24歳の若さで、創業220年の老舗京菓子店「亀屋良長」の八代目・吉村良和さん(51)と結婚した由依子さん(48)。和菓子についてはまったくの素人だったが、自分がアイデアを出した、おみくじ付き懐中しるこ「宝入船」が人気となり、手ごたえを感じていた。
■小倉ようかんの売り上げが3年で1千倍に
良和さんの体調に異変があらわれたのは、長男を出産したばかりの由依子さんが30歳のときだ。
「脳腫瘍があることがわかりました。後から聞きましたが、医師の父は主人の病状を見て“これはまずいな”と思っていたそうです。子供が生まれたばかりで母子家庭になるんやろうかという不安も一瞬よぎりましたが、私はあんまり死ぬイメージはありませんでした。主人が暗い顔をしなかったから、助けられたのかもしれません」
一方の良和さんは、同じ脳腫瘍で母親を亡くしたこともあり、強く死を意識していたが、由依子さんに支えられたという。
「子供も生まれて楽しいときに、なんでこうなったんやろ、なんのために生きてきたんやろと落ち込みましたが……。でも、私は内にこもるタイプやから、それほど表には苦しみを出さなかったのかもしれません。何より、入院中は毎日、妻が体にええもんを調べてお弁当を作ってお見舞いに来てくれました。部屋には子供と3人の写真を飾ってくれたし、支えてくれたんですね」
「どや?」と言葉は少ないけれどお見舞いに来てくれる職長の山下さんの存在にも助けられ、無事に8時間に及ぶ手術を乗り越えた。良和さんには後遺症があったが、由依子さんは前向きだった。
「今はかなり改善しましたが、手術直後は言葉が出にくかったり、食べ物をこぼしたり、計算ができなかったりしました。
ところが夫婦にはさらなる試練が待ち受ける。良和さんがようやく仕事に復帰した矢先、突然、店の会計士から呼び出され「このままでは店は潰れます」と宣告されたのだった。
「経営は先代がやってはったんですが、会計士さんから『これからは若い2人で店を立て直してください』と言われて……」
バブル時代にビルを建て替えたころの数億円の借金が、長引く赤字経営の中で大きな足かせとなっていた。
「店の様子を見て、もうかってないのはうすうす感じていましたが、あまりに大きな数字を見せられて。すぐに売り上げを伸ばすのは大変やし、まずは無駄を省くことからやろうと素人ながらに考えました」
包装資材は、相見積もりすら取っていなかったことが判明。
原材料のレベルは下げられないため、人件費カットは不可避だった。
「これがいちばんしんどかった。主人と私の2人で、従業員1人ずつ面談をしました」
給料の一律カットをしたが、給料が高かった気難しい職長はより高い割合でのカットになる。
「会社のいい時代をきてはって、思いもしてなかったようですが、現状を説明すると怒られるどころか『そら大変やな、しゃあないな』と納得してくださったんです」
■挑戦的な商品開発で黒字転換…朝食作りから大ヒット商品が
辞めていった職人もいるが、空中分解しなかったのは、山下さんという要が残ってくれたからだという。
「山下さんは先々代のころに来はって、大奥さんからすごくかわいがってもらったそうです。祖母は当時生きていたので、山下さんは『ご恩があるから、大奥さんの目の黒いうちは、恩返しせなあかんのや』というのが口癖でしたね」
次に着手したのが商品開発だ。
「山下さんは『なんや、また来たんか』『あんたが来たら忙しくなるからいやや』とつれない感じ。でも、それが挨拶のようなもので、話はちゃんと聞いてくれて。やさしくはないけど、丁寧にお菓子のことを教えてくれました」
良和さんも“京都の老舗はこうあるべき”というこだわりは一旦横に置き、自由な発想を取り入れるように。パリでパティシエとして活躍した藤田怜美さんと出会い、「サトミフジタ」ブランドを作った。
