【前編】トイプードルを敏腕の警察犬に育て上げた鈴木博房さん 大企業に入社するも30代後半で指導士の道を選んだワケより続く
ある日、期せずして殺処分寸前のトイプードルを保護した、警察犬指導士の鈴木博房さん(75)。のちに「アンズ」と名付けられることになるその犬は、過去の飼い主から受けたつらいトラウマを抱えていた。
警察犬といえば、シェパードやドーベルマンなど、体躯のよい犬種ばかり。こんな小さな犬が警察犬になれるわけない――誰もがそう笑った。そんな嘲笑に負けなかった、アンズと鈴木さんの12年にわたる絆とは。
■殺処分寸前の子犬を保護。警察犬を目指すも仲間たちからは「トイプードルには無理」
知人の愛犬が亡くなって火葬場に赴いた後、近くにある茨城県動物指導センターに顔を出すと、トイプードルを入れたクレート(かご)を持った男性が、職員と口論していたという。
「この犬、ずっとうるさいから、もう要らないんです!」
「ここに来る前に、犬を引き取ってくれる人を探しましたか?」
「飼い主が引き取ってほしいと言っているのだから受け付けてくださいよ。飼育放棄の手続きは済んでいます」
思わず鈴木さんは、2人の間に割って入っていた。
「『ここに引き取られたら今日中に殺処分されちゃうんですよ』と伝えたのですが、男性は『だから連れてきたんですよ』と。子犬は終始ブルブル震えていました」
愛犬を失った知人に譲ることができるかもしれないと考え、「じゃあ、私が引き取ります」と、もらい受けることに。
あくまでも一時的に預かるだけのつもりだった。自宅で新鮮な水とお湯でふやかしたドッグフードをあげてみたが、恐怖が残っているせいか、半分しか食べない。
「それでもクレートの中に入れて、タオルでくるんであげると、ようやく安全な場所に来たと思ったのか、静かに眠りました」
翌日、おしっことうんちをさせると、子犬は落ち着いた様子を見せるように。
「居間で遊ばせていても、妻が近寄ると震えだすのです。彼女が腕を振り上げるしぐさを見ると、“たたかれる”と思ったのか、大急ぎで逃げていって。前の飼い主だった女性に虐待を受けていたのでしょうか」
そんなおびえる子犬を、居間に面した庭から見守っていたのは、飼育していた3頭のシェパードたちだった。
20倍以上の体重差があるものの、鈴木さんは“いけるかもしれない”と直感し、子犬と対面させてみることに。
「シェパードたちは子犬のお尻の臭いを順番に嗅ぎだし、受け入れるサインを出したのです。
しばらく子犬と一緒に暮らすと絆も生まれ、『うちで飼おうかな』と妻に相談してみると、賛成してくれたのです。ちょうど、畑で杏の花が咲いていたころだったので、“アンズ”と名付けました」
伏せやお座り、待てなど、基本的な動作の習得のため、「基本服従」という試験を受けさせたのは、アンズに“生きがい”を与えるためだ。
「資格を取っておけば、動物愛護のイベントなどでも活躍できると思ったんです」
試験は無事に合格。このとき、審査員の一人が鈴木さんにこう語った。
「アンズは試験中も尾が上がっていました。訓練をとても楽しんでいるようですね。
その言葉に後押しされ、次のステップ「基本服従・第二科目」に挑戦させると、こちらも合格。
鈴木さんは“訓練はこれ以上必要ないだろう”と考えたが、ある事件が、アンズの運命を変えた。
「行方不明になった男性をシェパードと捜索したのですが、残念ながら間に合わず、入水自殺をしてしまう事例がありました。
目立つシェパードで街中を捜索したことで事件が知れ渡ってしまったのか、動画配信者に行方不明者の自宅を特定されてしまったのです。それで、ご家族が思いつめてしまったのかもしれません、後に奥さんも自ら命を絶ってしまったのです」
目立つことなく行方不明者の捜索する必要性を痛感した鈴木さん。
「小型犬ならこの問題をクリアできると考えたとき、シェパードたちの訓練に興味津々のアンズの姿があったんです」
