルのとおり、実は、ここに写っているすべての子供が、何らかの障害と共に生活している。よく見れば、パネルの脇にモデルの名前と一緒に「7歳・自閉症・肢体不自由」「3歳・自閉症・重度知的障害」などとプロフィールが添えられていた。

「写真も会場も明るい雰囲気で、驚かれたでしょう。私が何より大切にしているのが、この世界観なんです。障害につきまとう、暗かったり、マイナスのイメージを変えたいんです」

そう話すのは、この写真展を主催した、障害のある子供たちのモデル事業などを手がける「華ひらく」(東京都新宿区)社長の内木美樹さん(40)。

■結婚、起業……穏やかな生活は、授かった長男が2歳になる直前、保育士のひと言で一変

「普通にわがまま(笑)、よくいえば活発な女の子でした」

’82年12月4日、横浜市に生まれた内木さん。

「航空会社勤務の父、専業主婦の母、3つ上の兄の4人家族。地元で小中高と公立校に進み、ずっと陸上部に所属していました」

そんな、「ごく普通の生活」が中学1年のときに突然、断たれる。

「母が膵臓がんで急死。当たり前だった、学校から帰宅しての『おかえり』という笑顔を失い、深い絶望に陥ります。

その孤独や悲しみを12歳の私は抱えきれずにパニック障害を引き起こし、幸福な時期があるからつらいんだと自己防衛で忘れようとするうちに本当に記憶を失い、解離性障害と診断されました」

そんなとき、図書館で1冊の学習漫画と出合う。

「何げなく手にしたマザー・テレサの伝記を読んで、世界には、こんな不幸な私すら持っている家のない人や、ご飯さえ食べられない人たちがいることを知り、私も泣くばかりでなく、将来、マザーのように自分の体験を生かして何かできないかと、前を向けたんです」

その夢を実現すべく、高校卒業後には留学準備の専門学校へ進み、19歳で渡米。ネバダ州のリノ市にある、看護学でも有名な短大TMCCへ入学。

23歳で帰国後、コピー機の営業職などを体験。しかし、

「上司からのノルマや罵声があったり。留学したせいで、日本の会社とはこういうもんだと思い込んでいましたが、やがて、いわゆるブラック企業だと気づくんです。

これは自分の思い描いている道とは違う。だったら、会社に縛られない働き方をしたいと、起業に踏み切りました」

’10年11月、たった一人で設立した「華ひらく」は、当初は留学体験を生かして、飲食店のインバウンド向けの接客の英会話教育などを請け負う会社だった。

2年後の春に、日米間の長距離恋愛を続けていた克親さんも帰国して、結婚。

穏やかな夫との生活のなかで、パニック障害もいつしかおさまっていた。

そして、’13年10月8日、長男の尊くんが誕生する。

「主人は会社員で経理を担当していて共働きですから、尊は6カ月から保育園。

歩き始めるのが遅いくらいで、なんの心配もなく忙しく毎日を送っていました」

その日常が、2歳になる直前、保育士のひと言で一変する。

「タケちゃん、耳が聞こえてないかもしれません。お名前を呼んでも振り向かないんです」

母親の直感で耳は正常だと思っていたが、不安を捨てきれずに、大きな施設を訪ねた。

■ガラスの壁の向こうにいる人にも障害のある子供たちのことをどう伝えるか、ひらめいたのは……

「自閉症と知的障害があります」

市川市のこども発達センターの医師が告げたのに対して、事前に発達障害等について調べていた内木さんは、間髪入れず尋ねていた。

「知的障害は中度ですか?」
「重度に近い中度です」

その言葉が重くのしかかる。

「自閉症などの障害があっても、各分野で活躍している人もいます。その存在が私の最後の希望でしたが、重度の知的障害と聞いて、一気にくだかれました」

しかし、女性園長は行政と相談して尊くんの担当となる加配保育士を付け、ほかの保護者たちも温かく受け入れてくれたのだった。

「それでも、2歳、3歳と成長するにつれて、ますます尊がじっとしていられなくなったり、大声を上げたりするのを見て、私は、うちの子が園全体の和を乱しているのではと、心配するばかりで。

’16年2月には、弟の謙くんも誕生。しかし、遊びたい盛りの男の子2人を公園に連れていくのは、いつも夕方5時を過ぎてから。

「薄暗い公園を見渡し、ほかの子やお母さん方がいないのを確かめてホッとしている自分に気づいて、また泣きたくなったり」

本来の自分らしさをどんどん失っていく内木さんだったが、わが子の障害を受け入れるきっかけは小学校入学と同時に訪れた。

千葉県立の特別支援学校への入学式でのことだった。

「最初の行事の集合写真の撮影で、尊がシャッターが1回下りただけのところで駆け出してしまったんです。私自身は、もう焦ってしまうばかりでした」

すると、周囲の先生たちが、こんな言葉を口にした。

「あらら、行っちゃったねえ~。元気でいいね」

そのやわらかな笑顔を見て、内木さんは、ようやく自分たち母子の居場所を見つけたのだった。

その初めての心の余裕が、彼女にあることを気づかせた。

「ふり返れば、保育園でも、公園でも、みなさんは私たちを受け入れてくれていた。なのに、自分で見えないガラスの壁を作っていた。

そうか、私こそが、障害のある人たちに対して、偏見や差別の気持ちを持っていたんだと」

そして’20年に入ると、家族はまた大きな一歩を踏み出す。ユーチューブで、尊くんの日常を配信し始めたのだった。名付けて、「はばたけタケル」。

1年後には登録者数も3千人まで増えるなど、一定の反響は得ていた。しかし、内木さんは、

「ユーチューブを通じて、同じ障害のある人たちの輪はできました。

でも、ふさわしい表現ではないかもしれませんが、傷のなめ合いをしているうちは、社会は変わらないだろうと思ったんです。

だったら、かつての私のように、ガラスの壁の向こうにいるあちら側の人にも、障害のある子供たちと家族のことをどう伝えるか。お涙ちょうだいはイヤだし、できれば子供たちの自立につながってほしいと、思いました」

