国分太一主演でドラマ化もされた『八神くんの家庭の事情』など、数々のヒット作を生み出してきた楠桂さん(59)。5歳年下の夫と結婚し、不育症と闘いながらも、2人の子供に恵まれた彼女を突然襲ったのは、20年以上連れ添った夫の“不倫発覚”だった。

「私の人生は、まるで罰ゲーム。こんなエンタメみたいにいろいろある人生でいいのか」と自嘲する、楠さんが明かした自らの“家庭の事情”とは――。

売れっ子となり、仕事部屋に最新型のコピー機を導入することになった楠桂さん。そのとき営業マンとして現れたのが、5歳年下の元夫だったという。

「アシスタントといっしょに食事会をしたりするうちに、なんとなく引かれ合って、交際しましょうかということに。あるとき“このままいっしょにいられたら、結婚しようか”と、2年後のヒルトンホテルの式場を予約しました。もし別れたらキャンセルすればいいと……」

少女漫画のような恋愛ストーリーを成就させて’98年に結婚。’00年には長女に恵まれた。

「実はその前年の’99年に流産しています。そして長女誕生後に2人目が欲しいと女の子を妊娠したのですが、23週での死産でした。結婚前に夫が『オレは一人っ子だから、子供は最低でも2人欲しい』と言っていたのです。私は彼に申し訳なくて、『もう無理かもしれない。

あなたは若い人と結婚していいよ』と離婚を切り出したこともありました」

だが彼は優しく「いまのままで十分に幸せ」「これからも君といっしょに生きていきたい」と寄り添ってくれた。

流産、死産を経験し、おなかの中で赤ちゃんが育ちにくい不育症であることがわかった。

「’05年には2回目の死産も経験しました。1回目と同じく23週で、今度は男の子でした」

おなかの中の赤ちゃんが亡くなって、4日後に分娩することとなった。肌が赤黒く変色した赤ちゃんを、こっそり携帯電話のカメラで撮影して形見としたという。

夫婦で行った火葬の際、母乳で胸が張ってしまうために保冷剤を当てていた。

「恨みました。神様はいったい私に何を学ばせたいのかと……。本来なら出産後は幸せの絶頂ですが、私が分娩後にしたのは棺の手配です。小さな棺だったものだから火葬場では『ペットはこちらです』と案内されたりして、すごく傷ついて……」

心がえぐられるような思いで火葬を終えると、夫に連れていかれたのは旅行会社だった。

「死産に打ちのめされている私のために、家族3人のハワイ旅行をプレゼントしてくれたんですね。うれしかったですが、いっぽうで無駄なお金を使わせて申し訳ないという気持ちもありました」

結婚当初から、彼は生活費として10万円を家に入れていたが、そんな申し訳ないという気持ちもあり、流産や死産を重ねるうちにうやむやになってしまったという。

2回目の死産のときに新築した家も収入が多い楠さんが購入している。

「夫婦共同で購入すると、ローンも所有権も分割することになって面倒くさかったのです。そのときは離婚するなんて夢にも思わなかったから、『夫婦なんだからいいじゃない。かわりにあなたは老後の資金を貯めてね』と、家は私が買ったんです。

夫は友人たちから“逆玉に乗った”と言われることもあったかもしれません。でも夫にもプライドがあるでしょうし、私はほとんどお金の話はしなかったし、お互いの収入も教え合うことはありませんでした」

仕事に追われながら、不育症と闘った楠さんは’06年、40歳のとき、7回目の妊娠で長男を無事に出産することができた。

不育症治療に尽力してくれた男性医師から「死産した女性の気持ちは男にはくみ取れません。医学書ではなく、漫画で不育症について広く知らせてほしい。私も協力します」と勧められた。

確かに不育症に対する世間の理解は十分とは言えない。

「私自身も不育症仲間が無事に出産すると、複雑な気持ちになりました。泣いてばかりいると、同居していた母から『いつまでひきずっているの?』と怒られてしまうから、お風呂で泣いていたんです」

