米国プロバスケットボールリーグ・NBA公認イラストレーターの肩書を持ち、野球やサッカーのほか、あらゆるプロスポーツから依頼が日々殺到する、アーティストの田村大さん(42)。先に行われた東京2025世界陸上では、アディダス社からの依頼で出場選手10人のイラストを描いた。
それだけでなく、HUBLOT、FENDI、ポルシェ、トヨタ、ナイキ、森永製菓……といったハイブランドや一流メーカーからのオファーもひっきりなしの売れっ子アーティストだ。
いまや、世界中のビッグネームから「描いてほしい」とオファーが届く田村さんだが、画家としてのスタートはカリカチュアという“誇張した似顔絵”だった。やがてプロのアーティストになると決意したとき、田村さんは自分にあるルールを課したという。
「描いた方がどんなに遠くにいても、可能な限りご本人に直接お会いして、原画を手渡しする──」
そのこだわりは有名になった今でもけっしてブレることはない。
「最近は何でもデジタルの時代ですが、僕の作品は手描き。だからこそ、手渡しすることで、依頼してくださった方への感謝の気持ちをきちんと伝えることにこだわりたいんです」
先日は、美輪明宏さんが90歳の節目に出版した新刊『令和を生きぬく貴方たちへ 未来世代が輝くミワちゃま語り20』(光文社)で、表紙の「美輪明宏14歳の肖像画」と挿絵を担当した田村さん。美輪さんにも、その“セレモニー”の機会をお願いした。
美輪さんの自宅に向かったのは8月初旬。屋外を少し歩いただけで額から汗が噴き出してくるような猛暑の日だった。照りつける日差しの下、田村さんは美輪さんから、さらに熱い抱擁を受けることになる。美輪さんは手渡された肖像画をじっくりと眺めから、にっこりとほほ笑んだ。
「こんなに美しく、正確に描いてもらったのは初めてです。
田村さんは、美を極めた麗人からの賛辞に心震えた。いままでやってきたことは、間違っていなかったのだと──。
多くの人を魅了する躍動感にあふれた作品を描くアーティストは、どのようなキャリアをたどってきたのか。“若き天才画家”のルーツをたどった。
田村さんの実家を訪問すると、優しい笑顔のご両親、田村元信さん(72)・幸代さん(72)夫妻が出迎えてくれた。高校の同級生、同じバレーボール部で初恋の相手同士。いまも仲むつまじい2人の次男として、’83年9月10日に田村大さんは生まれた。元信さんが話す。
「大は小学校入学前から兄と同じ少年野球チームに入りました。肩が強くて、最初のポジションはセンター。打撃も器用で、5年生になるとピッチャーで4番を務めていました。
高学年になるとバスケットボールもするようになって、小学校の卒業式では『夢はNBA選手になること』とスピーチしていましたね。
幸代さんが見せてくれたのは、小学生だった田村さんが書いた漫画ノートだ。
「『ドラゴンボール』が大好きでした。漫画の模写から、次第にオリジナルの連載を描き始めて『今週号だよ!』と見せてくれたりして。そのころはもちろん落書きレベルなんですけど」
当時の田村家では“壁の落書き”は禁止されていなかった。物心がついたころから、田村さんはクレヨンで壁画を描いていたのだという。
「保育園のころ『好きに描いていいよ』と言ったら、一心不乱に描きだしたんです。絵を描くことは好きな子でしたが、本職にしてしまうとは思ってもいませんでした」(幸代さん)
バスケざんまいの学生生活も終盤になると、部の仲間たちはユニホームからリクルートスーツに着替えはじめる。だが、田村さんは就職することをためらっていた。
「ふと思ったんです。このまま、やりたくない仕事の合間に落書きをするような人生はいやだと」
ボールをペンに持ち替え、絵のトレーニングを一から始めると決意、専門学校桑沢デザイン研究所への進学を目指すことに。
幸代さんが言う。
「あの子はいつも事後報告。常に『それ以上聞かないで』というオーラを出しているんです。ただ、ずっと『好きなことをやりなさい』と言い聞かせていましたから、そのときも反対はしませんでした」
急いで美術教室に通い試験対策をしたが、準備が間に合うはずもなく、結果は補欠枠の44番。だが、ギリギリで繰り上げ合格をはたす。
「入学したら、隣の席の人が落書きをしていたんです。同じ夢を抱く人に囲まれた、念願の環境を得られたことを喜びました」
とはいえ、美術に関しては同級生と比べて周回遅れの状態。巻き返しを図るにあたって役立ったのは、バスケ漬けの生活で培った精神力。「いままでは準備が足りなかっただけ、二度と負けない」と、授業で出される大量の課題を全力でこなしていった。
「1年生の前期で首席が取れました。2年生からは広告を専攻することに。イラストの世界で食べていくには、まず広告ビジネスを学ぶべきと考えたからです」
卒業後は縁あってバスケットボール用品を扱うメーカーにデザイナーとして就職。
「社長が学生時代の僕のことを覚えていてくれたんです。元バスケ選手でデザイナーなんて珍しい、うちに来いと。会社では朝から晩までプロダクトデザイン、グラフィックやロゴ制作に携わっていました」
入社2年目のころ、会社がスポンサーを務めるバスケチームがbjリーグ(当時)で優勝する。記念に選手の似顔絵を描いたTシャツを制作すると、たちまち社内で大評判に。
