7日(日本時間)に開幕したミラノ・コルティナ五輪。スキージャンプのレジェンド葛西紀明の出場は、惜しくもかなわなかった。

初めてW杯に出たのは16歳。ジャンプが「V字」になる前の時代だ。五輪には8度も出場し、ギネス世界記録も多数記録した。それでも葛西は飛び続ける。葛西紀明をスタート台へと押し上げる理由とは?

■幼いころ「大きな家を建ててあげる」と約束した母は不慮の火事で急逝

スキージャンプを始めたのは、9歳、小学3年生の冬だった。きっかけはたわいもないことだが、続ける理由ははっきりしていた。

「母の笑顔が見たい、それだけでしたね」

「超貧乏な家だった」という葛西家。体が弱く働いていなかった父の分まで、母の幸子さんは、朝から晩まで働きづめだった。泣き言も弱音も口にせず、家計を支え、息子の競技人生を支え続けた。ある日、台所で後片付けをしている母に、幼い葛西選手が話しかけたという。

「大きくなったらオリンピック選手になって、大きな家を建ててあげる。お母さんが寝たきりになったら、僕が抱いてあげるからね」

幸子さんは、こぼれそうになる涙を隠しながら、ただこう答えた。

「アッキーの夢は大きいんだね」

高校を卒業するころには、すでにW杯を転戦していた。日本にいるのは年に数カ月。母とは手紙でつながっていた。

「スランプのときや気持ちが弱っているときに、必ず手紙をくれた。僕が喜ぶと知っていたんだと思います」

1994年から1995年、左鎖骨を2度骨折する大けがを負う。恐怖と不安に押しつぶされそうになっていたときにも、母から手紙が届いた。

─たとえどんなことがあったとしても、あんたは強い人間だから、負けるようなことはないと信じています─

以来、五輪や世界選手権に出場するたび、その手紙をお守りとしてスーツケースに忍ばせてきた。

だが1996年6月、自宅の火事により、母は全身大やけどを負った。喉の奥までやけどし、気管支に穴を開けて呼吸をする状態。

「見舞いに行っても、『頑張れよ』と声をかけるしかなくて。母も、小さい声で『元気かい?』って、そのくらいの会話しかできませんでした」

11カ月におよぶ治療の末、母は48歳の若さで亡くなった。長野五輪の前年だった。

「日本でやるオリンピックは、たぶん一度きり。長野で金メダルを取るところを見せてあげたかった。なんでこのタイミングなんだって、悔しくてたまらなかったですね」

母の死後、病室の荷物を整理していると、小さなノートが見つかった。力の入らない手で書かれた、かすれた文字。

─紀明の試合が見たい
─絶対にお前は世界一になれる
─今、この時を頑張れ
─どん底から這い上がってくるのを楽しみに待っている

「正直、全部は読めなかったです。悲しすぎて」

ノートは今も、自宅の耐火金庫にしまわれている。

「どんな事態でも前向きに考えるのは母譲りですね。かなり救われてると思います」

葛西紀明が飛び続ける理由は、年齢への挑戦でも、記録への執念でもない。

「ジャンプを始めたときから、ずっと同じです。お母さんの笑顔が見たくて飛んでましたから」

その笑顔をもう目にすることはできない。しかし、母の手紙を胸に、何があってもどん底から這い上がる。その約束を今も果たし続けている。

■「お兄ちゃん、頑張って」。金メダルは難病に苦しむ妹との約束だった

妹・久美子さんの病。それは、葛西紀明の競技人生に、新たな意味を与えた。

「お兄ちゃん、頑張って」

妹のその一言が、勝つ理由になった。1993年、リレハンメル五輪の前年。久美子さんは再生不良性貧血と診断され、医師からは余命5年と告げられる。妹の久美子さんは当時高校1年生。一方の葛西選手は待望のW杯初優勝を果たし、2度目の五輪出場を決めていた。若手有望株の1人から、「世界で勝てるジャンパー」へと評価を押し上げた時期でもあった。五輪を前に、久美子さんにこう約束したという。

「金メダルをすりおろして、久美子に飲ませてやるんだ」

冗談とも本気ともつかない言葉だったが、葛西選手のなかでは、はっきりとした誓いだった。

「妹のために、絶対金メダルを取る。

それだけでした」

結果、ラージヒル団体で銀メダルを獲得。自身初の五輪メダルだった。日本スキージャンプ界のレジェンドとしての幕開けであると同時に、日本ジャンプ界が再び世界と戦えることを示した大会でもあった。

