岡山県岡山市から車で走ること1時間強、人口2万5千人ほどの新見市にたどり着く。濃い緑の山々に囲まれた市の中心エリアには約3千人が暮らすというが、昼過ぎなのに人通りは少ない。

市民の10人に4人は65歳以上と高齢化が進むこの場所に、創業97年の「安達太陽堂薬局」がある。

広さ110坪ほどの安達太陽堂薬局は、化粧品、薬、日用雑貨を販売する。外観は、どこの地方にもありそうな、昔ながらの店構え。道すがら大型ドラッグストアの看板があっただけに、この店に日本一のカリスマ化粧品販売員がいるとは、にわかには信じられない。

「しゃんしゃんと来るんよ!」

店に足を踏み入れると、店内に元気な声が響いていた。

安達太陽堂薬局(以下、安達太陽堂)の専務を務める、長谷川桂子さん(72)。1998年から12年連続で、カネボウの化粧品ブランド『トワニー』の製品売り上げ日本一に輝き、2010年には殿堂入りを果たした。今でも全国トップクラスの売り上げを誇る安達太陽堂の中心となり、一人娘の綾さん(42)とともに店を切り盛りする。

そんな桂子さんが岡山弁で“ちょくちょく来て”肌のケアをしないといけない、と客を鼓舞していたところだった。柔らかい笑みを浮かべながらも、

「洗顔後はすぐに乾燥するから、この化粧液は“お風呂から上がったらパンツをはく前につける”といつも言っているでしょ」

目の前に座る客にけしかける。店のバックヤードにあるエステルームでの施術を終え、桂子さんに叱咤激励をされていた常連客の、越畑加都枝さん(66)がこう語る。

「今日はファンデーションの間違ったつけ方を注意されました。

まだまだ日差しが強いから気を緩めずに、と。確かに厳しいことも言われますが、私はここに来ると元気が出るし、肌だけでなく心も磨かれていると感じます。人生や職場の愚痴を聞いてもらうこともありましたが、いつも『あんたならできる、がんばりぃ!』と背中を押されてきました。化粧品はドラッグストアで買って好き勝手に使うという友達もいますが、私は桂子さんから買わないと、なんだか効いている気がしません」

20年以上安達太陽堂に通う越畑さんが、店を出ながら、

「今度友達と温泉旅行に行くと話せば、いつも使っている化粧品のサンプルを朝用と夜用に分けて旅行の日数分渡してくれるんです。しかも、友達の分まで。『サンプルは旅先では便利だけど、いつも使っているのでないと安心できないでしょ』って。それも商売のうちなのはわかっています、友達も客になってしまうんだから。でも、女性がワクワクすることをわかっているんです」

そう言って、車に乗り込む。桂子さんがこう見送る。

「せっかくキレイになったんだから、真っすぐ家に帰らないで、町中をひと回りして、みんなに見せてから帰りなさいよ!」

そんな2人の様子を見ながら、安達太陽堂で薬剤師として働く、娘の綾さんが首をかしげる。

「越畑さんは、車で1時間近くもかけていらっしゃるのに、お手入れをサボッたり、化粧品の使い方を間違えたりすると、厳しいトーンで母から叱られる。愛情があるとはいえ、私なら、あれだけ怒られるなら行かないかも(笑)」

専業主婦から化粧品販売員に転身し、日本一にまで上り詰めた桂子さんは、いかにして美の伝道師になったのだろうか──。

■「育児に疲れ切ったママ友を、キレイにしてあげたい」が“お節介”の原点

1952年、岡山県の新見市で長谷川桂子さんは誕生。

薬剤師だった祖父が1928年に創業した安達太陽堂を両親が継ぎ、父の謙吉さんが薬剤師として、母の伴江さんが化粧品販売員として働いていた。

桂子さんが当時を振り返る。

「かつては大勢の人でにぎわった新見銀座商店街の薬局でした。母が嫁いでからは化粧品を取り扱うようになり、薬粧店に。自宅は店舗とつながっていたけど、お勤め帰りの女性が来てくれる夕方は多忙。母は本当に“仕事人間”で、一緒に食卓を囲んだ記憶がありません。そんな母を見ていて、私は“絶対こうなりたくない”と思ってね。子どもが学校から帰ってくるとエプロン姿で待っている専業主婦に、憧れを持っていました」

祖父、父と薬剤師。安達太陽堂が“薬局”を名乗り続けるには3代目にならなければいけなかったが、桂子さんは薬剤師のレールに乗ることを拒む。中学卒業と同時に故郷を離れ、京都女子大附属の京都女子高等学校に寄宿。さらに高校卒業後は上京し、弁護士を目指して日本大学法学部に進学した。