そんな不育症の女性の気持ちを残しておかなければならないと、楠さんは自身の体験に向き合いながら『不育症戦記』(大洋図書)を描き上げたのだった。

「生まれたばかりの長男をおんぶしながら家事をやりつつ、15分でもあれば“1コマでも描いておこう”とペンをとっていました」

育児と仕事にかかりきりの楠さんにとって、誕生日、結婚記念日、クリスマスに行く夫とのディナーが、ささやかな幸せの夫婦の時間だった。

「でも、夫にはそれがつまらなかったのかもしれません」

結婚から23年後の’21年秋、不育症をともに乗り越え、強い絆で結ばれているはずの夫から突然、別れを切り出されたのだった。

■「人生が迷子の状態でも、一つだけ決めていたのが漫画家を貫くこと」

「『いったんお別れしようか。籍は抜くけれども、これまでどおり君といっしょの暮らしは変わらないから』と言われて……。いまとなっては、愛人から離婚を迫られたからだと理解できますが、当時はなぜ籍だけ抜く必要があるのか、意味がわからなかったです。

私は別れたくないし『病気? 自己破産? 借金? 何かあるのなら助けになるから』と。もし夫がお金に困っているなら、何があっても助けるつもりでいたんです」

しかし問い詰めても彼は、「理由を言ってもお前は許してくれない」と繰り返すばかり。翌日になってようやく、かつて交際していた女性と不倫をしていることがわかったのだ。

「話が前後しますが、その7年前の’14年、私のSNSにメッセージを送ってきていた女性がいたのです。スパムメールに分類され、気づいたのは’16年でしたが、メールには、“あなたの夫と付き合っている”“30万円の鞄をプレゼントされた”“いっしょに旅行に行った”などと書かれていました」

彼は「イタズラだ」と笑い飛ばしてくれると期待したが、メールを転送すると否定の言葉はなく、《帰ったら説明する》と返信が。

「しかも、その日じゅうには帰ってこず、夜中3時になってこっそり帰ってきました」

彼は、その女性と会ったことは認めたが、「彼女は離婚して落ち込んで、慰めただけ」「じつは元カノだから、君には言えなかった」と平謝り。「キスした?」「してない」というやり取りもあった。

「でもそんなのは信じられません。『わざわざ妻にメールするくらいだから、何か誤解されるようなことをやったよね!』と、私も厳しく問い詰めました……」

それでも一度は矛を収めたが、結局、’21年に夫から不倫を告白されることに。しかもその相手が、かつてメッセージを送ってきた“元カノ”だと判明したのだ。

「またなの! って。もう、衝撃ですよ。彼は子供たちの学費は払ってくれていましたが、生活費は出していませんでした。

自分の給料で好きな輸入車を複数所有することも、ゴルフや釣りに行きたい、会社を辞めたいと言ってきたときも、全部許して応援してきましたが、不倫だけは許せない裏切りでした」

どんな女性なのか顔を見てやりたい。そんな思いから、夫、姑、愛人を交えた四者会談をした。

「どんな美魔女かと思いましたが……。50代のふつうのおばさんでした。でもネイルやメークなど女子力は高そうでしたから、夫はいっしょにいて楽しかったのでしょう。こちらは子育てや仕事でクタクタに疲れているわけですし、’16年に怪しげなメールを発見してからは“不機嫌な妻”で、ことあるごとに『○○(愛人の名前)のところに行けば。

何もかも捨てる覚悟があるなら止めない』などと嫌みを言っていましたからね」

四者会談は午前11時から4時間近く続いた。夫にとってはさぞや針のむしろだったろうが……。

「私も愛人も飲まず食わずで話しているのに、彼だけコーヒーを飲んでいました」

そんな姿もいちいちカンにさわった。

愛人は夫が借りたマンションで週の半分を過ごしていたこと、夫の友人たちとも交流があることなど、“私のほうが愛されている”とマウントをとってきたという。

「たしかにコロナ禍のとき、夫は友人の家で飲み会をして、そのまま泊まったりしていました。私には男友達との写真を送ってきたのですが、その会に愛人も同席していたみたいです」

夫と愛人、友人とその不倫相手の4人で金沢旅行に行っていたことも判明。

「そのときは、私に男友達の名前だけ告げていました。真実を交ぜると、嘘ってわからないもの。友人を味方にして“不倫の団体戦”を繰り広げていたわけです」

姑は終始「本当になんてひどい話!」「好きなだけでは世間では通用しないよ」と、楠さんの味方をしてくれたこともあり、夫と愛人が不倫関係を終わらせるということで四者会談が終了したが、その後も愛人は楠さんに情報提供を続けたという。

