【前編】「ハニーが僕の中に入っちゃった」夫婦間腎移植をした小錦八十吉さん・千絵さん夫妻の絆より続く

■早くに父を亡くした千絵さんにとって「いちばん頼れる男性」であった

「本当にユーモラスで明るくて、初対面の日に『結婚してください』ってジョーク!? を言われたんですよ。私は、ただ笑うしかなかったんですが……」

1976年1月7日、東京都台東区生まれの千絵さん(49)が、のちに夫となるタレント・KONISHIKI(61)と知り合ったのは、2000年9月、24歳のときのこと。

「私がアルバイトしていた代々木の東洋医学治療院『赤ひげ堂』に、治療に来ていたのが彼です。

私はその前年、浅草橋で卸売業を営んでいた父を肝硬変と腎不全で、59歳で亡くしていました」

13歳上の小錦さんは、体も心もおおらかで、「頼りがいありそうな男性に映った」と千絵さん。

治療院で何度か顔を合わせているうちに、食事に誘われた。

初デートは映画館だったという。国民的スターが映画館デート?

「最初のころは、けっこうフツーにデートしても、騒がれたりすることなく大丈夫でした。でも一度スポーツ新聞に撮られてからは、記者やカメラマンがいろんな場所にいるようになって……」

千絵さんは「超有名人の恋人」として洗礼を受けることとなった。300kg近い巨体に年の差、そして、マスコミや世間の視線……。

当時24歳の彼女にとって相当なギャップだったと思われるが。

「それが、言われるほどありませんでした。もともと浅草橋の実家近くには部屋がありましたし、小学生のころから“お相撲さん”は見慣れていて、違和感なかったんです」

なにより、いろんなギャップを補って余りあったのは、小錦さんの心の温かさだったという。

「体以上にハートが大きいと思えた。ハワイのご家族のことを思う気持ちを、つねに聞かされていました。

そして私の母や兄を大切に思う気持ちも伝わってきました」

小錦さんにしてみれば、故郷・ハワイで、大家族で暮らしてきた生活が原風景であり、村の人も含めて、みな仲間で、助け合う風土が染みついていた。

だから家族を第一に考えるのは常識で、恋人の家族を大切にするのも、また当たり前。

早くに父を亡くした千絵さんにとって、小錦さんが「いちばん頼れる男性」となるのは、ごく自然の成り行きだったのである。

2003年、小錦さんのトルコ出張に同行した千絵さんは、ロンドンのヒースロー空港でのトランジットで、ダイヤがちりばめられた金の指輪を手渡された。

「ずっと一緒にいようね」が彼のプロポーズの言葉だった。

2004年1月7日、千絵さん28歳の誕生日に婚姻届を提出。

同6月26日、午前中に浅草橋の鳥越神社で挙式。午後に記者会見を開いて、夜は東京湾クルーズ船・シンフォニーで600人を招待しての盛大な披露宴。

以来、いつも二人三脚で歩んだ。

2011年の東日本大震災後は、小錦さん経営のイベント会社「KP」(1997年設立)の社長に千絵さんが就き、マネジメントを担当。

「夫の故郷・ハワイには毎年1カ月ほど夫婦で滞在してきました。

ハワイ伝統のフラダンスを習い始めたのも夫の影響で、私はのちに、フラダンサーとして舞台に立つようになりました」

さらにハワイアン・ミュージックのシンガーとして、小錦さんとCDを出し、ライブも開催。

そんな夫婦の歩みには、2頭のゴールデンレトリバーがお供する。パニ(11)とファラ(3)、現在のオスの親子は、小錦家のメンバーとして代々継がれた5代目だ。

「お互い支え合って、ここまで来ました。24歳で出会って以来、夫が横にいてくれるだけで安心できましたし、ずっと守ってもらってきた感じです。

私の人生にとって、夫は“空気”のように、ないと生きていけない存在になっています。いてもらわないと困るんです」

小錦さんへの腎臓提供は、千絵さんの生命線でもあったのだ。

だから、あのとき──。

「もう手術はいいよ」とつぶやいた夫に、毅然と言った。

「私は決めているから、やるよ!」

その一言で妻の覚悟を理解した夫も「わかった」とうなずいた。

そして腎移植手術の日を迎える。

千絵さんは、腎摘出術で所要時間およそ3時間。その後に小錦さんへと、摘出した腎臓を移植、これには6時間を要した。

田邉医師が手術を振り返る。