「常連さんはどう見はるやろと不安もあったし、従業員からも賛否がありました。でも和菓子にクリームチーズやチョコレート、キャラメルを使うなんて当時は画期的で、メディア取材が増えて話題になったんですね。さらに主人は病気を機に、精製された砂糖を使ったお菓子が食べにくくなってしまったため、健康を意識したお菓子を開発。今までの亀屋良長を否定するのを避けるため、吉村和菓子店という別ブランドを立ち上げました」
もう一つの大きな改革は、パッケージだ。
「可もなく不可もない今までの無難な路線ではトキメキがなかった。中身はおいしいから、手に取ってもらえれば売れると思って。自分が手にしたくなるポップでかわいいパッケージデザインを、京都のテキスタイルブランドSOU・SOUさんに作ってもらったんです」
次々と新商品を考えるものの、会社の未来に不安もあったが、打ち合わせのとき、SOU・SOUの社長の「200年の歴史はお金を出しても買えない。
こうした改革に着手して、なんとか黒字経営に転換。子育てとの両立で多忙な日々を送っていたが、常に和菓子のことは頭にあった。だからこそ、ある日、子供たちの朝食作りでピンと来た。
「甘いものが好きじゃない長男には、パンにスライスチーズをのせて焼いていて、次男には焼いたパンにあんこを塗ってとリクエストされたんですが、あんこは硬いから塗るのが面倒くさいと思って」
そこから着想を得たのが、スライスチーズのようにあんこを薄くシート状にして、パンにのせて焼ければ便利だなという商品。試作して次男に試食してもらっても、試作品ごとに「甘いなー」「あんこの味がせえへん」とダメ出し。
「最初は北海道の小豆で試作していたんですが、小豆の香りが強い丹波大納言に変更。小豆の価格が4倍もしました。しかも大粒なのがウリなのに、すりつぶすというぜいたくな使い方をしました」
2018年、着想から4カ月ほどで販売にこぎつけた「スライスようかん」は、コロナ禍の窮地を救ってくれる最大のヒット商品となった。
「びっくりするくらい売れました。まだ借金は残っているものの、なんとか返済のめどはつきました」
渋々ながらも由依子さんに愛情深く寄り添い続けてくれた山下さんは、今年4月に79歳で勇退してしまった。
「お別れの会も花束も、照れて絶対に断ると思っていたので、普通に送り出しました。
これからは若手職人が中心になって、亀屋良長をもり立てる。
■伝統を守りつつ、新しい味を探し続ける
「生クリームの絞り口で作ったメレンゲの形、かわいいなあ。これで何か作りたいなあ」
「この寒天、口の中でトロッと水みたいに溶けていいなあ。ウチは水がウリやから」
店舗ビル5階にある製造部では、白い帽子と作業着、マスク姿の職人たちが商品製造や、新商品の開発を行っている。由依子さんも作業台で試作品を口にしながら、若手従業員と打ち合わせをする。
背中合わせになるかっこうで、良和さんが白やピンク、緑の白あんを使い、三角ベラという道具で花びらをこしらえながら、美しい菊のお菓子を仕上げていく。良和さんは、時折、後ろを向いて新商品の試作のアドバイスを由依子さんへ送っていた。
由依子さんの一日は目まぐるしい。店の上階に自宅があるため、子供を送り出した後、下に下りて、毎日、朝礼を行う。
「打ち合わせに出たり、パソコンでお客さまとのやり取りや問い合わせの対応、試作品の確認などに追われて、仕事が終わるのは夜の8時くらい。ビルから出ない生活で、1千歩も歩かない日があるから、なるべくエレベーターを使わず階段で移動しています」
夜型で、一人のほうが集中できるため、夕食後、再び階下に下りて仕事が片付くまで事務作業することも珍しくない。
「山下さんには面と向かって褒めてもらえませんでした。でも、間接的に『訳わからんこと言うけど、なんか知らんけど売れるんや』と褒めてくれていたと聞いたときは、すごくうれしかったです」
あんこを作るように時間と手間を惜しまず、伝統と変化を未来につなげていく。なんとも幸せな気持ちにさせる甘いお菓子で、ほころぶ笑顔を見たいから──。
(取材・文:小野建史)