日本に約300万人いるとされるADHDの人。この特性が広く知られるようになったのは、ここ30年ほどのことだ。

長らく“めんどうな奴”や“空気が読めない人”と傷つけられてきた人が大人になり、ADHDと診断される例が増えている。

映画監督の君塚匠さんもその一人だ。“生きづらさ”を抱えながら生きてきた君塚さん。だが、自分の特性を受容したことで道が開ける。最愛の伴侶までやってきて──。

■25年ぶりに監督作品が公開

「僕はADHDです。注意欠如・多動症の略語で、道順を理解できなかったり、人に何度も同じことを聞いてしまいます。幼いころから“生きづらさ”を感じて、もがいてきたんですが、ADHDと診断されたのは、つい数年前、55歳のときでした」

5月25日、富山県富山市のシネコン「J MAX THEATERとやま」前広場には、映画ファン50人ほどが詰めかけていた。ステージで、訥々と告白したのは映画監督の君塚匠さん(60)だ。

6月21日から全国公開されている自身の監督映画『星より静かに』の公開前イベントとして行われたこのトークショーに、同市出身で主演の内浦純一さん(50)、同じく蜂丸明日香さん(41)らと登壇したのである。

「ADHDで人間関係が破綻したり、仕事でハラスメントに遭ったり、いろんな困難がありました。でも、僕がこの作品でカミングアウトしたのは、この映画でADHDや発達障害を広く知ってもらいたいという思いからなんです」

襟なしジャケットを羽織る君塚監督は愛嬌ある丸顔で、トレードマークの黒縁メガネがアクセント。

 物心つくころに映画監督を志し、名門・日本大学藝術学部を卒業後、26歳の若さで、いきなり商業映画『喪の仕事』(永瀬正敏主演、1991年)を脚本・監督して高く評価された。

続けて南果歩主演『ルビーフルーツ』(1995年)、黒木瞳、萩本欽一主演『月』(2000年)など5本の話題作を監督。だがその後、パッタリと監督作が途絶えてしまった。

「デビュー作の運が尽きたんだと思います。商業的成功=ヒットを続けなければ、もはや次の作品は撮らせてもらえない厳しい世界ですから」

仕事に見放されると、生活は荒れ、健康にも見放された。35歳のころには双極性障害と診断され、ひきこもり状態となった。ようやく復帰した彼を待っていたのがADHDという診断と、同業者のハラスメントだった……。

映画監督・君塚さんの今作までのブランクは、じつに25年。自ら発達障害を告白する衝撃作で、再び表舞台に躍り出た彼が、今日までの奮闘を振り返る──。

■20代で監督デビュー。高評価を受けるが……

君塚匠さんは、1964年11月29日、東京都大田区出身。蒲田で天ぷら料理店を営む自営業の父・正男さんと母・芳江さん(ともに故人)のあいだに生まれた長男で、上に姉・柳瀬清美さん(63)がいる、2人きょうだいだ。

「父は少年期に住み込み働きに出され、勉強の機会に恵まれなかったのが不本意だったそうです。そのぶん、息子の僕が学業面で不自由しないよう、つきっきりで僕に、勉強を厳しく指導しました。家庭教師も雇ったんです」

では、幼少のころの君塚さんに発達障害の兆候は見られなかったのだろうか?

「当時は教師でも発達障害という言葉を知らなかったと思います。落ち着かないコは『変わったコ』とされ、僕は『学年一変わったコ』だった。担任教師の口癖は『お前のせいで胃が痛いよ』でした」

姉・清美さんは、こう振り返る。

「とにかく感情の起伏が激しいコで、泣き叫んでいたかと思うと、次の瞬間に笑ってる。でもそんな様子もかわいくて、特に気にしていなかったんです」

勉強に厳しい父だったが、一方で芸術に興味を持たせてくれた。

「父は8ミリカメラの映像を編集するのが上手でした。旅行の記録にポール・モーリアの曲を入れ、母の声でナレーションを入れていたんです。自然と、僕も映像制作に興味が湧きました」

初めて劇場で映画を観たのは9歳で、認知症が題材の『恍惚の人』(1973年)。小学校高学年時に将来の夢は「映画監督」と定まった。

「中学の作文の課題で書いたホラー小説が評価されました。

でも、創造性が最も表現できるのは映画だと思っていたし、自分で撮りたかった。自主映画からメジャーになる夢を描いていました」

高輪商業高校を経て、日大藝術学部映画学科監督コースに進学。だが就職活動では、映画制作会社が不採用で、1987年、フジテレビのアルバイト・ディレクターに。

「その後は制作会社のテレビマンユニオンに入社し、テレビのドキュメンタリー番組などを手がけました。伊丹十三監督(故人)にも目をかけていただきました」

才能が開花した矢先「監督として独立するため」丸2年で退社。唐突に思える行動も「目的はハッキリしていました」と彼は言う。

「日藝の同級生で無二の親友だった村田昌彦という男が、僕を置いて’88年、がんで亡くなりました。僕の心の多くを占めていた彼との友情を、自分の監督映画として描きたかったんです」

