【前編】殴られるたび母は「優しかったお父ちゃんにいつか戻らはる」と…桑原征平さん明かす「父を変えた戦争のトラウマ」から続く

「戦後80年の今こそ、改めて戦争の真実を伝えなあかんと思っているんです」。そう語るのは関西テレビの名物アナウンサーだった桑原征平さん(81)だ。

征平さんの父は1938年から1年間従軍していた。「出征前の父は優しかった」と母はたびたび語ったが、征平さんが知る父は、ほとんど働かず、常に暴力で母や息子たちを苦しめる暴君だった――。

■「行ったら殺すぞ!」。次兄が五輪出場しても、父は母に応援を許さなかった

献身的に働く母に支えられ、地元の高校を卒業した桑原さんは、1963年、2人の兄と同じ東京の成城大学に進学する。

「成城大学は学費が高くてね。当時の入学金は30万円。けど、『兄ちゃんたちと同じ大学に行きたい』と言うたら、『ほな、お母ちゃんがんばる』と、行かせてくれたんです」

反対する栄さんには、「成城の入学金は5万円や」とごまかした。

「母は、学費を工面するために、相当苦労したと聞いています。僕と次兄の在学が重なっていた1年間は、取引先に『必ずお支払いしますから』と頭を下げて、支払いを待ってもらうこともあったようです」

当時、成城大学は水泳競技に力を入れており、“水泳三兄弟”と呼ばれた桑原兄弟にとっては、うってつけの大学だった。

「母は、僕ら兄弟3人を、小学校のころから水泳教室に通わせてくれました。というのも、母は子どものころから泳ぎたくてしかたなかったんやけど、体にハンディがあったから、親から『泳いだらあかん』と言われてた。そやから、3人の息子に夢を託したんです」

息子たちは、水泳の才能を開花させる。

征平さんは中学時代、男子200メートルバタフライの京都府中学生の新記録を5年間保持していた。

1964年、征平さんが二十歳のころ。次兄は東京五輪に水球の日本代表選手として出場を果たす。

「けど親父は、それが気に入らん。『水球みたいなカネにもならんスポーツさせやがって!』と激怒して、また母親を責めるんです。親戚みんなが次兄の応援のためにオリンピック会場へ駆けつけたのに、母だけは行かれへんかった。『お前行ったら殺すぞ。離婚するぞ!』って、親父に脅されたから、『離婚したらええ』と言うたんですが、『戦争に行く前のお父ちゃんは優しかったから』と、いつものセリフですわ」

そんなフミさんが、唯一、夫の目を盗んで出かけたのが、京都府主催で開催された「オリンピック選手の母をたたえる会」だった。

「母は、一張羅の着物を着て出かけていました。表彰状と記念品をもらってうれしそうやったなぁ。人生最高の日やったと思います」

生涯、表彰状を大切にした。フミさんが亡くなったときには棺に納めたという。

母のおかげで、東京での大学生活を満喫した征平さん。卒業後は京都に戻り、大阪の酒問屋でビールの営業に奔走しながら、実業団で水泳を続けた。このころ、大学時代に知り合った秀子さんと結婚。身を固めて堅実に歩むかと思いきや、ここで征平さんの人生を180度変える大転機が訪れる。

営業途中に立ち寄った喫茶店で、たまたま手にしたスポーツ新聞。そこに載っていた〈関西テレビアナウンサー募集〉の求人が目に留まり、妻にも内緒で応募したのだ。

「冷やかしのつもりでした。営業のネタになると思ってね」

ところが、採用試験の際、ノリノリの関西弁でニュース原稿を読んだところ、「おもろい! アナウンサーがダメでもお前は営業でいける」と、幹部らに気に入られ、まさかの合格。

