【前編】60代で作家デビュー 難病と戦う児童文学作家の2作目が「夏休みの課題図書」に選出から続く
色覚障がいのある子供の成長を描いた『ぼくの色、見つけた!』(講談社)という作品が話題となっている。主人公、信太朗が自分にある特性と向き合いつつ、自分の家族が“ララ”と呼ぶ、生きていくのに欠かせない大切なものを探していくという成長物語だ。
本作の作者は岐阜県中津川市在中の元小学校教師の志津栄子さん(64)。小説を書き始めてわずか3年後の2022年に、中国残留邦人の孫である少年を描いた『雪の日にライオンを見に行く』(講談社)で、「第24回ちゅうでん児童文学賞」の大賞を受賞し、60代でデビューした異色の作家だ。
難病を抱えながら作品を書き続ける志津さんにこれまでの半生を聞いた。
■充実した教師生活から一転、病気で職を失う
《ライオンは居心地が悪そうな顔をしていた。場ちがいなところに来ちまった。雪なんか降ってどうするんだと途方にくれている。唯人にはそんなふうに見えた》
『雪の日にライオンを見に行く』の主人公・唯人は、雪が降りしきる動物園で、ライオンの姿に自分を重ねる。唯人の祖父は中国残留邦人だった。中国で生まれ育った父は日本になじめず、蒸発してしまった。唯人も学校になじむことができず、言い知れぬさみしさのようなものを常に抱えている。
作品の中には、人に明かせない葛藤や孤独感を持つ子供たちが多く登場する。
「『僕の将来の夢は親父を見つけて、殴りに行くことや』と言っている男の子がいました。お母さんとその子を残してお父さんが出ていってしまって……。お母さんを悲しませたことは許せない、でもお父さんに会いたい。そんな思いが伝わって胸が痛みましたね」
こんな子供もいた。
「5~6年のときに担任した子なんですが、漢字のテストをやっているときに、『もうあかん、俺は死ぬ』って言って、4階の窓から外に出たんです。窓の下に足をのせられる場所があるんですが、そこに立って……。必死で体をつかみました。この手を離したらこの子はおしまいだって。もちろん私も。
学校にナイフを持ってきたり、ライターを拾い集めたり、本当に危うい感じの子だったんですが、かわいくて、かわいくて。最後は心を許してくれたと思います。
教師という職の限界を感じたこともあった。
「もともと大阪に住んでいた女の子なんですが、お父さんとお母さんが離婚してしまって……。はじめは大阪でお母さんと暮らしていたんですが、再婚するから育てられないと、中津川に引っ越していたお父さんのところに渡されたんです。とても傷ついて、怪獣のように暴れまわる子でした」
2年生の新学期から、その子の担任となった。ようやく学校に慣れてきたと思った矢先の7月、その子は転校することになる。
「夏休み中に、親戚を頼って山梨県に引っ越すから、もう学校には来ないって。心配になって、山ほどお菓子を買ってアパートに行きました。すると、お父さんの彼女という人がいて、私が面倒を見るからって。
結局、翌年の3月に山梨県の児童相談所から電話がかかってきて、『こういう子を担任していましたか?』と聞かれて……。お父さんは育てられなくて、放棄してしまったの。その子の気持ちを思うと悲しくて、泣けてしまって。山梨まで迎えに行きたいと思ったけれど、学校の先生が引き取ることなんてできないじゃないですか」
そう振り返りながら、今にも泣き出しそうな表情で目を伏せる。
「志津先生は本当に子供たちに愛のある人。朝ごはんを食べてこない子に家で作ってきたおにぎりをそっと手渡していました。昼休みもいつも職員室にはいない。子供たちと駆け回っているエネルギッシュな先生でした」
あるとき、滝川さんの次女の手提げバッグが、男子児童に切られたことがあった。
「先生に連絡すると、『ちょっと待っとってね』とすぐに相手方に聞き取りをしてくれて。その夜、『あの子はね、お嬢さんに好意を持って、それをどう表現したらいいかわからなくなっていたの。謝りたいんだって』と。円満解決したばかりか、切られたバッグを、先生と先生の娘さんが夜に縫い直して、翌日娘に手渡してくれました」