そのデビュー作『喪の仕事』(1991年)は、がんに倒れた親友が死を前になにを思ったのかを、主人公が探っていく私小説的な物語だ。

専門家に高く評価され、主演の永瀬正敏は同年、ほかの作品とあわせ日本アカデミー賞最優秀助演男優賞と新人俳優賞をW受賞した。

「でも作品のヒットには結び付きませんでした。その後の10年間で5本を監督しましたが、結果的にすべてコケてしまったんです」

君塚さんは、精神的にも肉体的にもすっかり疲弊していた。

「僕は一気に壊れてしまいました。

ある日、布団から起き上がることができなくなって、医師に『双極性障害』と診断されたんです」

それが2000年、35歳のころだ。双極性障害とは、気分が極端に高揚する躁状態と、逆にひどく落ち込む鬱状態を繰り返す疾患だ。

君塚さんによれば、作品を出すことで「日常の“生きづらさ”を紛らせていた」ものの「ストレスは相当かかっていた」という。

「じつは起きられなくなる直前に結婚したんですが、うまく行かず、のちに離婚しました。ストレスが重なり、暴飲暴食で生活習慣病に……負のスパイラルに陥りました」

高血圧、糖尿病に糖尿病性顕性腎症、糖尿病による眼底出血……まさに「病気のデパート」だった。姉・清美さんが振り返る。

「弟はだんだん具合が悪くなっていきました。口もきかなくなり、会いにも行きにくくなっちゃって。いちばん重いときは、いまより体重が20キロも重く、100キロ以上はあったと思います」

■ADHDと診断され腑に落ちた

10年にも及んだ“ひきこもり”時代が急に幕を閉じたのは「父の死(2010年)がきっかけだったのではないか」と姉の清美さんが言う。

「葬儀などで外に出なきゃならなくなると、弟が急に覚醒したように私は見えました。パッと表情が変わったように思えたんです」

当時のことを、君塚さん自身は「劇的な変化」とは捉えていない。“暗黒時代”が明けるのは、本人の記憶では「2012年ごろ」という。

「ある日突然、スルリとシャツに腕が通せたんです。それで『社会復帰できる!』と思いました」

とにかく“ひきこもり”から抜け出すことができた。そこで「手始めのつもりで一般の仕事を探した」というのだが……。

「時給1千円の喫茶店のアルバイト面接で、履歴書も職務経歴書も書いたのに落とされました。ほかにいくつもの面接で不採用に。50代目前で、世間は甘くないと知った。もはや、映像業界にカムバックするしかないんだなと」

君塚さんは、バラエティ番組の10分ほどの再現ドラマを狙って、売り込みをかけた。

「病気で長いあいだ仕事できなかったことを伝え、過去の実績を見せたら、採用を決めてくれました」

そして打ち合わせとなったが、早速、AD(アシスタントディレクター)とトラブルが起きる。

「番組の方針になじめず、言われたことに対して『なぜそうなるのですか?』と、同じことを何度も何度も聞いてしまいました。それをADに叱責され、怒鳴り合いです。それでもプロデューサーはクビにしませんでしたが、僕のほうが途中であきらめて、投げ出してしまいました」

この時期は、こんな失敗例だけでなく、やり遂げて実績になった仕事もあり、一喜一憂していた。同時期、都内の蒲田から現在の横浜市鶴見区に引っ越している。

「蒲田の都会の喧騒に比べて鶴見区は緑が多く、自然に恵まれていて、すごく落ち着きました」

2017年ごろ、鶴見駅前を歩いていると、「悩みのある方、生きづらい方、お気軽にお立ち寄りください」という看板が目に入った。「就労移行支援事業所・にじ鶴見」と書いてある。

「直感で『僕を救ってくれるかもしれない』と思って部屋に入ると、代表の方が案内してくれました。そこには身体障害や知的障害をはじめ、さまざまな障害のある方が通っていたんです。障害者の就職を支援する団体があることを、初めて知りました」

同所の脊尾昌壮代表が、君塚さんとの初対面をこう振り返る。

「監督は、ものすごい勇気を出してドアをたたいたと思います。自己紹介や経歴を書いてもらい、話を聞いて、嘘じゃないとわかった時点で、私は思いました。『この人は、映画界に戻って活躍しなきゃいけない人材のはずだ』と」

君塚さんは同所で研修し、パソコンスキルのMOS4級を取得。なにより、なにかの障害がある仲間ができて、うれしかった。

「発達障害というものも、そこで認識しました。実際にADHDの人に会ってみて知ったことです。そして『もしかしたら僕も発達障害なんじゃないか』と、考えるようになりました」

そのころ仕事では「人の話を聞いてないでしょ!」「空気読めないよね?」と言われて、それが心に「刺さる」ようになっていた。

「一方、にじ鶴見に通うADHDの人は『注意欠如』で『多動』と診断されているのに、事業所では伸び伸びしているんですよ」

君塚さんは2018年から通う「ココカラメンタルクリニック鶴見」で、「僕はADHDかもしれないと思うので、テストしてください」と相談。精神科医の秋庭秀紀同院長が、そのときの様子を述懐する。

「チェックリストに記入後、ADHD診断の詳細な問診をしました。その結果『これまでの生きづらさは、ADHDの症状が要因だったのではないでしょうか』と、私は君塚監督にお伝えしました」

ADHDの人は日本に約300万人いるとされ、年齢や発達に比べて注意力が足りない、衝動的で落ち着きがないなどの特性があるとされている。

「ADHDは親の育て方や本人の性格、努力不足が原因ではなく、生まれつきのものと考えられます。大人になって初めて診断される人のうち、過去に誰かに指摘された経験や、ADHDの自覚がなかった人は、7割ほどいるといわれているんです」(秋庭院長)

自分がADHDだと告げられ、君塚さんはどう思ったのだろうか。

「それはもう『ああ、よかった!』という感じでしたよ。僕の“生きづらさ”は原因不明ではなかった。僕はADHDとわかったんです! 秋庭先生は『お薬を処方しましょう』と言ってくれました。これで『よくなる!』と思いました」

振り返る口調も、黒縁メガネの奥の瞳も生き生きしていた。

(取材・文:鈴木利宗)

【後編】映画で自身のADHDを公表 映画監督・君塚匠「映画を通じて差別をなくしたい」へ続く

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