【前編】日本最高齢出産女性・影山百合子さん、愛息の成人式を独占告白!より続く

「逆走の人生でした」

影山百合子さん(81)が、よく口にするフレーズだ。

影山さんは、’01年7月に60歳で出産し、「日本最高齢出産」の記録を作った、元公務員の女性。

’41年(昭和16年)、東京都生まれ。戦時中に3歳で両親を亡くし、祖母に育てられた。ちなみに、「影山百合子」はペンネームだ。

幼少のころから成績は優秀で、特に外国語が好きだった。

「小中学生のころから、自宅の近所にあった雙葉学園の校外学習で、尼僧さんから英語とスペイン語を習いました」

大学進学は、祖母と2人暮らしの生活を考え、断念。高校卒業後に公務員となり役所勤めが始まり、25歳で最初の結婚をするが、ほぼ同時に祖母が認知症となる。

介護生活は祖母の死去とともに30代前半で終わったが、もともと会話も少なかったという夫との関係は修復不可能になっていた。

「最後の願いで、もう一度、夫とやり直せるかもと思って挑んだのが今で言う妊活で、45歳でした」

しかし、不妊治療がまだ一般的でない当時、訪ねた大学病院の産婦人科医の誰もが、「50歳になろうかという人が出産なんて、とんでもない」という対応だった。

妊娠を諦めた影山さんは、若いころからの夢だった外国暮らしをしようとオーストラリアへ行き、ボランティアで日本語教師となった。

そのとき教師と生徒として出会ったのが、影山さんが今も「彼」と呼ぶ、中東出身で、年も24歳下の夫(57)だった。

「祖母と2人きりの生活で明るい青春時代のなかった私は、52歳で初めて本当の恋に落ちたんです」

やがて、前夫との離婚が成立して、影山さんは彼と再婚する。

■影山さんの出産に際しては、『リスクが大きすぎる』と、スタッフ全員が猛反対

55歳にして、影山さんは再び妊活をスタートさせた。

「孫がいてもおかしくない患者の不妊治療をしたら、私が日本中からバカにされる」

診察を希望する影山さんに、不妊治療で有名だったある医師は言い放った。その後も、信頼して任せられる医師とは出会えなかった。

途方に暮れる影山さんが最後に駆け込んだのが、東京都千代田区の「卵子提供・代理母出産情報センター」。’91年の設立以来、アメリカのネバダ不妊治療センターと提携して、すでに200件もの出産を手がけていた。

「20年たった今だから言えますが、影山さんの出産に際しては、『リスクが大きすぎる』と、スタッフ全員が猛反対でした。万が一のことがあれば、日本の医療界から干されるのは明らかでしたから」

そう語るのは、同センター代表の鷲見侑紀さん。影山さんとの交流は現在も続いており、今回の取材にも同席した。

「私どものセンターでも、受け入れの年齢に55歳というガイドラインをもうけていましたが、影山さんはすでに57歳でした。

それなのに、なぜ私が影山さんのケースを進めたか。理由は2つ。一つには、健康・肉体的に申し分ない条件がそろっていたこと。

そしてもう一つは、彼女が自分のためではなく、愛する夫に子供を抱かせたいと心から望んでいた気持ちに感銘を受けたからです。

相談に来るときも必ずお2人で、手をつないで。『たとえ母になれても、いつまでも“女”でいたいんです』と彼女は言いました」

’99年5月には卵子のドナーが見つかっていながら、子宮筋腫が発見されてしまう。

「しかし、彼女は自分で医師を探して手術を敢行したほど。その1年後、4度目の渡米、2度目の体外受精で妊娠に成功します。

日本での出産は、高齢出産で実績のある東京慈恵医大病院産婦人科が受け入れてくれました。

そして’01年7月21日、影山さんは、帝王切開で2558gの元気な男の子を出産。「レノ」と名付けた。

■息子に弟妹を残してあげたいと思い、2人目妊娠の道を模索し続けたが……

さらに出産から9カ月が過ぎた’02年春のこと。影山さんは、鷲見さんにある相談をしていた。

「2人目を欲しいと思いました。1人目は彼のため、2人目はレノのため。レノに弟妹を残してあげたかったんです」

実際に医療機関などに相談もしたが、超高齢出産の壁は以前にも増して高くなっていた。

「私の60歳出産は、日本の不妊治療に風穴を開けたのではなく、バッシングも大きかったですから、逆に先生方を追い込んで、旧態依然の状態に戻してしまったのではないかと感じました」

その後も3年以上、医療機関に働きかけ、2人目妊娠の道を模索し続けたが、その時点で、卵子提供についてだけでも国と医師会では意見の相違があり、先へ進めなかった。厚生労働省の検討中の見解のなかでも、「加齢により妊娠できない夫婦は対象とならない」という文言があり、これに影山さんは当てはまるのだった。