充実した教師生活はこのまま続いていくと思ったが、暗雲が立ち込めたのは2004年の春のこと。ある日、右胸にしこりを見つけた。不安に思い、病院を受診するが、当初原因は不明だった。その年は6年生を担任。
「でも、結果はグレー。『はっきりがん細胞が出たわけではないが、リンパ球がすごい濃い密度でここにあるから』って。医師のすすめで右胸を手術することにしました」
同時期、夫婦の間には、修復できない亀裂が入っていた。
「とても耐えられないことがあって……。でも、胸の手術をしたとき、夫が見舞いに来てくれたら、すべて水に流そうと思っていたんです。でも、プライドの高い人だったから、一度も来なかった」
術後、家に戻らず2人の子供を連れてアパートに移り住んだ。結婚指輪は売ってしまい、知り合いがやっている児童養護施設に寄付した。
翌年、右胸に腫瘍が再発し、放射線治療をする。このとき、悪性リンパ腫という診断が下った。2007年には左胸にも腫瘍ができ、手術で切除した。一段落したころで、気合を入れる意味でも、当時勤務していた中津川市立西小学校のすぐそばの高台に建設されたマンションを新築で購入した。
「ワンオペでの子育てになりましたが、娘と息子がよく頑張ってくれて。子供は宝。生徒たちとはまた異なるかけがえのない存在です」
体調は安定しなかったが住宅ローンを抱えたこともあって、前にもまして教師の仕事に打ち込んだ。長女で会社員のみなみさん(32)は当時をこう振り返る。
「もともとテキパキとした性格でしたが、ますます責任感が強くなって、頑張りすぎているようにも見えました。私にものを頼むときも段取りを考えて5つくらいまとめて言うので、覚え切れなくて。病気になったのだから、もう少し体をいたわらないと、といつも母を心配していました」
それから10年ほど体調は小康状態を保ったが、坂本小学校に赴任していた’16年から肺炎を頻発。次々と体の不調があらわれ入退院を繰り返すようになった。
「『子供たちの顔を見てから病院へ行こう』と、朝の会だけ顔を出して後ろ髪を引かれながら治療へ向かうこともしばしばでした」
血中の好酸球の値が異常に高いことから、原因を調べるため大学病院に長期入院することになり、担任を外れることになった。
「その年は2年生の担任をしていました。非常に無念でしたね。復帰後は担任を持たずに、各クラスの手伝いをする立場になりました」
症状は一向に改善せず、診断書に書き込まれる病名はどんどん増えていった。
それでも、再び担任を持つことを夢見て、休職と復職を繰り返しながら病気と闘った。しかし、あるとき、管理職の教員からこう言われた。
「復職できるかわからないのに、休職されても困ります」
その言葉にあきらめがついた。2019年3月、定年まで2年を残して教育現場を去ることを決めた。
■「子供たちのことを書こう」。わずかな希望を胸に小説を書き始めた
《大丈夫やで。いつか胸のおくにチカッとあかりが灯るんや。ほならあかりの見えるほうに行ったらええんや。そんときほんまに行きたいとこに行ける》(『雪の日にライオンを見に行く』より)
自宅や病院で闘病する日々が始まった。思い浮かぶのは、教室での子供たちの顔。
「本当に悲しくて、申し訳なくて……。満足にお別れを言うこともできなかったことも悔やまれて毎日、泣いていました」
そんな日が幾日も続くうちに、「自分にできることは何だろう」と病床で考えるようになった。幼少期に抱いていた作家の夢が頭に浮かんだ。そして、充実した教師生活の思い出とともに、子供たちの声が聞こえた気がした。
「子供たちのことを書こう」
胸の奥に、ほのかなあかりが見えた瞬間だった。「基礎から学びたい」と、NHK文化センターで開講する創作童話教室に入会。月1度、足を引きずって名古屋に通った。
「柳行李いっぱいに作品を書いたらプロになれるよ」という講師のことばを指針に、「最後に担任した子供たちが卒業するまでに100編の作品を書く」という誓いを立てた。当時2年生だった子供たちはすでに5年生。時間は2年足らずしかなかった。