1969年、晴れて関西テレビに入社する。標準語が話せないアナウンサー、桑原征平の誕生だった。大ブレークのきっかけは、入社6年目、31歳のときにやってきた。

「当時、僕は『ハイ!土曜日です』という全国ネットの番組でアシスタントをしていました。

ちょうどその年、セ・リーグでは広島カープ、パ・リーグでは阪急ブレーブスが優勝した。広島の地元では、赤い帽子をかぶってファンが大騒ぎや。そしたらディレクターが、『誰か、阪急ブレーブスのユニホームを着て、広島に殴り込みするアホはおらんか?』と。それで、『はい! やります! ボコボコに殴られてもいいんでやらせてください!』と手を挙げたんです」

日本シリーズの前日、阪急ブレーブスのユニホームを着て広島駅に降り立った征平さん。

「大声で、『明日からの日本シリーズでは、わが阪急ブレーブスが勝利します!』と叫んだら、案の定、『なにしとんぞ! ここは広島じゃ!』と、広島ファンのオッサンからバチーン、殴られました(笑)」

これが視聴者に大うけした。以後、10年続く伝説のコーナー「征平の挑戦」が始まったのだ。

ここから、文字どおり水を得た魚のように活躍する。突撃リポーターとして、メジャーリーグの入団テストを受けたり、ハリウッド女優の自宅で飼育されているライオンと格闘して臀部をまれたり。体を張ったパフォーマンスで、人気アナへと上り詰めていった。この間、プライベートでは、2人の子どもにも恵まれ、順風満帆な日々を送っていた。

フミさんは、征平さんの体を案じつつ、活躍を喜んだ。一方、栄さんは、「お前、ライオンと格闘してんのか。

アホちゃうか」と、相変わらず否定的だったという。

そんな栄さんが、ただ一度だけ、「みんなが、お前の番組をおもろい言うてる。一回、見に行こうかな」と、ぽつりとこぼしたことがあった。しかし、そのとき征平さんは、「今さら堪忍してくれ。親父が来てもスタジオに入れへんで」と断った。それを聞いた栄さんは、それ以後、何も言わなくなったという。

「父が事故で入院した」という連絡があったのは、それからしばらくたった1981年のことだ。

「晩年、親父は布団店をしていました。バイクで布団を配達中に転倒。ミゾに落ちて頭を打った。それで救急車で運ばれたんです」

約2週間の入院の後、栄さんはあっけなく74年の人生を閉じた。

「『もっと親孝行しといたらよかった』なんて思いませんでしたね。

亡くなる寸前まで、相変わらず、よその女を家に引っ張り込んだり、母を殴ったりしていましたから」

結局、「変わらはる」ことは最後までなかった父。フミさんも、葬儀ではつい本音が出たのか……。

「『征平、祝電はどこやったんや?』と言うたんです。『お母ちゃん、祝電やなくて弔電やろ!』と。ついに本音が出たな、と兄弟で大笑いしました」

■「銃剣で刺せ」。母の遺品から見つけた父の日記

父亡きあと、桑原さんの活躍の場は東京へ。関西テレビからの出向として、2年間、フジテレビの『おはよう!ナイスデイ』の司会・リポーターとして、事件・事故の現場を駆け巡った。

年月は流れ、2004年。桑原さんは60歳に。35年間務めた関西テレビを退職する日がやってきた。その際には、退職記念特別番組として『さらば征平・最後の挑戦!』と題した特番が組まれるほど、愛されるアナウンサーになっていた。

第二の人生。

桑原さんは、その活躍の場を、テレビからラジオへと移していった。

「ABCラジオのディレクターが、35年の僕のアナウンサー人生について、ぜひ番組でしゃべってほしいと言うてくれてね。ほんまにありがたいことです」

大阪芸術大学の教授にも就任。放送業界について、学生たちに講義する機会にも恵まれた。新たな世界での活躍が続いていた2010年、最愛の母、フミさんが94歳で他界する。

「母の遺品を整理していたら、1冊の本が出てきました。表紙に『陣中日記 桑原栄』と書いてある。開いてみると、親父が日中戦争に出征したとき、戦地で書きためた日記やった。親父が紙切れに書いていたのを、母が見つけて本にしたらしい。30冊ほど刷って親戚に配り、1冊だけ手元に置いてたんや。僕に渡しても読まんと捨てると思って、言うてなかったそうです」