「私たちを一刻も早く離婚させて、夫と復縁したかったのでしょう。ずいぶんいやらしいプレイもしていたみたいです。何かと聞くと、大人のおもちゃを使ったと。

2人の間の生々しいメールのやり取りも見せつけられました」

成人となっていた長女に相談すると「離婚一択」とアドバイスしてくれたが、中学生だった長男は離婚に反対。それに、いま離婚したら夫と愛人は喜んで復縁するはずだという思いもあった。

「四者会談後の訴訟で、慰謝料も取りました。夫と愛人が連絡を取ったらそのつど、罰金をもらうという合意書もあるので、すぐに離婚するのは損だとも思いました。

散々セックス自慢されたので、10年くらい仮面夫婦を続けて、夫が愛人とセックスできない年齢になってから離婚することも考えました」

さまざまな葛藤もあったが、長男を立派な大人に育てることを、せめてもの夫婦の義務としようと、2年半をめどに離婚すると決めた。

仮面夫婦を続けながら、長男が大学受験に合格し、一人暮らしをするタイミングを見計らって離婚を発表することに。

「離婚に反対していた長男ですが、『あのときはガキだった』『(愛人と復縁したら)オレが殴りに行って、父子の縁を切る』と、離婚を後押ししてくれたんです。長女も私の幸せを願ってくれました」

許したい思いと許せない思いが交錯し、心療内科に通い精神安定剤を飲まなければ眠れず、“死のうかな”と、ふさぎ込むほど傷ついた楠さん。だが離婚とともに、一部始終を漫画にする決意をする。

「離婚して多くを失って、新たな目標も見つからない。人生が迷子の状態でも、一つだけ決めていたのが漫画家を貫くこと。実は離婚後も元夫の名字は変えていないんです。私にとって本名はどうでもよく、いちばん大切なものは『楠桂』という名前なんですから」

デビューから大事にしてきた漫画家としてのアイデンティティーは楠桂の名に込められているのだ。

元夫は「他人の離婚話なんて誰が読むの」「君が恥ずかしいだけだよ」と言ってきたが、

「いや、恥ずかしいのは私じゃなくて、元夫や愛人ですから! 私はお酒も飲めないし、ストレスの解消法も知りませんでした。でも、離婚の顛末を漫画として描いてみたら、気持ちがスッキリしてきたのです」

つけたタイトルは『サレ妻漫画家の旦捨離戦記』。旦那を処分したので、“旦捨離”としたのだ。

自らの苦しみもエンタメとして漫画に昇華して、読者に訴え続ける。やはり楠桂さんは根っからの漫画家だった。

■「想定外のヒットで『やっぱりウチでも描いてください』というオファーが」

「同居していた両親がすでに他界し、2人の子供も一人暮らし。元夫の部屋も断捨離して、家はガランとしています。トイレが3つもあるのですが、使わないと汚れるので、まんべんなく使って掃除しています(笑)。

でも隣に住む姉とは毎日、アトリエで顔を合わせるので、一人暮らしでも孤独死して放置されることはなさそうですね」

一日の多くを執筆に費やし、創作に向き合っている。『サレ妻漫画家の旦捨離戦記』は、その過激な内容から、出版社に企画を持ち込んでも断られたこともあったという。

「想定外のヒットで『やっぱりウチでも描いてください』というオファーがあったりします。さすがにお断りしていますが(笑)」

漫画化に猛反対していた元夫も、いまでは観念しているという。

「自分が悪かったから、漫画に描かれることは受け止めているようです。元夫とはまだ家族LINEでのつながりはあって、子供たちが実家に帰ってくるときは、『オレも顔を出す』と言ってきます。他人になると、関係性も変わってくるものなんですね」

現在は連載の5話目を執筆しており、配信が待たれるところ。

「不倫漫画連載をきっかけに、サレ妻をテーマにした漫画依頼なども増えていますが、まずは、いまの作品を最後まで描き切ることが目標です。愛人から訴えられて配信が止まってしまう可能性もあるので、みなさん、早めに読んでください(笑)」

不育症に不倫されての離婚……、どんな苦悩も原稿用紙に表現してきた楠さん。そのキャラクターたちが読者を魅了するのは、喜びや楽しみだけではなく、怒りやしみといった感情もしっかり込められているからなのだろうか。

彼女はこれからも漫画家としての人生を歩み続ける。大きく、たくましい楠のように――。

(取材・文:小野建史)

編集部おすすめ