「98歳になるまで親父の愚痴とか、弱音みたいなことは一切聞いたことなかったですね。亡くなる前の1年間は相当つらい状態だったと思うんですけども。

会いに行って“大丈夫?”って言ったら、いつも“大丈夫だよ”と言うんで。本当に強い親父だと思いました」

9月23日に放送された『徹子の部屋』(テレビ朝日系)で、阿部寛(61)は今年7月に実父を看取ったと初めて明かした。実父は有名企業に勤める世界最大級のダンプカーをつくるエンジニアだった。阿部を知る制作関係者は言う。

「お父さんはとても真面目で義理と人情を大切にしていた方。自分のことは二の次で家族をいちばんに気遣い、ほとんど休むことなく仕事をバリバリ頑張ってきた父の姿は、阿部さんにとって理想の男性像であり人間像でした。骨董品好きもお父さんの影響なのだそう。’07年に自らの結婚を発表した当時、『なりたい父親像はやはり私の父』と話していました」

就職活動時、会社員か夢を追うか悩んでいた阿部の芸能界入りは実父が背中を押していた。彼の自伝『アベちゃんの悲劇』(’98年)ではこう綴られていた。

《ついに結論を出した。「寛のやりたいようにやりなさい。子供は3人いるから、ひとりくらい外れた人生を歩いていっても面白いんじゃないかな」という父親のひと言が決めてだった》

前出の制作関係者は続ける。

「お父さんは阿部さんの最大のファンでした。出演作もすべて見て舞台挨拶にはできる限り足を運んでいたと聞いています」

阿部の父は今から47年ほど前、崖から落ちて両足を骨折し半年間入院生活を送った時期があった。’22年2月、阿部は『スッキリ』(日本テレビ系)に出演時、「家族との忘れられない思い出」として当時の父を連日見舞った母の逸話を挙げて、こう語っていた。

「親父とおふくろが仲よくしている印象はあの時代はないから。ある日おふくろに“こんなにお母さん毎日(病院)行って親父のこと愛してるの?”って言ったら『愛してる』って言ったんですよ。まさかおふくろからそんな言葉が出てくるとは思わなかった。こういう深い言葉が『愛してる』ってことなのかなと思って、すごく重みを感じたのを覚えています」

■「親父との2時間の散歩は映画のよう」

そんな母は阿部が35歳のころ亡くなった。阿部は3年半前のインタビューでこうも語っていた。

《おふくろが亡くなったときも親父が一生懸命看病していて。最期を迎えるときに、おふくろに感謝の言葉を伝えたんですよ。その姿に子どもには見せない2人の歴史というか愛情を感じちゃってね。

それからというもの、芝居でもなまじ簡単に『愛している』と言えなくなりました。

愛なんてものはそんな簡単に口にできるものじゃないんだと、親父とおふくろから教えてもらった気がします》(「ぴあ」’22年4月7日配信)

阿部家では『愛してる』の台詞は家族に向けてのもので、仕事では“封印”するようになったというのだ。先の『徹子の部屋』で、阿部は40代になって、実父と対話するようになったと語っている。

「40歳過ぎてから、親父といろんな話するようになって。昔の戦争時代の人ですから、そういうときの経験とか……。そこから親父とよくしゃべるようになったんですよ。それまでは家に帰ってきても何もしゃべらない親父でした」

実際に阿部の父に会ったことがある芸能関係者はこう語る。

「とても温厚で優しい方。身長は156センチでしたが、いわゆるソース顔で阿部さんに似ていました。かつて阿部さんが若かりしとき取材陣に追いかけられたことがありました。そのときお父さんが息子さんに変装して車に乗り、取材陣をまいたこともあったとか。

お父さんは孫たち(阿部の2人の娘)を溺愛していて、できる限り孫たちの成長を見届けたいと、主治医には“今から電動歯ブラシを使ったほうがいいか”などと相談していたとも聞きました」

阿部は育児でも“家族を大事にする実父”をお手本としていた。

「どんなに多忙でも、阿部さんはできる限り休日は娘たちと一緒に料理をするなど、家族の時間を欠かさないようにしているそう。

お父さんは“人生の道標”だったのでしょう」(前出・制作関係者)

晩年の父との散歩の時間が阿部には大事な時間だったという。

《親父が僕の家に来たときに散歩するんですが、すごくいい時間なんですよ。2時間くらい、ただただ歩くだけですけど。(略)でも、その2時間は、それこそ映画になるんじゃないかと思うほど充実している》(「クイック・ジャパンWeb」’22年9月11日配信)

「愛してる」の言葉を何よりも大事にしていた阿部の両親の愛情は彼の心にいまも映えていた。

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