7日(日本時間)に開幕したミラノ・コルティナ五輪。スキージャンプのレジェンド葛西紀明の出場は、惜しくもかなわなかった。
■幼いころ「大きな家を建ててあげる」と約束した母は不慮の火事で急逝
スキージャンプを始めたのは、9歳、小学3年生の冬だった。きっかけはたわいもないことだが、続ける理由ははっきりしていた。
「母の笑顔が見たい、それだけでしたね」
「超貧乏な家だった」という葛西家。体が弱く働いていなかった父の分まで、母の幸子さんは、朝から晩まで働きづめだった。泣き言も弱音も口にせず、家計を支え、息子の競技人生を支え続けた。ある日、台所で後片付けをしている母に、幼い葛西選手が話しかけたという。
「大きくなったらオリンピック選手になって、大きな家を建ててあげる。お母さんが寝たきりになったら、僕が抱いてあげるからね」
幸子さんは、こぼれそうになる涙を隠しながら、ただこう答えた。
「アッキーの夢は大きいんだね」
高校を卒業するころには、すでにW杯を転戦していた。日本にいるのは年に数カ月。母とは手紙でつながっていた。
「スランプのときや気持ちが弱っているときに、必ず手紙をくれた。僕が喜ぶと知っていたんだと思います」
1994年から1995年、左鎖骨を2度骨折する大けがを負う。恐怖と不安に押しつぶされそうになっていたときにも、母から手紙が届いた。
─たとえどんなことがあったとしても、あんたは強い人間だから、負けるようなことはないと信じています─
以来、五輪や世界選手権に出場するたび、その手紙をお守りとしてスーツケースに忍ばせてきた。
だが1996年6月、自宅の火事により、母は全身大やけどを負った。喉の奥までやけどし、気管支に穴を開けて呼吸をする状態。
「見舞いに行っても、『頑張れよ』と声をかけるしかなくて。母も、小さい声で『元気かい?』って、そのくらいの会話しかできませんでした」
11カ月におよぶ治療の末、母は48歳の若さで亡くなった。長野五輪の前年だった。
「日本でやるオリンピックは、たぶん一度きり。長野で金メダルを取るところを見せてあげたかった。なんでこのタイミングなんだって、悔しくてたまらなかったですね」
母の死後、病室の荷物を整理していると、小さなノートが見つかった。力の入らない手で書かれた、かすれた文字。
─紀明の試合が見たい
─絶対にお前は世界一になれる
─今、この時を頑張れ
─どん底から這い上がってくるのを楽しみに待っている
「正直、全部は読めなかったです。悲しすぎて」
ノートは今も、自宅の耐火金庫にしまわれている。
「どんな事態でも前向きに考えるのは母譲りですね。かなり救われてると思います」
葛西紀明が飛び続ける理由は、年齢への挑戦でも、記録への執念でもない。
「ジャンプを始めたときから、ずっと同じです。お母さんの笑顔が見たくて飛んでましたから」
その笑顔をもう目にすることはできない。しかし、母の手紙を胸に、何があってもどん底から這い上がる。その約束を今も果たし続けている。
■「お兄ちゃん、頑張って」。金メダルは難病に苦しむ妹との約束だった
妹・久美子さんの病。それは、葛西紀明の競技人生に、新たな意味を与えた。
「お兄ちゃん、頑張って」
妹のその一言が、勝つ理由になった。1993年、リレハンメル五輪の前年。久美子さんは再生不良性貧血と診断され、医師からは余命5年と告げられる。妹の久美子さんは当時高校1年生。一方の葛西選手は待望のW杯初優勝を果たし、2度目の五輪出場を決めていた。若手有望株の1人から、「世界で勝てるジャンパー」へと評価を押し上げた時期でもあった。五輪を前に、久美子さんにこう約束したという。
「金メダルをすりおろして、久美子に飲ませてやるんだ」
冗談とも本気ともつかない言葉だったが、葛西選手のなかでは、はっきりとした誓いだった。
「妹のために、絶対金メダルを取る。
結果、ラージヒル団体で銀メダルを獲得。自身初の五輪メダルだった。日本スキージャンプ界のレジェンドとしての幕開けであると同時に、日本ジャンプ界が再び世界と戦えることを示した大会でもあった。
