〈ようやく息子が成人式を迎えました。あれから20年。
影山百合子さん(81)から、本誌記者がこんなメールを受け取ったのは、昨年1月の終わりだった。
影山さんは、’01年7月に60歳で出産し、「日本最高齢出産」の記録を作った、元公務員の女性。
当時、新聞や雑誌、テレビなどでいっせいに報じられ、アメリカでのドナーによる体外受精だったことや、なによりその出産年齢が注目されるなかで賛否両論も巻き起こり、影山さんは国内外で注目される存在となった。
激しいマスコミの取材攻勢から逃れるなか、影山さんが本誌にだけインタビューに応じてくれたのには、こんな理由があった。取材会場のホテルのロビーに現れた彼女は開口一番、こう言った。
「私、’58年の創刊時からの『女性自身』の読者です。’58年は私が社会人になったころでもあり、役所への行き帰りや、海外旅行へ行くときもいつも愛読していました」
こうして21年前の本誌「シリーズ人間」で最初の記事が掲載され、3年後にも同じく近況報告がなされた。取材終了後、記者と交わした約束が、子供が成人式を迎えたときの再インタビューだった。
以降、毎年、その息子・レノ君(21)の写真入り年賀状やメールが記者宛に送られてくるようになった。赤ん坊から少年に、やがてハンサムな青年へと成長する姿を見ながら、影山さんも元気にお母さんとして暮らしている様子が伝わってきた。
だからこそ、昨年12月頭に都内でのおよそ20年ぶりの再会を果たしたとき、影山さんが杖をついて現れたので、少し驚いてしまった。
「先週、お風呂場で転んで骨折してしまいました。
その言葉に、以前の取材時に聞いていたエピソードを思い出す。三半規管に持病があり、転びやすい体質という彼女だったが、
「妊娠に備えて、ふだんからあえてハイヒールを履いて、常にまっすぐ歩けるよう鍛えてるんです」
本人は「すっかりおばあちゃんになってしまって」と苦笑していたが、60歳での超高齢出産を可能にした、逆境をもバネに変える、持ち前の強靱な精神力はいまだ健在のようだ。
■骨密度も20歳並み。アスリート並みの健康体に生んでくれた両親に改めて感謝
最初の「シリーズ人間」の記事では、夫は「20歳以上年下」の「義男さん(仮名)」と紹介されていたが、実はこれは正確ではない。
「彼は中東出身で、年も24歳下です。仮名を使ったのは、当時、それはすさまじい報道ぶりでしたから、少しでも外国人の彼をマスコミから守るための苦肉の策でした」
中東の夫の親族たちは、この結婚に猛反対した。
「なんで、わざわざそんな年上の女性と結婚するんだ」
「もっと若い人と結婚すれば、子供も自然に授かるのに」
それら苦言に深く悩み始めた夫の姿を見て、影山さんは決心する。
「私は子供のころからカトリックだったので、『子供は神からの授かりもの』という考えを持っていました。でも、もう待っているだけじゃダメだと思ったんです」
55歳にして、影山さんは妊活をスタートさせた。
事前の検診でわかったのは、自身の肉体がすこぶる健康なこと。50代半ばにして、虫歯は1本もなく、髪も黒々としている。
「骨密度も20歳並み、ホルモン値は同年代の2倍以上、生理も順調。
■20代、30代と介護に追われ、50代で彼と出会い、60歳で出産。逆走の人生に終止符を
「孫がいてもおかしくない患者の不妊治療をしたら、私が日本中からバカにされる」
診察を希望する影山さんに、不妊治療で有名だったある医師は言い放った。その後も、信頼して任せられる医師とは出会えなかった。
途方に暮れる影山さんが最後に駆け込んだのが、東京都千代田区の「卵子提供・代理母出産情報センター」。’91年の設立以来、アメリカのネバダ不妊治療センターと提携して、すでに200件もの出産を手がけていた。
「20年たった今だから言えますが、影山さんの出産に際しては、『リスクが大きすぎる』と、スタッフ全員が猛反対でした。万が一のことがあれば、日本の医療界から干されるのは明らかでしたから」
そう語るのは、同センター代表の鷲見侑紀さん。影山さんとの交流は現在も続いており、今回の取材にも同席した。
「私どものセンターでも、受け入れの年齢に55歳というガイドラインをもうけていましたが、影山さんはすでに57歳でした。
それなのに、なぜ私が影山さんのケースを進めたか。理由は2つ。一つには、健康・肉体的に申し分ない条件がそろっていたこと。
そしてもう一つは、彼女が自分のためではなく、愛する夫に子供を抱かせたいと心から望んでいた気持ちに感銘を受けたからです。相談に来るときも必ずお2人で、手をつないで。『たとえ母になれても、いつまでも“女”でいたいんです』と彼女は言いました」