「奥さまは完全腹腔鏡手術ですので出血もほとんどなく、翌日からリハビリで歩いてもらいました。

小錦さんはおなかが大きいので、特大の手術台をレンタルしましたが、術後も至って順調です」

千絵さんは、手術2日後に初めてICUで夫と対面している。

「夫はまだ麻酔が効いている状態でしたので、私から『終わったね、お疲れさま』と伝えました」

小錦さんも、うん、とうなずく。の呼吸で、夫婦は一心同体であることを確認した。

■どこでも飛び回れるようになった僕には「腎臓移植アンバサダー」の役割がある

都内の最高気温が25度を超えた5月11日、両国国技館前は大相撲夏場所・初日を目当ての人々で、ごった返していた。

小錦さんは、両国駅前でキャラクターグッズを販売する出店を構えるのが、東京場所の恒例だ。

テントの奥で大きな椅子に腰を下ろす居住まいは、土俵下で呼び出しを待つ大関の風格のまま。

グッズ購入者との撮影やサインは気さくな笑顔で、インバウンド客には英語をまじえて応える。横でサポートするのは千絵さんだ。

「手術後の夫は、免疫抑制剤を忘れずに飲む以外、ふつうに生活ができています。私も呼吸が苦しいとかもなく、手術前と変わりなく過ごせています。

食事は薄味にして野菜を多めに。今日がお肉だったら明日は魚と、バランスを心がけています」

ファンの前へと戻ってきた小錦さんは「相撲アンド寿司」の米国興行を今年も予定しているという。

「それからね」と小錦さんが語る。

「どこでも飛び回れるようになった僕は『腎臓移植アンバサダー』という役割もあると思っている。

健康保険や助成制度もある日本の医療制度は、とても素晴らしいよ。腎臓移植が必要な人たちと、家族にも広く知ってほしい」

傍らでうなずく千絵さんだが、手術のことを、脳梗塞で闘病中の母には反対されていた。

結局、事前に告げずに手術することになったのは、夫が入院する日に母の脳梗塞が再発してしまったからだった。

母は入院治療によって、大事には至らずにすんだ。だが小錦夫妻が腎移植手術の退院時に会見したことで、母に知られてしまった。

千絵さんが打ち明ける。

「仕方なく、事後報告しました。そうしたら『千絵のことだから、提供すると思ってたよ』って」

千絵さんの、思い切りのよさ。

アクティブで、竹を割ったようにサバサバした性格は、母譲りだ。

「父が亡くなったのは、母が50代になったばかりのころです。何事も迷わずパッパと決めていく姿を、私も見てきました。

だから『くよくよ悩むより、やってみよう!』という性格は母に似ていると思う。母も内心、わかってくれたんだと思っています」

とはいえ後期高齢者にさしかかる母はリハビリが必要で、現在は千絵さんが自宅で世話している。

超高齢化する日本は、小錦夫妻のみならず、親の介護が世代共通の課題で、社会問題でもある。

「倒れてからは私がいつも一緒にいます。幸い母は歩けますので、寝起きは自分ででき、犬の散歩も私と一緒に行けるんです」

だから、高齢者施設への入所は「いまのところ考えていません」

小錦さんは、次のように語る。

「自分の命をもらったのは、パパとママからだよね。だからママのことを一生懸命やるのは、面倒を見るのは、当然だと思うよ。

日本には行き届いた高齢者施設があるけど、ハワイは老人ホームに入れる文化はない。僕たち夫婦はママに尽くして、いままでできなかったことをしてあげたい」

その体と同じほど、大きな愛と慈しみでれている小錦さんは、まさに「頼れる男」そのものだ。

「主人が私の母を大事にしてくれる気持ちが、いちばんうれしいんです。『ウチのママが─』という彼の言い方も好きです」

母と夫と、これからなにをしたいかと聞くと、千絵さんは、

「これまで欲のない生活をしてきた母ですので……おいしいものを食べて、温泉につかってほしい。まずは箱根に行きたいですね」

そう言って隣の小錦さんに目配せした。ややあって、希代の大関はニコッと笑って言った。

「僕もまだまだ、世界中を飛び回って仕事しなきゃね!」

国技館の大屋根が、夏日の陽光で黄金色にきらめいていた。

(取材・文:鈴木利宗)

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