茨城県在住の鈴木博房さん(75)は、40年のキャリアを持つベテランの警察犬指導士。彼の腕にちょこんと乗った白いトイプードル――「アンズ」という名前の可愛らしいこの子犬も、なんと今年で12歳を迎えた現役の警察犬なのだ。

これまでに歴代15頭のシェパードと、3頭のトイプードルを警察犬に育て上げてきた鈴木さんの指導士人生に迫る。

■発見がもう少し遅れていたらあわや転落死…アンズの鼻が命を救った

フゴフゴフゴ……。

捜索開始の指示で、体重わずか3キロ、クルクルの白い毛にくるまれたトイプードルのアンズ(♀・12)が、勢いよく地面に鼻をすりつけ、さっそうと歩き出した。

4月某日夜の茨城県日立警察署からの要請は、“行方不明になった90歳男性の捜索”だった。手がかりは、男性が残したパジャマの臭い……。

警察犬指導士として40年のキャリアを持つ鈴木さんは、リードを手に“今日のアンズは集中力が高いぞ”と、手応えを感じていた。

「人間の足の臭いなどは、舗装道路なら2時間、土の道や砂利道では5~6時間残ります。その臭いをヒントに追っていくわけです」

差しかかった交差点では、不明者が右折したとの目撃情報もあったが、アンズは迷うことなく左折。

警察無線からは「おかしいな…」という声も聞こえてきたが、住宅街を抜け、3年前の土石流で立ち入り禁止となった山道をズンズン進んでいく。

とても90歳の高齢者が入り込むような場所とは思えない。しかし、鈴木さんは人間の先入観よりもアンズの鼻を信じていた。

「真っ暗闇で、二次被害が出ないように明朝まで捜索を中断することになったのですが、アンズがしつこく川のほうばかり見ていて。

何かあるはずだと思っていると、かすかに『ウ、ウゥ……』とうめき声が。崖から転落して木の枝に右足が引っかかり、逆さづりになった男性の姿を発見したのです」

発見がもう少し遅れていたら転落死しかねなかった危機を、アンズが救ったのだ。

6月、賞状とともに副賞のビーフジャーキーが贈られた表彰式の様子がニュース番組などで報じられた。しかしアンズは落ち着き払った涼しい顔だ。

「(表彰は)もうすっかり慣れていますからね。行方不明者を捜し出して表彰を受けるのは5回目。有益な捜査情報を提供する効果事例に関しては、その数倍もの件数に上ります」

アンズは’16年に小型犬としては茨城県で初めて警察犬に採用されて以降、いまも現役で活躍を続けている。今年8月には『おかあさんになった警察犬アンズ』(岩崎書店)も出版された。

アンズは、警察直轄で管理する警察犬とは異なり、民間の指導士によって管理される嘱託警察犬。

「飼育費用や、捜索現場への交通費などは自己負担ですし、事件を解決しても謝礼は数千円。それでもアンズに関する何冊かの本が売れたので、妻は『アンズが持ち出し分の費用を返してくれている』と笑っています」

アンズがデビューした当時、警察犬といえばシェパードやドーベルマンなど大型犬ばかり。警察官も捜索依頼者も「こんな小さい犬で大丈夫?」と信頼してくれなかったという。

「かくいう私自身も、殺処分寸前のアンズを引き取ったとき、トイプードルに警察犬は無理だろうって思っていたんです」

■「人助けができる趣味を持ちなさい」。母の言葉を思い出し警察犬指導士の道に

’50年8月13日に静岡県磐田市で生まれた鈴木博房さんが、警察犬と関わりを持ったのは中学2年生のときだった。

「親戚の叔父が警察犬のシェパードを飼っていて、私もよく散歩に連れて行ったり、しつけに関わったりしていたんです」

いっぽう小学生のころにアマチュア無線の免許を取得するなど工学に興味を持ち、大学卒業後は日立グループの企業に入社。

「母からは『大企業に入ると、自分の好きな仕事はできない。仕事とは別に、自分の好きなことで人助けができる趣味を持ちなさい』とアドバイスされたのを覚えています」

入社後は火力・原子力発電所の試運転や定期検査、産業用発電設備設計などを任され、結婚をして長男に恵まれても激務続き。趣味も見つけられず、悶々とした日々を送っていた30代後半、ある新聞記事が目に留まった。

「行方不明の高齢者が凍死する事件が続き、警察犬が有効だと報じられていました。そこでかつての母の言葉を思い出したのです」

自分で警察犬を育て、行方不明者を捜せば人助けになるはず。だが本業よりも出動要請を優先しなければならない……。

「当時、大企業を中心に社会貢献をしようという機運があったので、『本社勤務から工場勤務に異動して、警察犬を育てたい』という私の申し出を、上司は許可してくれました。でも『これ以上の出世はできないよ』とも忠告されました(笑)」

鈴木さんはシェパードを飼える庭を確保するため、茨城県東海村に転居。近所に住む警察犬の訓練士から子犬を譲り受け、アリスと名付けた。

生後6カ月から本格的な訓練を始め、アリスは2歳7カ月で茨城県嘱託警察犬の試験に合格。

「30年ほど前は、年間の出動回数もわずか3~4回ほどで、まだまだ嘱託警察犬は信頼されていなかったのです。

仕事が終われば“はい、さよなら”と置き去りにされてしまい、1時間ほど歩いて家に帰ったこともありました。もっと役に立つためには実績を積み重ねていくしかないと覚悟を決めたのです」

市街地での捜索で車の音に反応して集中力を切らさないように、アリスには国道に何時間も座らせて音に慣れさせた。また殺害されて埋められている遺体の捜索を想定し、一晩おいて腐らせた豚足を海岸に埋めて見つけさせる訓練も行ったという。

そんな猛訓練のかいもあって、出動回数も着実に増えていった。

「アリスが土のついた大根をくわえて持ってきたのかと思ったら、それがなんと“被害者の脚”だったこともありました」

次第に警察からも信頼を得ていき、新たなシェパードを迎えては警察犬に育て、指導士としても成長した鈴木さんは、’13年3月、1頭のトイプードルと出会うことになる――。

(取材・文:小野建史)

【後編】《殺処分寸前のトイプードルを警察犬に》鈴木博房さん トラウマと嘲笑に負けなかった“子犬と指導士の12年事件簿”へ続く

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