’99年5月には卵子のドナーが見つかっていながら、子宮筋腫が発見されてしまう。
「しかし、彼女は自分で医師を探して手術を敢行したほど。その1年後、4度目の渡米、2度目の体外受精で妊娠に成功します。
日本での出産は、高齢出産で実績のある東京慈恵医大病院産婦人科が受け入れてくれました。
これも今だから話せますが、当時、先生方と、『もし出産までに母子が危険な状態に陥ったときには、母親の生命を優先する』と合意していました」(鷲見さん)
当の影山さんは、もしかしたら誰よりも妊娠することに確信を抱いていたかもしれない。
「卵子ドナーの28歳のアジア人女性のリストを受け取ったとき、彼女の誕生日が彼と同じだったんです。その運命的な偶然を知ったとき、この出産はきっとうまくいくと信じることができました」
そして’01年7月21日、影山さんは、帝王切開で2558gの元気な男の子を出産。「レノ」と名付けた。
「大好きだったジャン・レノと、体外受精でお世話になった米国リノ市にちなんでの命名です。別に父親の国での名前もあります。
また、レノの誕生日は父親と一緒です。予定日が夫の誕生日に近いとわかったときから同じ日に産もうと決めていて、私から主治医の先生にその日の帝王切開を『どうしても』とお願いしました」
前述のとおり、出産の翌日から怒濤の報道の嵐となった。
「覚悟はしていましたが、『おばあちゃんが赤ちゃんを産んだ』という見出しには深く傷つきました」
鷲見さんには、忘れられない当時の会話があったという。
「生まれた赤ちゃんの健康のためにも『初乳は、母乳を与えてください』と主治医の先生に言われ、私は影山さんに伝えましたが、これは意外にも拒否されたのでした。
聞けば、『彼のために体のラインを崩したくないんです』と。これには驚きましたが、改めて深い夫婦愛にふれ、今後の子育ても大丈夫と安心したものでした」
当の影山さんも、レノ君を初めてわが胸に抱いて、思う。
「多くの方とは逆に、私は10代を孤独に過ごし、20代、30代と介護に追われ、50代で彼と出会って本当の愛を知り、60代で子供を産んだ。
そんな逆走の人生に、ようやく終止符を打てました」
■息子にはいつも周囲に感謝を持ち、社会に出たら、人のためになる仕事をしてほしい
レノ君は父親の実家で暮らすこととなったが、その後も、年賀状やメールでレノ君の健やかな成長ぶりを綴っていた影山さんが、初めて自分の体調にふれたのは’18年のこと。彼女は70代後半を迎えていた。
〈私のほうは1年ごとに病気も一つずつ増えて、ひどい神経痛にも悩まされ、要支援2、視覚障害2級となりました。かつて打ち続けていたホルモン剤の影響もあるでしょう。普通の人以上に、60歳出産で体に負担をかけ、急に油切れした状態でしょうか〉
60歳での出産直後から、骨粗しょう症予防のカルシウム補給や、更年期障害と同様の症状を予防するための低用量ピルを飲み続けてきた影山さんだったが、それらの投薬をやめたのを境に体調が一気に悪化したのだった。
「めまいや貧血、自律神経の乱れなど、止めていた分、いまさら更年期障害に苦しんだのでした」
そんな影山さんを、「まだ元気でいなければ」と踏ん張らせたのは、主治医と交わした「子供を成人させるまで元気でいる」という約束だった。
幼稚園と小学校を中東の父の国で終え、日本で暮らすようになったレノ君だが、昨年の年明け、とうとうその日がやってきた。
「レノは、地元の成人式の式典に参加しました。このときばかりは、中東から父親も駆けつけました」
影山さんは、成人した息子に、母親として、どうしても伝えたいことがあった。
「おまえが生まれるまでに、どれだけ多くの人の世話になり、見守られてきたか。日米のお医者さん、看護師さん、ドナーの方、鷲見さんなどなど。だから、いつも周囲に感謝して生きなさい。いずれ社会に出たら、今度は、おまえも人のためになる仕事をしてほしいと、母さんは願っています」
母親の言葉を聞いたレノ君の返事は、
「感動的な言葉を期待されてるでしょうが、特にありません。ごく普通の、イマドキの20歳の男のコなんです(笑)。
ただ最近、初めて自分から言い出して、近所のコンビニでアルバイトを始めたんです。日本語を上手になるためと、日常の生活マナーを身につけたいと言ってましたから、本人なりに将来について考えているのだと思います」
【後編】「60歳の患者に不妊治療したらバカにされる」と医師に言われ…日本最高齢出産女性が明かす秘話へ続く