東京・目黒駅から権之助坂を下って約4分。「鹿鳴館」のネオンサインが光る雑居ビルに入り、さらに両脇にポスターが貼られている地下へと通じる階段を進むと、収容人数最大300人のライブスペースが広がる。
2024年1月で閉鎖されると報じられた、米米CLUB、X JAPAN、LUNA SEA、GLAYなどを輩出したライブハウス「鹿鳴館」だ。代表の山口高明さんが誰もいないステージを見回して、語りはじめる。
「創業当初からお借りしている建物が老朽化したためです。とはいえ、鹿鳴館そのものをやめることは考えておらず、別の場所を探しているところです。ボクは1967年生まれで、今年11月に56歳になるんですが、じつはこの建物も同じ年の12月に竣工されたそうです。ここはボクの人生そのもので、運命的なものを感じるから離れるのは寂しいですね」
かつてはクリスタルキングやChar(68)などが出演。1983年ごろには米米CLUBが本拠地としていたという。
「ボクがアルバイトを始めたのは1987年なので、ライブを見る機会はありませんでしたが、ビルの階段を下りて最初の踊り場のところに“黒と青が基調で暗いから”と、石井竜也さん(63)が描いてくれた明るい色使いの壁画が残っていました。開いたドアの向こうに、また開いたドアがあって、それが続いているという立体的な絵でした。でも、前のオーナーが『もっと明るい色にしたい』と、壁画を塗りつぶしてしまったんですね」
■ファンを慰めたhideのやさしさ
事務所の大掃除をしていると、その石井竜也が描いた絵が出てきたこともあった。
「お米の形をしたヘルメットをかぶった、白いスーツにサングラス姿の男性が走っている絵でした。額にも入っていない状態で、先輩にどうするのか聞くと『捨てちゃいな』と言うんです。
米米CLUBが解散する1997年、テレビの特番で、思い出の場所として鹿鳴館でロケが行われた。
「そのとき石井さんに絵を見てもらうと『うわー、なつかしいな。よくあったねえ、こんなの』と言ってくれて。いまでも大事にとっています」
山口さんが鹿鳴館でアルバイトを始めたころに頻繁にライブを行っていたのは、X JAPAN。
「YOSHIKIさんとToshlさん(57)が中心の、初期メンバーの時代。Xはすごくメンバーチェンジをしているから、『元Xって、いったい何人いるんだ?』って冗談になるくらいでした」
そこに別のバンドで活躍していたギタリストのhideさん(享年33)らが加入し、一気にメジャーシーンへと駆け上がった。あるとき、北海道から来たという女のコが、チケットをなくしてしまったと泣いていた。
「かわいそうですが、そこで入店を許すと、店の前で入店できないファンの子たちが騒ぎを起こしてしまうかもしれません」
対応に苦慮していたら「どうしたの?」と現れたのがhideさんだった。
「『ごめんね、規則だから入れられないんだ』とhideさんが話してくれました。そのコはhideさんファンだったので、素直に諦めてくれたし、思い出にもなったはずです。本来、演者がファンに直接コンタクトを取ることなんて、ないんですけどね」
それほどhideさんは気さくで、X JAPANがメジャーバンドとなっても毎晩のように鹿鳴館に通い、気に入ったバンドがあれば楽屋で声をかけたという。
「紅白歌合戦に出場後、後輩バンドが出演する大晦日の恒例ライブに直行してくれたことも。
LUNA SEAも、その一つだったといわれている。
「ただ、鹿鳴館はオーディションが厳しいことで有名でLUNA SEAも3回ほど落ちているんです。メンバーたちが『武道館でやれるのに、鹿鳴館は受からない』とネタにしているほど(笑)」
■場所は変わっても音楽の聖地は守りたい
山口さんがひと目見てオーラを感じたというのがGLAYだ。鹿鳴館で行われた外部イベントの参加バンドの一組として演奏したのが、最初だった。
「うちのライブハウスではメタル寄りのバンドが多かったんですが、GLAYはBOOWYを彷彿とさせるビートロックで際立っていたし、その場で“単独でも演奏してほしいな”って思ったんです。一方、彼らは彼らで、北海道から出てきたばかり。メンバー内では『ローカルのライブハウスを転々としているだけでは売れない。名のあるライブハウスを本拠地にして活動しなければ』という話し合いがあったと聞きます」
だからこそTERU(52)やTAKURO(52)などのメンバーがデモテープを持って売り込んできたときは、ほぼ即決だった。GLAYも鹿鳴館を拠点にメジャーシーンに飛び立っていった。いまでも楽屋の鏡に貼られたGLAYのステッカーを剝がさずに残している。山口さんはステッカーをなでながら、思いを馳せる。
「最新の音響や照明機材をそろえているライブハウスはいくらでもあります。
日本の音楽シーンを作ってきた伝説はまだ続く。