当時の影山さんの深い苦悩を、鷲見さんはこう振り返る。

「彼女の気持ちもわかりましたが、もし『自分の命と引き換えにでも』と考えているなら、それは違うと思いました。子供のためというなら、ご自分が1年でも長生きして、レノちゃんの人生を見守ってほしいと、そんな気持ちを伝えたこともありました。 超高齢出産に関して、いまだ国内では確固とした法整備ができていませんが、現在、私どもが提携しているアメリカの医療機関では、受入れ年齢が50歳までとなっています」

■息子と暮らし始めて、愛情が深くなり、産むことより、育てていくのがいかに大変か実感

2人目を諦めた落胆も大きかったが、それ以上に、スクスク育っていくレノ君の存在は希望そのものだった。レノ君は父親の実家で暮らすこととなったが、2歳になる前には、レノ君の世話をしていた夫の姉も一緒に来日して、念願の東京ディズニーランド訪問もできた。

「レノは、ディズニーでも街中でも、若いお姉さんを見つけては近づいていき、『かわいい!』と言われるのが得意でした。それを見て喜んでた私も親バカですが(笑)」

’07年3月、公務員を定年まで勤め上げて退職。

「ずっと福祉関係の仕事でしたが、私自身、祖母を介護した体験があったので、苦悩する家族のために何ができるかと常に考え働いていたという自負はあります」

やがて、待望の日が訪れる。幼稚園と小学校を中東の父の国で終えたレノ君が、日本で暮らすようになったのだ。

「父親の母国の大使館付属の中高一貫校に入りました。

向こうの生活では500人も親族がいるなかの長男ですから、幼稚園もタクシーで送り迎えという猫っかわいがり状態でしたが、私は『自分のことは自分でやる』という教育方針で進めました。最初に教えたのは『こんにちは』『ありがとう』の挨拶をきちんとすること。

本人は日本人の友達ができないことと通学の満員電車が悩みのようでしたが、空手を習って日本に溶け込もうと頑張ってましたね」

母子2人の生活が、影山さんに大切なことを教えてくれた。

「レノと暮らし始めて実感したことは、どんどん愛情が深くなることでした。同時に、産むことより、育てていくのがいかに大変かということも。

産んだ後をこそ考えて不妊治療に臨むべきというのは、これから高齢出産を考えている人に、私がぜひ伝えたいこととなりました」

昨年の年明けのことだ。

「レノは、地元の成人式の式典に参加しました。このときばかりは、中東から父親も駆けつけました」

■孫の顔を見ることには執着しない。自分の介護で子供の人生を奪ってはならないと誓う

「母親の私とレノのツーショット写真は、ほとんどないんです。これはイスラムの文化が影響していると思います。

わが家の中も、両国の文化が混在。夫の母のレシピで中東の料理も作りますし、日本の味の代表は鍋でしょうか。

ただし、イカ・タコ類は絶対に使いません。

レノが、幼いころから香水をつけるのも父親の影響。今では同じ柑橘系の香りが、わが家の男たちの象徴のようになっています」

レノ君は、日本の大学への入学はかなわなかったが、昨春からアメリカのオンライン大学でMBA取得を目指している。

国際ビジネスマンに憧れているのだという。

影山さん自身は、今後の生活のなかで厳守したいことがある。

「レノは、大学を出たら日本の大学院で学ぶのか就職か。場所は日本か親族のいるオランダ、イギリス、ドバイなんてことも(笑)。

ただ、そのとき、母親の私がやってはならないことは、自分の介護で子供の人生を奪うこと。

私自身、祖母での体験も大きいですが、万一、認知症になっても子供に迷惑をかけないよう、経済面だけでも自立していたいと、今も毎月15万円の保険料を払い続けています。まあ、認知症にならないためのお守り代わりですね」

こちらも20年以上にわたり、超がつく遠距離恋愛中の夫との関係を尋ねると、

「空気のような存在と言うわりには、今もほぼ毎日スカイプか電話で話してます。互いに名前で呼び合うのも変わりません。実は私たち夫婦は体格も同じなので(笑)、会えば洋服や靴まで着回すのも20年前と同じ。

彼とは、好きなカラーもずっと一緒なんです」

周囲からはよく尋ねられるそうだが、孫の顔を見ることには、それほどの執着はないという。

「これからは、もう子供にしがみつく生活はしません。

まずは、コロナ明けと同時に、若いころに中断していたスペイン語の勉強を再開するつもり。大使館のスペイン語講座に電車で通うためにも、早く杖なしで歩けるようにならないと」

わが子と積み重ねた20年間の日々の思い出と感謝を胸に、母は80代にして、人生の第2ラウンドへ力強い一歩を踏み出した。

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