「このとき、僕がいちばん描きたいのはやっぱり『人』なのだと、改めて気づかされました」
その信念を追求するため、すぐに新たな行動を起こす。ネット検索で見つけた似顔絵教室に、週末の時間を使って通い始めた。
「また一からのスタートでしたね。教室の最終競技会では2位でした。優勝者はすでに多くの賞を持っている有名な方でしたが、それがとても悔しくて」
誰にも負けない実力を養うには、週末だけでは修練が足りない。技術をもっと徹底的に磨かなくてはダメだ──。そう痛感した田村さんは、安定した企業デザイナーの職を1年8カ月で辞めてしまう。
“石の上にも三年”という言葉を引き合いに「最近の若者はすぐ辞める」と批判するベテラン世代もいるかもしれないが、彼の決意はそれとは大きく異なる。
「専門学校に通っていたころ、時間を作っては趣味でバスケを続けていたんですが、練習中にアキレス腱を切ってしまって。そこで気づいたんです。中途半端こそ、何より時間のムダになっていると」
絵に専念すべきだという天からのお告げだと考え、夢のために大好きなバスケも封印した。そして、人を描くことを仕事にするため、似顔絵制作会社に転職。7年間で3万人もの似顔絵をがむしゃらに描き続けた。目指す頂は「似顔絵界の世界チャンピオン」。
その後、会社の代表として世界大会へ挑戦する。初出場の2013年(米フロリダ州)は10位、2015年(米オハイオ州サンダスキー)は4位に入った。
そして迎えた2016年の「ISCAカリカチュア世界大会」(米アリゾナ州フェニックス)。田村さんは直前に思いついたピカソのキュビズムを彷彿とさせる大胆なタッチで臨んだ。
「もちろんうれしかったのですが、帰国して日常に戻ると、『以前と何も変わっていないじゃないか』という心境になったんです。また現状から飛び出したくなってしまって(笑)」
2017年に退職し、2018年に独立、フリーランスの道を選んだ。
「似顔絵だけでは物足りなくなってもいたんです。次のステップに進むために、過去を断ち切らなければと、似顔絵世界一のトロフィーそのものを捨てちゃいました」
輝かしい栄誉まで、部屋の片隅のゴミ箱に潔くシュートしてしまったのだった。
フリーになってほどなく、ある日田村さんが描いたイラストが、当時NBAの独占配信権を持っていた楽天株式会社の三木谷浩史社長の目にとまったことをきっかけに、NBA公認イラストレーターの肩書をもつことに。そこから新しいタッチを確立させていった。
NBAのお墨付きを得てからは、トップアスリートや世界的アーティストからも「描いてほしい」というオファーが直接届くように。
また、創業100年を誇る京都の書画専門店に見出され、日本画のエッセンスとの融合も実現。新境地を切り開き、2025年春には、東京都港区にある増上寺で、個人の画家としては初となる個展を開催した。
大さんの母・幸代さんが言う。
「増上寺の展覧会は素晴らしいものでした。いつかニューヨークで個展を開きたいという構想もあるそうなので、そちらもぜひ見に行きたいですね。ただ夫の体調が心配で……」
父・元信さんは、2年前に難病「特発性間質性肺炎」の診断を受けていた。
「一時は常に酸素ボンベが必要なほどでした。いまはだいぶ落ち着いていますが、呼吸に不安があるため、気圧の関係で飛行機には乗れないんです。でも大の海外の展覧会は絶対に見たい……。この際、思い切って豪華客船で行こうか」
幸代さんに語り掛ける元信さん。世界中を魅了する田村大の絵は、最高の親孝行でもあるのだ。
増上寺で展示された絵が挿絵として掲載されている美輪明宏さんの新『令和を生きぬく貴方たちへ』。その最後の章「夢」には、こう書かれている。
《どうしてもそんな夢を描けないという人は、焦る必要はありません。ゆっくりあなたの夢を探してください。夢を見るのに年齢は関係ありませんから。
そして、その間に誰かの夢をかなえるお手伝いをすればいいのです。「あの人の夢をかなえたい!」あなたがそう考えることで、実はあなた自身の夢も実現に近づいているのです》
本当の夢を見つけるために、一見遠回りをしたようにも思える田村さんだが、その経験は、すべてがいまに通じている。田村さんは、美輪さんに対面した日のことを興奮気味に話す。
「ご自宅に飾られた数々の美術作品を前に“美意識”について貴重なお話をいただきました。美しさとは何か? 何より大事なのは、その基準を他人ではなく自分で決めるべきだ、ということも」
別れ際、美輪さんは田村さんにハグをして、玄関まで見送ってくれた。そのとき、とても力強いハミングが聞こえてきたという。
「明るい曲調で、なんだか心が温かくなるようなメロディーでした。そして美輪さんはきらきら星のポーズのように手をヒラヒラさせると、にっこり笑顔で僕に『一緒に!』と、同じポーズを促してくださったんです」
才能あふれるアーティストの“輝く未来”を思い描いた美輪さんが、エールを送ってくれたのだ。田村さんが「元気をいただきました」とお礼を言うと、
「それが私の役目だから──。近いうちにまた会いましょうね」
田村大の作品が放つ輝きが、今日も世界中のどこかで、見る人の心を動かしている。
【後編】世陸金メダリストも絶賛のアーティスト・田村大 飛躍かなえた“カリスマ経営者”への「無謀なアプローチ」へ続く