「働いて働いて働いて働いて働いてまいります」
12月1日、「『現代用語の基礎知識』選 T&D保険グループ新語・流行語大賞」の年間大賞に自身の言葉が選ばれた高市早苗首相(64・以下敬称略)。青いジャケット姿に、胸に“赤いバラ”をつけて授賞式に登場した。
日本初の女性リーダーとなって2カ月がたとうとしているが、高い支持率を維持し、彼女の愛用品が流行する“サナ活”なる現象も起きている──。高市の地元の後援会長で奈良トヨタ社長の菊池攻さんがこう語る。
「正直ここまで大化けするとは思っていませんでした。30年以上前に、国会議員になりたいと、支援者に連れてこられたのが最初の出会い。普通のサラリーマン家庭で育った彼女は、すごく意欲はありましたが、それこそ、やる気だけしかない新人候補でした」
1993年の衆議院選挙で当選し、奈良県では初となる女性国会議員となった高市。ここに初当選した当日夜に両親とともに祝杯を挙げている一葉の写真がある。満面の笑みを浮かべる高市は当時32歳。父・大休さんを挟んで座る母・和子さんのはにかんだような笑顔が印象的だ。
「赤いバラのようであれ」
これは和子さんが幼いころから高市に伝えてきた言葉だ。男性と互角にやろうと肩ひじを張らずに、つねに女性らしい華やかさを忘れないこと。でも、自分が正しいと思ったことは毅然と、キリッとした棘があるように、と──。菊池さんがこう続ける。
「彼女が育ったのは、女性は短大を出て地元の銀行や役所に勤めて、いいお婿さんを見つけて家族を作るのがいちばん幸せな生き方と言われた時代。保守的で男性中心の価値観が強い奈良で、総理に上り詰めた女性が誕生した意味はとても大きい。ここまでの道程には多くの壁があったはず。それを乗り越えるときに、和子さんの影響も少なからずあったことでしょう」
女性の生き方が型にはめられた時代と風土で育ち、男性社会である政治の世界で総理に上り詰めた高市。そんな反骨の首相はどのようにして生まれたのだろうか。
■不良生徒とも分け隔てなく交流した
観光客でにぎわう古都・奈良市から近鉄電車に揺られること1時間弱で橿原神宮前駅につく。紅葉も終わり、初代天皇・神武天皇を祀る橿原神宮を訪れる人もまばらで駅周辺は静かで落ち着いていた。
1961年3月7日、高市早苗は設備機械メーカーの営業職だった大休さんと、奈良県警に勤務していた和子さんの長女として奈良市で生まれた。彼女が6歳のときに弟が生まれ、小3のときに橿原市の南に位置するこの地に転居してきた。早苗少女が通った橿原市立畝傍南小学校の同級生が語る。
「早苗が住んでいたのは“日生住宅”と呼ばれる丘陵地を造成した地区の一軒家でした。早苗が転校してきたときには2クラスでしたが、周囲のベッドタウン化が進み、卒業するときには4クラスに。
合唱クラブに所属しメゾソプラノを担当していた早苗少女は、橿原市立畝傍中学校に進むと、活発な姿を見せるようになった。中学の同級生が語る。
「当時の畝傍中学校は、校内暴力が多く、窓ガラスはいつも割れているほど荒れていた。早苗が入学する前の年には、生徒が放火して校舎が全焼した事件も。同級生には不良がいて、女のコたちは“ようしゃべらんわ”と避けていましたが、早苗だけは誰とでも分け隔てなく付き合っていて、怖い人たちとも普通に話していました。その後、不良だったコたちが早苗の選挙を手伝っていて、彼女も“あんなに悪かったのが、エエ職人になってはるわ”と喜んでいました」
また別の同級生はこう語る。
「中3のときに高市さんが生徒会長に立候補したことを覚えています。保守的といわれる奈良でも、橿原はその色が濃くて、当時は、生徒会長は男子と決まっていました。会長選には落ちたけど生徒会活動をがんばっていましたね」
早苗少女の人間形成には両親の影響力が大きい。幼いころには「教育勅語」を繰り返し教えられた。とくに和子さんからは、「人さまに迷惑をかけない」「職業に貴賤はない」「陰で他人の悪口を言わない」と厳しく躾けられた。
《育児や祖父の看病で大変な時期でも、重大事件が発生した時には夜遅くまで働き、深夜に家事を完璧に片付け、早朝から家族の弁当を作ってくれた。職場には一番乗りで出勤し、同僚に気づかれることもなく全員の机を拭いて花を活ける。それが「女性職業人」としての母の拘りでありプライドだった。弟が生まれる臨月に容疑者を追いかけて大きなお腹で全力疾走していたことを母の同僚から聞き、父が呆然としていた姿を覚えている》(『文藝春秋』2018年12月号)
■彼氏を下宿に入れて母に殴られたことも
そんな母のもと、県内の進学校、奈良県立畝傍高校に進学。ところが高校生となった高市は、中学のころから好きだったロックにのめり込む。また16歳からはバイクにも夢中になった。高市へのインタビューをもとに『高市早苗 愛国とロック』(飛鳥新社)を出版した作家の大下英治さんが語る。
「学校にはいつも遅刻しがちで、禁止されていたバイクを使って通学。スカートの下にジャージをはいてまたがり、学校の裏手にとめて、金網をよじ登って登校するのが毎朝のスタイルでした。楽器店にたむろしていた学外の友達とバンドを組んだり、ハンバーガー店やドーナツ店などでアルバイトざんまいだったり。
高1のときには大学生と交際。
高校の同級生もこう語る。
「高校は一応進学校でしたが、進路指導の先生が女子に勧めるのは短大か、4年制大学でも教育学部か家政学部。経済なんか勉強したら頭が固くなって嫁入りで苦労するといわれていました。早苗さんは、そんな風潮に複雑な思いがあったのでしょう。それは成績でも一目瞭然。彼女の学内順位は見事なまでに100番くらい上がったり下がったりしていましたね。
この時期は親に叱られて勉強したのか、ここはバンド活動で忙しかったのかと、その時々の葛藤が成績に表れているようでした。ただ、高3のときの担任が理解ある先生で、型を破りたい彼女の背中を押して、政治経済の方向に向かわせた。その先生が10年ぐらい前に亡くなったときは、総務大臣だった早苗さんが葬儀に駆けつけていました」
1979年に高校卒業。神戸大学経営学部に進んだ高市だが、自由奔放な行動は止まらなかった。
「早苗ちゃんは神戸から高速道路をバイクを飛ばして自宅に帰ってきていたみたいで、和子さんは心配どころか『警察の同僚に娘がスピード違反したら捕まえて、と言っているのよ』と話していました」
そのころの高市は、ヘヴィメタルが好きで、ドラマーとして4つのバンドをかけ持ち。真剣にプロになることを考えていた。音楽だけではない。恋にも奔放だった。
「実家を離れて住んだ下宿に彼氏を連れ込んだことが母親にバレたことがあり『殴られるわ、蹴られるわ、朝まで説教されるわで大変だった』と本人が話していました。
そんな高市さんの大きな反抗が、国家公務員上級試験をパスしていたにもかかわらず、松下政経塾に行ったこと。和子さんは安定した職について平凡でも堅実な人と結婚してくれたらいいと思っていたから猛反対。しかし父親が、夢があっていいじゃないかと、後押ししたのです」(前出・大下さん)
(取材:山内太、小野建史/文:山内太)
【後編】「早苗は日本を牽引する首相になる」娘を褒めなかった母は陰で…高市首相の半生を徹底取材へ続く

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