「大学4年間はフォークソングクラブに所属。オーディションを受けたり学園祭で歌ったりすることがとにかく楽しかった。大学卒業後も『店を継いで』という両親の声を耳に入れずに、東京の法律事務所で事務をしていましたね。5歳年下の妹は親の願いどおり薬学部に進み、薬剤師にはなったものの、さっさと都内の外資系製薬会社に勤めてしまいました」

東京で働いていたとき、夫の俊二さん(78)と出会い、30歳で結婚。翌年には綾さんを出産した。念願の専業主婦になった桂子さんだが、実は料理が苦手。産後はこんなふうに乗り切っていた。

「娘を出産したのは“ブランド産院御三家”と知られる愛育病院。同じ時期に入院していた大手商社マンや経営者の奥さまたち4人と仲よくなったのよ。産後は、その仲間の家に娘と一緒に出かけて、持ってきた食材で食事を作ってもらったりして。でも、みんな子どもと2人っきりで家に閉じこもっているからノーメークで疲れきった顔をしている。ご飯の代わりと言ってはなんだけど、『スッピンなんてあんまりじゃない』と、母が送ってくれた化粧品で、自己流で化粧をしてあげてたわね」

美をおろそかにしている人を放っておけない──まるで今の桂子さんとつながっているようだ。

その4人の仲間は今でも桂子さんの顧客。化粧水や乳液をわざわざ新見市から送り届けている。

「みんなお金持ちの奥さんなんだから東京で買えばいいじゃないと言うんだけど、デパートだと気後れして『もうちょっとお安いのはないの?』と言えないみたいで。私には好き勝手言うのに、東京では百貨店の販売員にもスキを見せたくないのかもしれませんね」

そんな都会のある種の息苦しさは、桂子さんが新見市に帰郷したひとつの理由でもある。

「子どもが1歳になると、周りは幼稚園の予備校探しを始めたんです。このとき、『ああ、都会の子育てにはついていけない』と思い、窮屈さを感じていました。そして同じころ、店を切り盛りしていた母が乳がんになったという連絡があり、駆けつけたら、『店をつぶしたくない』とずっと言っていて……。幸いなことに夫は、新見市の隣の鳥取県米子市出身で次男。実業家として歩んでいた夫を説得して、家族3人で新見に帰り、店を継ぐことに心を決めたんです」

憧れだった専業主婦をやめ、1歳半の娘を抱えて、化粧品販売員に。桂子さん32歳のときだった。

■「あなたじゃなくてお母さんを呼んで」悔しくて、化粧品の知識をたたき込んだ

1985年4月、販売員として店に立った桂子さんだが、当初は思うように化粧品が売れなかった。

「販売員なんて、お客さんが欲しいといった商品を差し出せばいいと高をくくっていました。

でも、ファンデーションの色を選んで差しあげないといけないし、自分と肌質も違うお客さんにどの商品を薦めればよいかわからない。忘れもしないのは、汗だくになって働いていたら『あなたが使っている以外のファンデーションをちょうだい』とお客さんに言われたこと。買いたくない、と思わせるくらい、化粧がぐちゃぐちゃだったんでしょうね」

帰郷して改めて感じたのは、母・伴江さんのすごさだ。

「母は、本当にキレイな人でした。ふわりとした雰囲気をまとい、まだメークが浸透していなかった時代に“この化粧品を使ったらこうなります”というお手本のような存在で、『あなたのつけている口紅をいただくわ』と言われていた。もう、売りに売っていました。それに加えて顧客の名前は全員覚えていて、1年ぶりに来るお客さんでも、お店に入った瞬間に、『ゆうこさん、よく来たわね』と。名前で呼ばれたら、大切に扱われているとお客さんも感じるし、安心して化粧品も任せられますよね」

乳がんを患っていた伴江さんだが、桂子さんが帰郷したとたん体調もよくなり、母娘で店頭に立つことになる。化粧品の販売は桂子さんに任せて、母は漢方薬の販売に専念していたというが──。

「『あなたじゃなくて、お母さんを呼んでくれない』と何度も言われましたよ。それからですね、勉強を始めたのは。綾の世話は母や祖母に任せて、化粧品の知識を一から勉強し、化粧品メーカーが行う勉強会にはハシゴで出席。

