「ここは、人生のハードルを下げられる場所。見て、しゃべって、笑って、泣いて、怒って、自分の弱みをさらけ出してください」
7月12日午後2時。
1年前にここを立ち上げのが、主婦で介護福祉士の白岩佳子さん(62)。彼女自身も「しらいわよしこ」名義のソロや、次男の次郎さん(31)とのコンビでマイクの前に立つスタンダップコメディアンでもある。
スタンダップコメディとは、マイク1本を手に、ユーモアや風刺の利いた時事ネタなどで観客を楽しませる話芸。欧米を中心に根強い人気だが、最近は日本でも頻繁にライブが催されるなど、注目のエンタメのジャンルだ。
「次郎、準備はいいかな?」
「(困った感じで)アー」
「はいはい、あと5分ね。相方の次郎は、本番直前までネタのチェックのようです。といっても息子はIQ18で、語彙も10個程度ですから、彼のネタ帳は私たちには判読不能な線ばかりですが……」
「(少し語気を強く)ママ」
「ごめんごめん、余計なことを言っちゃったわね」
本番前の短いやりとりからもわかるが、次郎さんには重度の知的障害があり、彼の発する「アー」「ママ」といった短い言葉を、白岩さんが“通訳”するかたちでライブは進行していくのだ。
「そろそろ準備も整ったようですね。では、読み書きはできないのに実はおしゃべり。
「カバ!」
「カバですって! あなた、たった10しかない語彙のなかから、このタイミングで母親の私をカバとたとえるのはスゴイよ。うん、今日は1周年で絶好調みたいだね」
リビングに立てられたマイクの前での、母子の絶妙な間合いのやり取りに会場は爆笑のウズ。トレードマークのタオルを首に巻いた愛嬌たっぷりの次郎さんも、ますます調子を上げていくのがわかる。
「次郎のタオル、猛暑のためというよりは、ヨダレを拭くためなんです。このタオルは何十年も変わりませんが、最近、私たちの関係に変化が。昔は、歩きださない息子と手をつないで散歩するのが夢でしたが、今は60代の私が30代の次郎に手を引かれてます」
15人ほどの観客は、遠くは関西、近くはご近所の自治会長さんなど、日本中からファンが駆けつける。出演者も、風刺漫画家やクリスタルボウル奏者など実に幅広い。前月のライブでは、なんとルワンダで義足支援を続けるゲストがアフリカから駆けつけ登場したが、その人脈の広さを支えているのが、白岩さんの波瀾万丈の人生だ。
「アフリカからのご夫婦は、35年前に私が現地で長女を産んだとき以来の友人。
障害者の母で、シングルマザーで、九州の田舎育ちで、介護職で、貧乏で、おまけにアフリカやネパールでの子育て体験もあって。自分で言うのもおこがましいですが、私って、しゃべりのネタの宝庫なんです!」
主婦スタンダップコメディアンの白岩さんに、自身の人生の悲喜こもごもを語ってもらった――。
「私は1963年、ですから昭和38年8月24日、大分県中津市に生まれ、男尊女卑の考えが色濃く残る田舎町の、安月給の教師の家で育ちました。
父は、戦時中には特攻隊を目指しましたが、終戦を境に大人が態度を一変させるのを見て、『二度と生徒を戦場に送らない』という平和と自由主義の教育に邁進しました。母は、古い家の制度にしばられた良妻賢母。
この両極端な両親を持つ私が、優等生に育つわけがありません(笑)。高校を出ると、書く人を目指し、一人上京して4畳半風呂なしアパートで暮らしながら、ジャナ専に通い始めます」
東京都豊島区にあった日本ジャーナリスト専門学校、通称ジャナ専は多くの作家やマスコミ人を輩出した後、’10年に閉校。
「ジャナ専は、まともに卒業すると、社会に“ひよった”と見なされる校風でしたから、私も卒業はせずに、いま話題の除籍……、あっ、学歴詐称はしてません(笑)。その後も就職はせずに、フリーランスのライター業をしてました」
稼いではバックパッカーでアジアを一人旅するなか、インドで出会ったのが、のちに夫となる大阪出身のミュージシャン。26歳で結婚、27歳で長女の花子さんを産む、出産した場所が、前出のとおりアフリカだった。