200ページほどある日記をめくると、目を覆いたくなるような戦地での惨状が記されていた。

「さっきまで隣にいた戦友が、鉄甲を打ち抜かれて死んでいく。中国人の民家に押し入って、水がめのなかに隠れていた住民を引きずり出して、上官が『桑原、撃て!』と。でも、銃から弾が出えへん。『あぁ、よかった』と思ったら、『銃剣で刺せ』と。刺した感触まで全部書いてあんねん」

印象に残ったのはこんな場面だ。

「中国軍のトーチカ(防衛陣地)に攻め入ったときのこと。中を見ると、中国兵が10人ほど、足を鉄の鎖につながれて逃げられない状態で死んでいた。それを見た親父は、『中国兵も日本兵も、二等兵は大変や。上官の命令には背けないのだ』と、そんな哀れみが書き記されていました」

終盤のほうでは、「進むも死、引くも死」と、死を覚悟した様子も見られたという。

「生前、戦争のことは一切口にしなかった親父ですが、この日記を読んで、ようやく気持ちの一端を理解できたような気がします」

父からの伝言のような『陣中日記』を受け取り、「戦争の悲惨さを伝えねば」と考えた桑原さん。自身がパーソナリティを務めるラジオ番組『桑原征平 粋も甘いも』にて、半年にわたり、日記を朗読。父との思い出も交えて紹介したところ、大反響を呼んだ。

征平さんは、ラジオで紹介するなかで、父を許す気持ちが少しずつ芽生えていったという。

■「戦争を知る政治家がおらん」。記憶の風化を懸念

「もし戦争がなかったら、親父も『ええお父ちゃん』として、穏やかに暮らしてたんとちゃうかな」

戦後、多くの復員兵が“戦争トラウマ”に苦しんだが、精神的な疾患を“恥”と捉える風潮もあり、全国的な調査は進んでいなかった。2024年、厚生労働省はようやく患者のカルテや記録文書を通じた実態調査に乗り出す。その成果は、今年7月から戦傷病者史料館「しょうけい館」で特別展示されている。

現在も、沖縄戦のトラウマに苦しむ患者を診ている精神科医の蟻塚亮二さんはこう語る。

「私の父親も、復員後は人付き合いを避け、会社で働くことができなくなりました。戦争トラウマの症状は人によって異なりますが、さまざまな形で家族や子どもにまで連鎖します」

父に殴られて育った征平さん。

「僕は、自分の子どもを強く叱れなかった。どうしても、親父に殴られた記憶を思い出すからです」

征平さんの長女・長男は、父の背中を見て育ち、ともにテレビ業界に進んだ。

一方で、暴力にさらされて育った子どもが、さらにその子どもを虐待するなど、戦争トラウマは世代を超えて連鎖する事例も報告されている。戦争トラウマの影響は、戦後80年たっても終わっていない。征平さんが今懸念しているのは、まるで戦争に向かっているかのような、この国のきなくさい空気だ。

「国会には、戦争を体験した政治家がほとんどおらん。だから、本当の戦争の恐ろしさをわかってないんとちゃいますか。それに、いまの若い子たちは、戦争をゲームみたいに感じているかもしれません。戦争は、そんなもんやない。絶対にあかん、ということを伝えていこうと思っています」

講演活動や大学の授業でも、戦争の悲惨さを伝えてきた。

「そろそろ、成人を迎えた孫たちにも話しておこうと思っているんです。でも、『じいちゃん、いつもの楽しい話をしようや!』と言われてしまうやろうな」

そう言って、目を細める征平さん。当たり前の日常が、ずっと続くように。二度と、戦争が人々の人生を変えてしまわないように。父母の思いを胸に、征平さんは100年しゃべり続ける覚悟だ。

(取材・文:和田秀子)

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