ひたすら書き続けた。早くも作品が2019年度の「日産 童話と絵本のグランプリ」の佳作に選ばれる。山梨に行ってしまったあの子のことをモデルに書いた『また明日』という作品だった。
創作童話教室の講師で、自身も元小学校教師でもある、児童文学作家の野村一秋さんはこう語る。
「志津さんの最初の作品はフィリピンパブを営む家庭の子を描いたものだったといます。そのときから、『書ける人』だと思いました。
その後も何編か読んでいくと、とりわけ問題を抱えるお子さんに深い愛情を注ぐ教師だったことが伝わってきました。彼女の長年の教師経験が作品にリアリティをもたらしているのでしょう」
その後も、書いた作品が小さな賞に入賞したり、児童文学のアンソロジー集に収録されたりするようになった。少しずつ作家としての自信がつき始めていたが、心残りがあった。突然の退職のために、かつての教え子たちに別れの挨拶ができなかったことだ。
2020年秋、坂本小学校の運動会に招かれた。最後に担任した子供たちはすでに6年生になっていた。逃げるように学校を去ったことを負い目に感じていた。
「自分のことを受け入れてくれるだろうか」
そんな不安は子供たちの顔を見た瞬間、吹き飛んだ。みな満面の笑みで自分を迎えてくれた。児童文学を書いていることを話すと、「自分のことを小説に出して」「あのことは書かないでね」と口々に言ってくる。かつての教室の喧騒を懐かしく思った。
学校を出ようとしたとき、ひとりの少年が走ってきた。担任を受け持ったとき、腎臓病を患い長い入院をしていた子だった。毎日、学校が終わると宿題やプリントを届けるために病室を訪れたことを思い出した。息も切らさずに駆け寄ってきた少年はこう叫んだ。
「先生も頑張って!」
翌年3月、『由佳とかっちゃん』という作品が「第23回ちゅうでん児童文学賞」で優秀賞を受賞する。学校の窓から飛び出そうとしたあの子をモデルにした小説だった。賞金は坂本小学校に寄付した。そして、教え子たちの卒業に際して、こんなメッセージを贈った。
《過去なんか振り返らなくていいのですよ。前へ前へ、明るい方へ。自分が行きたいと思う未来に向かって進んでいってくださいね。この先、みなさんはどこにだって行けるし、なんだってできるのです》
この言葉を証明するかのように、翌年に『雪の日にライオンを見に行く』が「第24回ちゅうでん児童文学賞」の大賞に輝く。主人公の唯人はいつの日か父親を殴ることを夢見ている。
教え子たちとの思い出が作品の中に息づいていた。
■「きっと私は長く生きられないから」。今日も物語を綴る
《ええ、ええ。だいじょうぶですとも。ものはなくなっても心の中にちゃんとあるの。思いは消えないのよ》(志津栄子『かたづけ大作戦』より)
マンションのバルコニーからはかつて教鞭をとった西小学校が見える。窓を開ければ、風にのって子供の笑い声やはしゃぎ声が聞こえてくる。何かを充電するかのように、その声に耳をすませたあと、パソコンに向かう。
一連の病気は、「好酸球性多発血管炎性肉芽腫症」と「IgG4関連疾患」という免疫系の難病が原因ではないかという診断を受けた。2021年には肺の状態の悪化に伴い、障害者認定を取得している。
「きっと、私は長く生きられない。だから、いっぱい書かないと」
冗談とも本気ともとれない口調でそんなことを言う。6時間以上ぶっ通しで書ける日もあれば、体調が悪くてあまり書けない日もある。それでも、必ず毎日パソコンに向かう。心の中の教室で、子供たちが笑い、泣き、けんかをしながら成長していく。その様子を丹念に文字にしていく。
『ぼくの色、見つけた!』の主人公・信太朗は5年生となり、さまざまな出来事を経て、生きていくのに欠かせない大切なもの、“ララ”を見つけ出す。かつて自分のララは教え子たちだった。いまのララは何?
そんな問いにはこう即答する。
「書くこと。もちろん、小説を書くことですよ。私にはもうこれしか残ってないのだから」
作家、志津栄子。書けるから生きていける。
(取材・文:本荘そのこ)