父と息子。よく似た2つの面影。

だが、歩んだ人生は対照的だった。片や、快活な性格と抜群の“しゃべり”で多くの人を魅了してきた息子。片や、苛烈な暴力で家族を苦しめ続けた父。

しかし、桑原征平さんは思う。もし戦争がなかったら、父は自分のような優しい性格だったのではないか。あるいは自分も戦争に行っていたとしたら、父のようになったのではないか。戦後80年、いまも消えない戦争トラウマの影響を問う。

■「母はいつもお岩さんのように顔を腫らして」

「どんなポーズでも取りまっせ。なんでも言うてや。こうがええかな。足も上げましょか?」

カメラを向けると、そう言って瞬時にポーズを決めるのは関西テレビの名物アナウンサーだった、桑原征平さん。戦中生まれの御年81だが、年齢を感じさせない快活さは、今なお健在だ。

局アナ時代には、「ニュースを読めないアナウンサー」として異彩を放った。芸人顔負けの巧みな話術で、『おはよう!ナイスデイ』や『ハイ!土曜日です』(共にフジテレビ系)など、多数の番組でリポーターや司会を務め、関西のみならず、全国で人気を博した。

現在も「100年しゃべるで」を目標に掲げ、ABCラジオのパーソナリティとして『桑原征平 粋も甘いも』など3本のレギュラー番組を持っている。そんな彼が、戦後80年を迎えた今年、改めて「しゃべり、伝えている」ことがある。

それは“戦争トラウマ”を抱えていた復員兵の父、栄さん(享年74)にまつわる思い出だ。

「うちの親父は、そりゃもうめちゃくちゃでした。自分はまったく働かんと、仕事はすべて母親まかせ。飲んだら目が据わってきてね。僕らは、親父の食事が終わるまで正座して待ってるんですが、ちょっと背中を丸めただけで『バカモン!』と怒鳴られ、殴られる。『こんなまずいメシ食えるか!』言うて、母親に熱い味噌汁を投げつける。火箸や包丁まで飛んできて、母親と兄弟3人で、寒空にはだしで逃げ出すこともありました」

「殺される」と思ったことも一度や二度ではなかった。成長して体が大きくなると、兄弟が暴力を受けることはなくなっていったが、その矛先は母ひとりに向けられるようになった。

「母は、いつもお岩さんのように顔を腫らしていました」

亡くなる寸前まで、家族を困らせ、母に苦労をかけ続けた父。亡くなった後も、征平さんの心の奥には、そんな父に対するザラついた負の感情がくすぶり続けていた。

「どうしようもない親父やと思っていましたが、亡くなって30年ほどたったころ、母の遺品のなかから、親父が戦地で書きためた『陣中日記』を見つけたんです」

何げなくページを開いた征平さんは衝撃を受けた。

「『親父、こんな壮絶な体験をしとったんか!』と。そのとき、親父が暴力的だった理由がわかったような気がしたんです」

過酷な戦争体験をした復員兵や一般市民が、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を患い、アルコールや薬物依存、家庭内暴力、ときには自死に至ることがある。これは“戦争トラウマ”と呼ばれ、旧日本軍兵士だけでも数十万人規模いたことが近年の研究で明らかになっている。

「母は、亡くなるまで、こう言うてました。『戦争で死んでしまった兵士や家族はかわいそうや。そやけど生きて帰ってきた兵士も、その家族も地獄や。戦争いうのは、生きるも死ぬも地獄なんや』と。そやから、戦後80年の今こそ、改めて戦争の真実を伝えなあかんと思っているんです」

■逃げる容疑者の腕を切り落とした父

征平さんは、父・栄さんと、母・フミさんの三男として、1944年5月14日、京都市右京区で誕生した。

「空襲警報が鳴って、自宅の防空壕に避難しているとき、母親が産気づいた。

それで親父が僕を取り上げたんです」

“出征”から一文字とった“征平”という名前には、復員兵だった父の複雑な思いが込められているという。

「親父は、1938年から1年間、日中戦争に出征しました。三男の僕が生まれたのは、親父が復員して5年後。二度目の召集はなかったんか、逃げ回ってたんかわかりませんけど。やっぱり心のどこかで、お国に対して奉公せなあかんという気持ちがあったんやろうね。だから親父は僕に“征平”と名付けた」