久美子さんは5歳年下。幼いころは、姉よりも妹と遊ぶ時間のほうが長かったという。
「山や川で遊んで、家の裏にあるゲレンデでは、夜遅くまでスキーを滑っていました。ジャンプもやったような……でも、転んでた気がします(笑)」
病気がわかってからは、無菌室での生活が続いた。遠征中は、いつ何が起きてもおかしくないという不安が常につきまとった。
「気持ちが競技どころじゃなくなるときも、正直ありましたね」
それでも飛び続けた。飛ぶことで、妹を勇気づけられると信じていたからだ。
「いちばん喜んでくれたのは、オリンピックでメダルを取ったとき。リレハンメルとソチですね」
ソチでは、個人で銀メダルを獲得する。
母に「家を建てる」という約束は果たせなかったが、その代わりに、母と妹のために大きな、大きな墓を建てた。
「見えですね(笑)。負けず嫌いなんで。両隣のお墓には負けたくない」
宮古島合宿で目にして以来、「これを建てたい」と思い続けていた沖縄風の家のように大きな墓。
■支えてくれる妻、守るべき子どもたちが金メダル以上の価値を教えてくれた
大切な存在を失っても、葛西選手は飛び続けた。その背中には、新しい家族の存在があった。妻・怜奈さん。遠征続きの生活を理解し、静かに支えてくれる伴走者だ。2014年、ソチオリンピック。銀メダル獲得直後、真っ先に国際電話をかけた相手がいる。交際していた怜奈さんだった。
「おまえしかいない。結婚しよう!」
結婚報告のブログには、葛西選手らしい率直な言葉が並んだ。
《40歳を超えてようやく結婚する事が出来ました。今後は二人三脚で頑張って行きます》
料理上手な怜奈さんは、過酷な体調管理を日常の食卓から支え、海外で結果が出ないときには、「元気になるメール」を送った。変顔の写真に、「のりさん、頑張って!」の一言を添えて。やがて、子どもたちが生まれる。現在は9歳、5歳になる娘と息子。父親になったことで、飛ぶ意味はさらに変化した。
「変な成績だと、子どもたちの期待に応えられない。試合に行くときは、いつも『優勝してきてね!』って言われるんで」
父親になった葛西選手は、子どもたちに競技のことを多く語らない。「父ちゃん、すごいんだぞ」と誇ることもしない。それでも最近は、学校で「お父さんはスキージャンプの葛西選手でしょ?」と声をかけられ、娘は少しずつ父の立場を理解し始めているという。
家で過ごす時間は限られているが、公園に行き、虫を捕り、自転車の乗り方を教える。テニスボールやバスケットボールで遊び、一輪車の練習にも付き合う。
「子どもの面倒を見るのも、僕はスポーツ派ですね」
娘は運動神経抜群で、息子はできるまで粘るタイプ。自分と妻、両方の血を感じながら、父親としての時間を重ねている。家庭での話題の中心は、いつも子どもたちのことだ。食事制限の厳しいシーズン中でも、子どもたちがおいしそうに食べる姿を前に、野菜スープをすする。それを苦に思うことはない。
「我慢強いんで(笑)」
実は大の米好き。土鍋で炊いたご飯を後輩たちに振る舞うのも、家族を持ってからの葛西選手の日常だ。
「気にせず頑張ってきて」
怜奈さんは、そう言って送り出す。その距離感が、長く戦い続けるアスリートにとって、何よりの支えだった。最近は、ジャンプのまねをするようになった息子に、「ジャンプはダメだからね」と言い聞かせるという。なぜかと聞くと、こう返ってきた。
「もっと人気者になれるスポーツがある。テニスやゴルフだったら、生涯スポーツなので、一緒にできるかなって」
そこには、一人の親としての顔があった。新しい家族は、葛西選手に「次の夢」をくれた。メダルの色でも、出場回数でもない。飛び続ける父親の背中を、いつか子どもたちが思い出してくれること。その未来へ向かって、今日もマイホームを後にする。
(取材:作道恭子/文:服部広子)
【後編】五輪逃した葛西紀明が50歳をすぎて感じていた変化「目のピントが合わない」へ続く
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