天皇陛下ご即位5周年を翌日に控えた4月30日の夕方。日本赤十字社を退勤した愛子さまが向かわれたのは御所ではなく、日赤本社とも同じ港区内にある「サントリーホール」だった。

この日、同ホールで開催されたのは「メモリアル・スペラ チャリティコンサート チェリスト 山本栞路を偲ぶ 一年祭メモリアルコンサート」。

皇室担当記者によれば、

「愛子さまと山本栞路さんは、学習院初等科時代の同級生でした。1、2年生のころは同じクラスだったと聞いています。山本さんは将来を嘱望されたチェリストでした。

学習院中等科3年生のとき、『第16回泉の森ジュニアチェロコンクール中学生の部』で金賞。その後、桐朋女子高等学校音楽科に進学し、3年生のとき、『第73回全日本学生音楽コンクール高校の部』で全国大会1位に輝きました。

しかし昨年、病気のため21歳の若さで亡くなったのです」

この夜の追悼コンサートは天皇陛下と雅子さまも鑑賞された。

「お忍びかつ、お三方おそろいでのご鑑賞ということからも、天皇ご一家の山本さんへの強い哀悼のお気持ちが伝わってきます。それでも愛子さまが御所に戻らず、直接ホールに向かわれたのは、ギリギリの時間までお仕事をされたかったからでしょう」(前出・皇室担当記者)

愛子さまの元クラスメートとはいえ、天皇ご一家が世間的にはまだ有名ではない音楽家の名前を冠したコンサートに足を運ばれることは異例のことといえる。

■管弦楽部入部を機に登校状況が劇的改善

その理由について、ある学習院関係者はこう語る。

「実は山本さんは、天皇陛下や雅子さまにとっても愛子さまの不登校問題を解決する糸口をもたらした“恩人”といえる存在なのです」

天皇ご一家と山本さんのご縁の始まりは、10年以上前にさかのぼる。愛子さまが、乱暴な男子児童に対する恐怖心から、登校への不安を訴えられたのは、’10年3月のことだった。

「当時、愛子さまは学習院初等科の2年生。しかし進級後も、お一人で登下校することはできず、しばらく雅子さまと初等科に通われる日々が続きました。

雅子さまご自身の体調も不安定な時期でしたが、授業参観をしたり、給食時間は別室でいっしょに昼食を召し上がったりと、愛子さまの学校生活に付き添われ続けたのです。2泊3日の校外学習にも同伴し、宿舎となったホテルに雅子さまも宿泊されました。

そのような日々に、宮内庁内からも“皇太子ご夫妻は過保護すぎるのでは”“雅子さまは愛子さまのお付き添いよりご公務を優先すべきでは”といった声が上がっていました。しかし雅子さまが、ご信念を変えることはなく、愛子さまを全力で守り続けられたのです。

このときの雅子さまのご献身の日々により、愛子さまは回復され、母娘の強い絆が育まれました」(前出・皇室担当記者)

いまでは信じられないことだが、この当時は“皇太子殿下は退位されるべきではないか”と提唱する論客もいたほど逆風が吹いていたのだ。まさに“孤立無援”の天皇ご一家を救ったのが、学習院初等科管弦楽部の存在だった。

「’11年、4年生となられた愛子さまは管弦楽部に入部され、楽器はチェロを選ばれました」(前出・皇室担当記者)

雅子さまが見守られていたことも功を奏し、遅れて登校しがちだった愛子さまが学校で過ごされる時間もしだいに長くなっていた。

「それでも雅子さまのお付き添いがないとご登校できない状況が続いていました。その転機となったのが、愛子さまの管弦楽部へのご入部だったのです。

管弦楽部には“朝練”があり、平日は7時半、土曜日も8時からスタートしていましたが、愛子さまは積極的に参加されました。

そのため愛子さまが遅れて登校されることも少なくなっていき、ついにお一人で徒歩で登校されるようになったのです」(前出・皇室担当記者)

この“管弦楽部効果”について精神科医の香山リカさんは、

「ほかの児童たちといっしょに演奏する楽しさや役割を与えられる喜びを、楽器を通じて感じられたのだと思います。“自分が休むと合奏全体に影響を及ぼしてしまう”、そんな思いもご通学への動機になったのでしょう」

■チャリティ演奏活動もしていた山本さん

ご入部から約8カ月後、天皇陛下はお誕生日に際しての会見で、次のように語られた。

「愛子は4年生になり、学校の特別クラブ活動として管弦楽部に6月に入部したことが大きな励みになったように思います。授業が始まる前や、放課後にお友達と一緒にチェロの練習をしたり、演奏会でみんなと一緒に演奏したり、楽しそうに参加しており、また、音楽以外でも,興味や関心もいろいろな分野に広がってきています」

愛子さまから学校生活への恐怖心を払拭した“チェロの仲間”の1人が山本栞路さんだったのだ。前出の学習院関係者はこう語る。

「音楽に対して熱心なだけでなく、明るくて思いやりのある少年でしたから、愛子さまも安心して練習されたりお話しされたりできたのでしょう。

3歳から始めたというチェロの演奏はすごく上手で、愛子さまも尊敬していたと聞いています。『オール学習院の集い』の演奏会などで二人が隣り合って演奏したこともあります。

“きっと世界で活躍するような音楽家になるに違いない”と、同級生や保護者たちからも期待を集めていました。天皇陛下や雅子さまも、同じように山本さんの活躍に注目されていたと思います」

山本さんはチェロで実績を重ねるいっぽうで、自動車メーカーのホンダが主催していた10代の若者を応援するプロジェクト「ザ・パワー・オブ・ティーン」にも応募していた。

「多くの応募から6人が選ばれ、山本さんもその1人でした。’21年3月には、ホンダが開発した航空機・ホンダジェットにも搭乗しています」(前出・皇室担当記者)

このプロジェクトでは山本さんは、夢について《人間の持つ能力と可能性とテクノロジーの可能性の融合について音楽を通して研究することです》と明かし、さらにそれを実現するための活動についてこうつづっている。

《ステイホーム期間に、あるNPO主催のアジアの子どものためのチャリティコンサートに参加しました。パソコン等の電子機器を音楽で寄付するというプロジェクトです》

高い志を抱き、世界へ羽ばたこうとしていた山本さん。病床にあっても、さらに新たな夢を描くようになっていた。

「山本さんの追悼コンサートは、チャリティを目的として開催されました。山本さんが闘病中に、病院で楽器を演奏できる部屋がほしいと願っていたことから、収益は病院に防音室を寄付するために使われるそうです」(前出・皇室担当記者)

そしてコンサートの司会を務めたのは、2023ミス日本「海の日」の稲川夏希さんだった。彼女も愛子さまの親友であり、管弦楽部の仲間の1人だ。

「稲川さんのほかにも、管弦楽部の仲間たちが集まっていたそうです。両陛下と愛子さまはコンサート終了後、1時間半ほど山本さんを偲んで語り合われていたのです」(前出・皇室担当記者)

友人たちと話しながら愛子さまがまぶたの裏に浮かべられたのは、貧しい子どもたちのため、そして患者のためにチェロを奏でる山本さんの姿だったのか。

親友の遺志を胸に愛子さまは「困難な道を歩まれている方々に心を寄せる」という誓いをあらたにされたことだろう。