しかし当時、警察犬として認められていたのは、7種の大型犬のみ。仲間からは『夢を見るのは自由』『茨城県警の警察犬試験のレベルはシェパードでも難しいほど高いから、トイプードルには無理だ』と笑われてしまった。
そんな世間の反応がアンズの闘志に火をつけたのかもしれない。小さい体ながらも日々練習を重ねた2年後、ついに警察犬試験を突破したのだ。茨城県警も小型犬の採用は初めてのことだったという。
「こんな小さいのにすごい! 警察犬ってわかるようにユニホームを作ってあげないと」
喜んだ妻は、かつて鈴木さんの手で育てられたシェパードが、警察犬大会で優秀な成績をおさめたときに贈られたガウンを、仕立て直してくれた。
’16年1月、“警察犬”と書かれた手作りユニホーム姿のアンズは警察犬嘱託式に出席。
「刑事部長から授与された直径5cmの大型犬用のメダルが重かったのでしょう。メダルをかけたアンズの首が、重さでガクッとなっていました(笑)」
■アンズは3頭の子のお母さんに。親子で出動した事件では、少女が自殺を図るが――
「えっ、トイプードルで大丈夫?」
警察犬として認められたものの、捜索現場でアンズはなかなか信用されなかった。
「もしアンズが事件を解決できなかったとき、責任を問われてしまうかもしれないと、誰も使いたがらなかったのです」
そんな空気が変わったのは、自宅近くの空き地で、頭から血を流していた高齢女性の遺体が発見された事件だった。アンズとシェパードのグレンの2頭で現場に駆けつけると……。
「グレンは女性が倒れていた空き地から彼女の自宅の庭に入り、茶の間に面したガラス戸の前で座ったのです」
警察はグレンの動きを見て、何者かに自宅の茶の間で襲われた女性が、助けを求めるために外に逃げて、空き地で力が尽きたと見立て、殺人事件と断定した。
鈴木さんが「勉強のために、もう一度、違う犬でやらせてもいいですか」と、アンズにも捜索させたところ、最初はグレンと同じ動きだったという。
「それで満足して帰ろうとしたのですが、なぜかアンズは玄関前で座ったのです。『帰るぞ』と引っ張っても、全く動こうとしない」
そこでアンズが座った場所をよく見ると、玄関に血痕が。さらに血痕を追うと、ゴミ捨て場のブロック塀に血で染まった箇所を見つけた。
「女性はゴミ捨て場で転んで頭をぶつけて、一度家に戻り、痛みで助けを求めるために居間から庭に出た結果、空き地で力が尽きたということがわかったのです」
殺人事件ではなく事故だった! このお手柄をきっかけに、アンズの才能は注目され、出動回数も増えていった。
そのいっぽう、アンズには昔のトラウマがまだ残っており、寝ているときに悲鳴を上げたりうなったりすることがあった。
「おそらく元の飼い主のトラウマがあり、悪夢を見たのでしょう」
すると、かわいそうに思った妻が「子育てに集中すると、つらいトラウマを忘れられるかも」と、鈴木さんに提案。
「犬は出産・子育てで心が安定すると言われています。それでアンズが5歳のとき、知り合いの犬とお見合いさせたのです」
アンズは3頭の子のお母さんになった。鈴木さんは1頭を人に譲り、男の子のエディーと女の子のエリーを育てることに。2頭とも生まれたときからアンズらの訓練を間近で見ているため、のみ込みも早く、訓練を始めてわずか1年で試験に挑戦。
「警察犬の試験は1年に1回の一発勝負なのです。残念ながらエリーは失敗。ですが、翌年に再挑戦して合格できました」
そんな子供たちに背中で教えるように、アンズは活躍を続ける。
高齢化を背景に、認知症による不明者は急増している。警察庁によれば’24年は全国で約1万8千人に上ったという。そのうち発見時に死亡が確認されたのは491人……。
「行方不明者はご遺体となって発見されることも少なくありません。
もちろん行方不明になるのは高齢者ばかりではなく、小学生や中学生のケースもある。
「ある女子中学生の捜索では、アンズは駅までの追跡に成功して、彼女が電車に乗ったことを突き止めました。
そこで鉄道会社と連携して千葉県で保護。彼女はSNSで出会った“高校1年生の友人”と東京のテーマパークに行く約束をしていたのですが、実際に現れたのは児童ポルノ関連で逮捕歴がある40代の男性だったのです」