仕事や家事をしながら、また夜も寝ずに考えに考えた。そして、

「興味のない人も否が応でも目にしてしまうもの、感情に訴えるもの。そうだ、広告だ、キッズモデルだ!」

■無我夢中でらくがきに没頭する子供たちの笑顔が広告に使われ大評判に

「飛込み営業で、まずは世間的にSDGsに力を入れている会社などに連絡しましたが、ほとんどが『前例がありません』『障害者を利用してお金もうけをしているとのクレームにつながりかねない』というお返事でした。

そこで、よし、外堀から埋めようと思うんです。社会のほうから“日本にだって障害のあるキッズモデルがいてもいいよね”というウエーブを作ろうと。その具体策が、写真コンテストでした」

このコンテストは、新聞各紙などにも取り上げられ、冒頭のとおり、その後の写真展にもつながっていき、大きな成果を上げた。

同時に進んでいたのが、ある広告プロジェクト。その相手企業がチョークや描いても消せる筆記具「キットパス」で知られる日本理化学工業(川崎市)だった。

「60年以上前から障害者雇用に取り組み、社員の7割が知的障害者という日本理化学工業さんは、ずっと大ファンで、モデル事業を立ち上げたときに、ぜひお声がけしようと決めていたんです」

同社広報部の雫緑さん(42)は、

「今年4月、わが社のホームページのお問い合わせ欄に、内木さんの最初のメールが届きました。

障害のある方への思い、ご自身のママとしての思いがあふれるほどの長文で、私自身4歳児の母親として大いに共感して、すぐに広告作りが動き出しました」

早くも翌5月には、千葉県の鴨川でキットパスの新商品の広告の撮影が行われた。

「華ひらく」から出演するのは、ダウン症のすみれちゃん(8)と自閉症と軽度知的障害のあるなぎさちゃん(7)。

ほかの広告制作との大きな違いは演技指導などが一切ないこと。現場に立ち会った、なぎさちゃんの母親の武藤綾夏さん(34)は、

「内木さんから『お絵描きの好きな子向きの仕事があります』と一斉メールが来て、なぎさにぴったりと思いました。家でも何時間でも描き続ける子なんです。撮影の現場でも、『この大きな窓ガラスに好きに絵を描いていいんだよ』と伝えられたあとは、大人は手出しせずに、のびのび自由にやらせていただけました」

完成した広告写真は、商品チラシや展示会パネルに使用され、大評判となった。雫さんは、

「現場で、無我夢中でらくがきに没頭する子供たちの笑顔こそ、私たちが伝えたかった商品のコンセプトそのものです。これは、新しい化学反応ができたなと、現場で広告の成功を確信しました」

現在、「華ひらく」に登録しているキッズモデルは、0~13歳の38人、契約企業はフォトスタジオやこども食堂など7社。

もちろん、この事業のきっかけとなった内木さんの長男の尊くんも、トランポリン施設の広告などに出演している。

■障害のある子供たちが自立でき、そのとき彼らにやさしい社会が実現してほしい

「タケちゃ~ん、戻っておいで」

写真展の昼休みの時間に、会場近くの海の見える公園を訪れた内木さんファミリー。

車を降りた途端に駆け出した尊くんは、もう50mも先にいて、まだ走り続けている。そのあとを克親さんが名前を呼びながら追いかけ、さらに謙くんが続く。

「いつもの、わが家の光景(笑)。

尊のおかげで、笑い声も絶えないし、教わることも多いです。

障害のある子供がいると、両親がその子にかかりきりになって、健常の子が寂しい思いをすると知り、毎月、『タケルがママを独占できる日』と『ユズルがママを独占できる日』も作りました。

「ほら、タケル。あっちは海だよ、オーシャン」 「オーシャン! オーシャン!」

ようやく戻ってきた尊くん、今度は海を目がけて走り出す。語学に堪能な内木さん夫妻は、幼いころから兄弟に英語で話しかけていて、家族の会話にはよく英単語が混じるのだそうだ。

海を見に行った母子を見送りながら、今度は克親さんが、

「夫婦でよく話すのは、僕たち親は子供より先に死ぬこと。だからこそ、障害のある子供たちが自立でき、そのときに彼らにやさしい社会になっていてほしい。彼女の仕事はそのきっかけになると信じ、家族全員で応援しています」

今後、キッズモデルたちの写真展は、12月21~27日に新宿髙島屋での開催が決まっている。

内木さんは、木更津での取材翌日に40歳になったが、これまでと変わらず、次のクライアントや写真展の会場を探して、今日も飛込み営業の電話をかけ続ける。

「いずれ60歳ごろまでに、里親や保護司を務めたいという思いもあります。もちろん、マザー・テレサがお手本。でも、まず今はキッズモデルを、もっと日本中の人に知ってもらうことが最優先。まだまだガラスの壁は厚いですけど」

ポンと背中を押してくれるのは、たくさんの無垢な笑顔たちだ。

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