「人類発祥の地で産みたかったとか、管理されないお産をしたかったとか、いくつか理屈はあるんですが、すべて後付け。真相は妊娠がわかった瞬間に『アフリカで産みたい』と直感して、ケニアの首都ナイロビへ。日本だと何かと暮らしづらい妊婦ですが、ナイロビでは、下町のママたちが『赤ちゃんのぶんもたっぷり食べなきゃダメよ』と食事を差し入れてくれたり、総額100米ドルで産める産院を探してきてくれたり。
スワヒリ語? もちろんできません。
観光ビザでしたから、花子の首が据わったころに帰国して、東京都の武蔵小金井で暮らし始めました」
2年後、長男の太郎さんを都内で出産。平穏に暮らしていたが、その1年後、再び妊娠がわかったとき、初めて夫婦の間に気持ちの行き違いが生ずる。
「ちょっと考えさせて……」
「私が3人目の子供の妊娠を夫に告げたとき、夫婦の思いが同じでないことに気づかされました。たとえ貧しくても、家族5人で力合わせて頑張っていこうと考えていた私には思いがけないことで傷つきました。夫にしたら、経済的な不安もあったのかもしれませんが。その後も、互いの家族に対する考えは一致することなく、次郎の出産直前に離婚しました。
次郎は、’94年6月15日に都内の病院で産まれました。早産でしたが体重は2千800gほどもあり安心していたところ、生後1週間のうちに急激に体重が減り、みるみるガリガリになって、そのうち心臓も止まりかけて機械につながれ、『命の保証はできません』と主治医から告げられるんです。
しかし、混乱のなか、最後には『生きていてくれさえすれば、もう何があってもいい』と、障害のある子を持つ母親としての根っこの部分ができたように思います。
このままだと美談かもしれません。
逃げたと言われればそのとおりですが、環境を変え心中を思いとどまるには、そうするしかなかった。エベレストを背景にオムツを干しながら、徐々に自分の心身が回復していくのがわかりました」
8カ月をネパールで過ごし帰国すると、すぐに長女と長男を迎えに行き、実家のある大分県で、母子4人の暮らしが始まった。
「次郎の成長は、その後もすべての面で遅かったです。お医者さんからは『発達遅滞』と言われていました。筋肉も弱く、ようやく3歳でつかまり立ち。言葉もほとんどなくて、ずっと『アーアー』くらい。やがて重度の知的障害と判明しますが、小学校は姉兄と同じ過疎地の少人数の公立校へ。
小4で初めて覚えた言葉が、なぜか『ブタ』。その後、『ママ』『アカ』『バチ(バス)』など、いまだに語彙は10程度です。
進学のたびに、社会や行政の冷たさに直面。具体的には校長先生が口にした『まだオムツしてるんですよね』など招かれざる客といった対応で、健常者が社会から障害者を排除していくという構図です。あるとき、ふさぎこむ私を見て長女の花子が言いました」
「お母ちゃん、何を悩んでるの。大人が次郎ちゃんの将来を決めるんじゃないよ。次郎ちゃんが、なりたい自分になるんだよ」
「思わずハッとして。それで、小6で次郎が教室で周囲についていけなくなるのを見て、特別支援学校に移る決心ができました」
その後、次郎さんは中・高等部を経て、社会生活に備えられるよう専攻科へ。専攻科を終えた次郎さんはそのまま学校に残り、売店でのパン販売などのバイトで月に約1万円の工賃を得られるようになっていた。しかし、コロナ禍になって、学校閉鎖のあおりを受けて、バイトが打ち切りに。現在は、市内の障害者福祉サービス事業所が運営する食堂で週3日のバイトをしている。
白岩さんがスタンダップコメディと出合ったのはコロナ禍のこと。公的支援も軒並みストップし、ぼうぜんとしていたころ、ネットを見ていたら、スタンダップコメディで“笑えない世界を笑おうとしている人たち”に衝撃を受けた。それからスタンダップコメディアンとして活動を開始。
「1つはお客さんにストレス発散していただくこと、もう1つは次郎のための舞台を作りたかった。息子は楽しいことが大好きですから。あの子だって、好奇の目で見られるより、笑顔で接してもらえるほうがうれしい。そんな当たり前のことを知ってほしいのです」
母子の夢は、2人でスタンダップコメディアンとして全国ツアーに出ること。白岩さんは今日もネタ作りに励んでいる――。
(取材・文:堀ノ内雅一)
【後編】「笑えない世界を笑おう」――障害のある息子とスタンダップコメディに挑む62歳女性が世間に知ってほしい“当たり前のこと”へ続く