子供たちの捜索に、アンズとエリー&エディーの母子2代で参加するケースも増えてきた。ある日、夜の10時を過ぎて鈴木さんがそろそろ寝ようかと思っていたところ、警察から慌ただしい様子で依頼が。シェパードのバロン、そしてエリーが緊急出動した。
「小学6年生の女の子が帰宅せず、机には自殺をほのめかすメモあったとのことでした。ご家族が“目立たない捜査”を望まれたため、ベテランのバロンではなくエリーを使いました」
だが時間が経過していたこともあり、女の子の臭いの痕跡は薄く、エリーは苦戦するなか、散歩中の紫犬に近づかれてフリーズ。
母のアンズが呼び出され、母子で合同捜査することに。真っ暗な山道を鈴木さんが懐中電灯で照らしながら、アンズが歩みを進めるも、またもトラブルが。
「懐中電灯の光に反射した猫の目にアンズがおびえてしまったのです。
だがエリーがアンズをフォローしてくれた。ウーッとうなって猫を追っ払ってくれたのだ。
しばらく捜索を続けると、アンズは誰かを見つけたのか、突如駆け出した。その先には――。
「これ以上来ないで。来たら私、死ぬから!」
少女を発見できたものの、彼女の手にはカッターナイフが。緊張が走るなか、アンズはトコトコと女の子に近づき、隣にちょこんと座ったのだ。
「私と犬たちだけでそちらに行くけど、大丈夫かな」
鈴木さんの問いかけに、少女はうなずく。するとエリーもアンズと少女のほうに近づいて行った。
「その犬たちはかまないよ。なでてあげてね。一体どうしたの?」
「中学受験に失敗して、どうしたらいいのかわからないの……」
少し緊張感が和らいだ。少女と鈴木さんのやり取りが続く。
「その白い犬(アンズ)は殺処分されそうだったんだけど、頑張って警察犬になったんだ。茶色の犬(エリー)は去年、警察犬の試験に落ちて“浪人”したけど、今年合格したんだよ。
アンズとエリーが飛びつくと危ないから、刃物をしまってくれないかな」
鈴木さんの言葉を聞き入れた少女は、「犬、さわってもいい?」と。トイプードル母子のあたたかな体が、少女のかたくなな心をやさしく溶かしてくれたのだ。
「シェパードなら怖がったでしょうが、アンズとエリーだったからこそ、少女は心を開いてくれたのだと思います。犬は人間と違って仮面をかぶらないため、気持ちが通じやすいんです。
私はずっと理系の世界にいて、そこには1+1=2という絶対的な原則がありました。でも犬の世界はいつも人間の計算どおりにいかないことばかり。何が起こるか予測できないからこそ、強いやりがいを感じるのです」
■孫のファニーも今秋に警察犬試験を控える。目指すは「親・子・孫3代」での出動!
「小型犬でこんなに跳ぶのは、なかなか見たことがないでしょう」
アンズは、長身の記者の腰の上あたりまである段差を軽々と飛び越える。並べた5つのガーゼのうち、記者がさわったものを即座に当てるのも朝飯前だ。
現在、シェパード2頭、トイプードル4頭を指導している鈴木さんは、朝と夕方の1日2回の訓練を続けている。
「だいたい行方不明者の捜索は18時から19時になる場合が多いから、夕方の訓練のときにいちばん調子がいい犬を見極めます。
ところがアンズは好き嫌いがけっこうハッキリしていて、山の捜索の要請が多い警察署からの電話には知らんぷりなんです。妻は『まるで、どこの警察署からの電話か、わかっているみたい』と不思議がっています(笑)」
そんなアンズも12歳。人間なら還暦をこえた年齢にあたる。
「それでも一度出動すると、すごい集中力で、8キロ先まで追跡するほどです。まだまだ現役で活躍できると思います」
アンズの背中を、エリーやエディーが追いかける。さらにアンズにとっては孫となる、エリーの子供・ファニーは、今秋に試験を控えた警察犬候補犬だ。
そう遠くない未来、トイプードルの親・子・孫の3代での出動も、鈴木さんの掛け声とともに始まるだろう。
「よし、アンズ、仕事だ。捜すぞ!」
(取材・文:小野建史)