久美子さんは5歳年下。幼いころは、姉よりも妹と遊ぶ時間のほうが長かったという。

「山や川で遊んで、家の裏にあるゲレンデでは、夜遅くまでスキーを滑っていました。ジャンプもやったような……でも、転んでた気がします(笑)」

病気がわかってからは、無菌室での生活が続いた。遠征中は、いつ何が起きてもおかしくないという不安が常につきまとった。

「気持ちが競技どころじゃなくなるときも、正直ありましたね」

それでも飛び続けた。飛ぶことで、妹を勇気づけられると信じていたからだ。

「いちばん喜んでくれたのは、オリンピックでメダルを取ったとき。リレハンメルとソチですね」

ソチでは、個人で銀メダルを獲得する。

41歳、7度目の五輪。20代で妹の病を知ってから、およそ20年。その時間のすべてを背負って飛んだジャンプでもあった。久美子さんは2016年、母と同じ墓に入った。38歳だった。欧州遠征中だった葛西選手は、喪章をつけて競技に出場した。自己最長にならぶ大ジャンプを見せる。「最高のジャンプを妹に届けたい」という思いで戦い抜いた。

母に「家を建てる」という約束は果たせなかったが、その代わりに、母と妹のために大きな、大きな墓を建てた。

「見えですね(笑)。負けず嫌いなんで。両隣のお墓には負けたくない」

宮古島合宿で目にして以来、「これを建てたい」と思い続けていた沖縄風の家のように大きな墓。

故郷・北海道の下川町では一目でわかるほどの存在感だという。それは、家族への感謝であり、かつて交わした約束のかたちでもある。母のために飛び、妹のために勝つ。葛西紀明のジャンプ人生は、いつも「誰かのため」に支えられてきた。

■支えてくれる妻、守るべき子どもたちが金メダル以上の価値を教えてくれた

大切な存在を失っても、葛西選手は飛び続けた。その背中には、新しい家族の存在があった。妻・怜奈さん。遠征続きの生活を理解し、静かに支えてくれる伴走者だ。2014年、ソチオリンピック。銀メダル獲得直後、真っ先に国際電話をかけた相手がいる。交際していた怜奈さんだった。

「おまえしかいない。結婚しよう!」

結婚報告のブログには、葛西選手らしい率直な言葉が並んだ。

《40歳を超えてようやく結婚する事が出来ました。今後は二人三脚で頑張って行きます》

料理上手な怜奈さんは、過酷な体調管理を日常の食卓から支え、海外で結果が出ないときには、「元気になるメール」を送った。変顔の写真に、「のりさん、頑張って!」の一言を添えて。やがて、子どもたちが生まれる。現在は9歳、5歳になる娘と息子。父親になったことで、飛ぶ意味はさらに変化した。

「変な成績だと、子どもたちの期待に応えられない。試合に行くときは、いつも『優勝してきてね!』って言われるんで」

父親になった葛西選手は、子どもたちに競技のことを多く語らない。「父ちゃん、すごいんだぞ」と誇ることもしない。それでも最近は、学校で「お父さんはスキージャンプの葛西選手でしょ?」と声をかけられ、娘は少しずつ父の立場を理解し始めているという。

家で過ごす時間は限られているが、公園に行き、虫を捕り、自転車の乗り方を教える。テニスボールやバスケットボールで遊び、一輪車の練習にも付き合う。

「子どもの面倒を見るのも、僕はスポーツ派ですね」

娘は運動神経抜群で、息子はできるまで粘るタイプ。自分と妻、両方の血を感じながら、父親としての時間を重ねている。家庭での話題の中心は、いつも子どもたちのことだ。食事制限の厳しいシーズン中でも、子どもたちがおいしそうに食べる姿を前に、野菜スープをすする。それを苦に思うことはない。

「我慢強いんで(笑)」

実は大の米好き。土鍋で炊いたご飯を後輩たちに振る舞うのも、家族を持ってからの葛西選手の日常だ。

「気にせず頑張ってきて」

怜奈さんは、そう言って送り出す。その距離感が、長く戦い続けるアスリートにとって、何よりの支えだった。最近は、ジャンプのまねをするようになった息子に、「ジャンプはダメだからね」と言い聞かせるという。なぜかと聞くと、こう返ってきた。

「もっと人気者になれるスポーツがある。テニスやゴルフだったら、生涯スポーツなので、一緒にできるかなって」

そこには、一人の親としての顔があった。新しい家族は、葛西選手に「次の夢」をくれた。メダルの色でも、出場回数でもない。飛び続ける父親の背中を、いつか子どもたちが思い出してくれること。その未来へ向かって、今日もマイホームを後にする。

(取材:作道恭子/文:服部広子)

【後編】五輪逃した葛西紀明が50歳をすぎて感じていた変化「目のピントが合わない」へ続く

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