母が作っていた顧客台帳を見て、お客さんの名前、どんな商品を使っているかを暗記。なにしろお客さんの多くは『いつもの化粧水ちょうだい』とやってくる。その商品をパッと出せなかったらもう来てくれませんからね」

その努力のかいあってか、販売員になって9年となる1994年、新見銀座商店街の本店と少し離れた場所に支店(現在の店舗)を展開すると、その店は桂子さんに任せられた。認定エステティシャンや毛髪診断士の資格を取得していた桂子さんは、ヘアスタイリング剤で日本一の売り上げを達成し、表彰されるほどの実力となっていた。

「2位、3位は横浜と京都の百貨店でした。まさかこんな田舎の店が1位をとれるなんて、もうびっくりで。来店するお客さんの数では、デパートやドラッグストアなんかには太刀打ちできません。でも、やり方を工夫すれば、確実に商品が売れると確信したんです」

大手チェーンのドラッグストアが新見市にも進出してきたなか、桂子さんは母とは違う接客法を見いだしていく。特に力を入れたのが客のリピート率の向上だ。

「接客したお客さんには、毎回、必ず手書きのはがきを送ります。専業主婦だったとき、娘の洋服を買ったお店からお礼状が届いたことがあって。『あのセーターを着た姿を見せに来てください』という一文がすごくうれしくて、何度も通ったことがありました。私もお礼状には『お買い上げいただいた口紅、きっと似合っているでしょうね』『ご旅行いかがでしたか』などの文を添えますね」

このはがきは、今でもなんと年間2万通を送っている。はがきやそれに添えられるシールも、梅雨なら紫陽花、夏なら金魚など、季節感は欠かさない。不思議なもので、お客さんの顔を思い浮かべてはがきを書いていると、「その方は何が好きで、欲しいのだろう?」と、些細なことでももっと知りたくなった。

「気持ちは恋に似ています。女心をつかむには、女である私が、女性に好かれることも必要ですよね。身なりやメークは派手でもいけないけど、汚かったら絶対にだめ。私はかつての母のような、『桂子さんのようになりたい』という憧れの存在ではなく、女が女を口説くつもりで売っていこうと」

今、彼女が座るカウンターの下には、約3千人分の顧客台帳が並んでいる。母の「お客さんの名前を呼ぶ」接客を受け継ぎ、その3千人の顔と名前はほぼ一致する。そのために、表紙の裏には、お客さんの顔写真。台帳には購入履歴はもちろん、好みの色や趣味、家族構成、ペットの名前などが記されている。取材中も、毎日店に届く地元紙を見ながら、

「今度全国大会に行く野球チームのメンバーが載ってるわね。あら、これは●●さんのお孫さんだ。とっておかなくちゃ」

と、これまた顧客台帳にスクラップしていた。地元紙のチェックは毎朝の日課だという。さらに、売るだけでは終わらない接客方法も生まれていった。

「たとえば、うちでは40gで12万円する高級エイジングケアクリームも売っていますけれども。奮発してそれを購入してくださった方の多くは、本来3カ月で使い切るものを、チビチビ3年以上も使い続けている。『あんた、そんなんじゃ効くものも効かないよ』って。でも、どれだけ使い方を伝えても、高いクリームは『もったいない』と思って使えない。

そこで、『クリームは店でお預かりします。代わりに2週間に1回、うちに来てください』と伝えて、エステに来ていただくようにしました。キープしたクリームをより効果の出る方法でつけて差しあげるようにしています。結果が出ないものを買っていただいては、申し訳ない。何よりお客さんの肌も心も満たされませんからね」

売って終わりではなく、お客さんに効果を感じてもらうための美容指導やカウンセリング、時に叱咤激励を徹底したのだ。

さらに、“奥さまごころ”を知り尽くしたこんなエピソードも。

「以前、『トワニー』の商品開発に携わり、意見を言う機会がありました。その際『化粧品の瓶に値段を書くのはやめてほしい』と進言したんですよ。夫のお金で買っている奥さま方はやっぱり見られたくない気持ちがある。もし数万円の値段が瓶についていたら、旦那さんもびっくりするでしょ」

そうした桂子さんの接客術を学ぼうと、次第に全国の化粧品店や商工会議所から講演依頼が届くようになった。ふだんの接客に加えて、多いときは年に10回出張。2012年に著書『牛に化粧品を売る』を出版すると、ますます依頼は舞い込み、一躍カリスマ販売員となる――。

(取材・文:山内太)

【後編】〈人がキレイになる過程が何よりの喜び〉72歳カリスマ美容部員が41年間の接客で感じた“美容のパワー”へ続く

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