「愛子さまは現在平熱に戻られましたが、のどの痛みや咳の症状が少し残っておられると……。“準備にあたった関係者や滋賀の人たちに申し訳ない”と、何度も残念そうにおっしゃったそうです」
宮内庁関係者がこう明かすように、愛子さまは9月末に発熱やのどの痛みを感じ、10月1日の検査で新型コロナウイルスに感染していたことが判明。
「開催中の国民スポーツ大会へのご臨席や、県内各地のご視察、県民との交流が予定されていました。このところご公務や日本赤十字社でのお仕事に、寝る間も惜しんで注力されてきましたから、お疲れもあったのかもしれません」(皇室担当記者)
観戦されるはずだったスポーツクライミング競技には、数多くの人々が応募していたという。競技会場が設けられている滋賀県竜王町の担当者に聞いた。
「今回は一般席500人、車いす席20人の定員に対して1396件、人数にして3164人、倍率は6倍ほどの応募がありました。竜王町民の応募者がかなり多かった印象です。“愛子さま効果”を実感した半面、ご訪問が叶わず、多くの町民が寂しく思ったでしょう」
いまや愛子さまの人気は天皇皇后両陛下に並ぶほどで、ご訪問先の“フィーバー”ぶりが盛んに報じられている。そんななか、9月30日に7年ぶりに開かれた皇室経済会議でのある決定が注目を集めているのだ。前出の宮内庁関係者は語る。
「今回の皇室経済会議の議題は、昨年11月に三笠宮妃百合子さまが薨去された後、空席だった三笠宮家の“当主”についてでした。
宮家の法的な定義はあいまいです。ただ品位を保持しながら、各宮家が私的に雇う職員の人件費や祭祀の費用などに充てる皇族費を支出する関係から、皇室経済法でご家族の立場に応じて金額が定められているのみです。
寬仁親王の薨去後に三笠宮家に合流された信子さま、娘の彬子さまと瑶子さまには長年の“確執”があり、百合子さま薨去後も、当主を決められない状況だったのです。会議を経て、信子さまが創設される『三笠宮寬仁親王妃家』の当主に、彬子さまが三笠宮家の当主となられることとなりました」
しかしこの決定が、女性皇族の将来にとって劇的な変化をもたらす可能性があるという。
「女性皇族が当主となるのは、当主を亡くした妃が継ぐというケースがほとんどです。未婚の彬子さまが継承するのは、江戸時代の桂宮淑子内親王以来163年ぶりのこととなります。
つまり、近現代で初めて未婚の女性皇族が宮家当主となった事実は、女性の割合が高い現在の皇室において、今後はさまざまな当主の形がありうることを意味します。現在も国会では、女性皇族が結婚後も皇室に残る方策について議論されており、影響は不可避でしょう」(前出・宮内庁関係者)
■女性天皇・女系天皇を否定できなくなる
具体的に、女性皇族のお立場にどのような影響がもたらされるのか。神道学者で皇室研究家の高森明勅さんはこう話す。
「独立の生計を営む皇族として、彬子女王殿下が宮家の当主となられることを皇室経済会議が認定したのは、女性皇族の地位が向上する端緒となりうると思います。
未婚の女性皇族を宮家の当主と認めた以上、結婚すると皇籍離脱するルールは見直す方向に進むはずだからです。そうすると、愛子内親王殿下や佳子内親王殿下が、ご結婚後も皇室に残っていただけます。
しかし、彬子殿下が当主として受け取られる皇族費の金額で注目されたように、内親王や女王が当主となっても、親王や王が当主となった場合の半額しか受け取れません。これは女性皇族が早く結婚して皇籍離脱することが前提となっているからです。
皇室の大半が女性となったにもかかわらず、女性皇族の恵まれているとは言いがたい現状……。そして、皇室典範が定める皇位継承は男系男子に限られている。皇室の存続は、悠仁さまのご双肩にかかっており、安定的な皇統の維持に関する国会の議論は着地する気配を見せていない。
近現代の皇室に詳しい静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんによれば、彬子さまが当主を継承したことは、こうした現状すら変えうる出来事だとし、こう続ける。
「皇族妃が、夫の死去後に宮家を継承する事例はあっても、信子さまのように新たな宮家を創設されたのは、明治時代に旧皇室典範が創設されてから初めてです。さらに、百合子さまの孫娘にあたる彬子さまが宮家を継がれたことは、女性が世襲する“実質的な女性宮家”の前例ができたともいえるのです。
女性が当主を世襲できるなら、女性天皇・女系天皇を否定する理由はありません。“天皇家と宮家は異なる”という論理で説得されるほど、国民は寛容ではないでしょう。信子さま、彬子さまがそれぞれ当主となった今回の実例を残しながら、これからも国会の議論が女性天皇・女系天皇を否定する流れとなってしまうのなら、国民の大多数は納得できないと思います」
彬子さまの当主継承によって、“女性天皇・女系天皇につながる”と、保守派の政治家たちが阻んできた女性宮家が事実上誕生した。国民の多くが望んでやまない“愛子天皇への扉”が開き、その未来への光明が差し始めた。