父はもともと優しい人だった。それは母がたびたび語った結婚のいきさつからもうかがえる。

「母は、小児まひの影響で、右腕は思うように動かへんし、歩くときも足を引きずっていました。昔のことやから、親にも『この子は結婚できない』と言われてたんやけど、当時京都府警の巡査をしていた親父が、交番の前に住んでいた母にほれたんやね。

『お嬢さんと結婚させてください!』と言うてきた。『いえ、この子は結婚できるような体やおへん』と祖父母は断ったそうですが、『姿形はどうでもいい、優しい人柄にほれた』と言うて、結婚したんです。出征するまでの約3年間は本当に幸せな結婚生活やったようです」

しかし、戦地から戻った夫は「人が変わった」ようになっていた。

「復員後、巡査の職に復帰したんですが、違法賭博の現場に踏み込んだ際、逃走する容疑者の片腕を、持っていたサーベルで斬り落としたそうです」

その常軌を逸した行動が問題視され、栄さんは京都のはずれにある派出所へと左遷されたのだった。

「親父は、これを機に巡査を辞めました。それからは仕事を転々と変えて、何をやっても長続きしない。『あんなバカと仕事できるか!』って怒っては、すぐに辞めるようになったんです」

■母は新婚時代の記憶を頼りに父の暴力に耐え続けた

征平さんへの暴力も常軌を逸していた。小学生のころ、女生徒にも人気があった征平さんに対し、担任が通知表に〈早熟である〉との評価を書いた。それ見た父は激怒。征平さんの手足をグルグルに縛り、近所を走る阪急電車の鉄橋の欄干に身を乗り出すように縛り付けた。

「電車が下を走るたびに、目の前でパンタグラフがバチバチッと鳴るんです。もう死ぬと思いました」

暴力に加えて、女性問題も……。

「忘れもしません。僕が小学校5年生のときです。朝から晩まで汗水垂らして働いている母に向かって親父は、『今日は何が何でも、いつもより、はよ帰ってこい』と言う。

母が夕方戻って晩飯を作ると、親父の女がやってきた。酒を飲んで食事をすませた親父は、『おい、布団敷け』。『今から2時間、征平を連れて風呂に行け。時間前に戻ってきたら承知せえへんぞ』と……」

母と2人、遠くの銭湯に行って帰ってきても、まだ1時間ある。近所の材木店の木材に、母と並んで腰を下ろし、しばらくのあいだ時間をつぶしていた。そこへ、自宅から出てくる女の姿が……。

子どもながらに事情を察した征平さんは、「お母ちゃん、なんでお父ちゃんと別れへんの? みんなお母ちゃんについていくのに」と、問うたという。すると、フミさんは決まってこう答えた。

「お父ちゃんは必ず変わらはる。戦争に行く前の優しいお父ちゃんに戻らはる。せやから、それまで辛抱してあげような」

新婚時代の優しかった夫のことを、フミさんは生涯忘れられなかった。このような家庭環境にもかかわらず、非行に走らなかったのは、母の献身があったからだ。

「まったく働かへん親父に代わり、母が京都で1坪ほどの繊維問屋を営んで家計を支えてくれました」

朝から晩まで働いたフミさん。不自由な体で自転車をこぎ、職場と家を往復しながら、配達にも回った。征平さんら3人の兄弟も、小学生のころから、休みの日に店番や配達の手伝いをした。

「母はクリスマスになると、借金をしてでも、戦争未亡人と、その子どもたちが住む施設に、あんパン100個を差し入れするんです。『うちも父親おらんようなもんやん。俺にも食わせてくれ』と言うても、『あかん』て言われてね。戦争で父親を亡くした子どもたちに、人の温かみを教えてやりたかったんやと思います」

(取材・文:和田秀子)

【後編】「中国兵の遺体が鎖に繋がれて」桑原征平さん語る戦争トラウマ「日記を読んで、父が暴力的だった理由がわかった気がした」へ続く

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