3月29日放送の『オールスター感謝祭』(TBS)での江頭2:50の“暴走”が波紋を広げています。

 いつもの通り番組に乱入すると、他の出演者を相手に大暴れ。
アンミカに「乳もませろ!」と絡(から)むと、永野芽郁に「俺の女になれ!」と言い放ち、上半身裸で追いかけ回したのです。

 恐れをなした永野芽郁が泣き出すと、スタジオの空気が一変。司会の今田耕司をはじめ、スタッフ総動員で江頭に身動きをさせないよう捕獲。島崎和歌子も台本で江頭の顔を隠し、存在そのものをなくす徹底ぶりでしたが、それでも江頭は舌を出して舐め回すようなジェスチャーで抵抗するという一幕でした。

 これがネット上で賛否両論の大激論を巻き起こしており、TVerからは当該シーンが全てカット。これを受け、江頭は自身のYouTubeチャンネルで「永野芽郁ちゃん傷ついてたらごめんなさい」と謝罪する動画を公開。また、TBS『オールスター感謝祭』は、公式X(旧Twitter)で謝罪コメントを発表しましたが、騒動が収まる気配はありません。

賛否両派とも制作サイドの危機管理の甘さ指摘

 放送直後からネット上では議論が真っ二つにわかれています。

 多いのは擁護派。これが江頭の芸風であり、彼は期待された仕事をしたまでだという声です。そして永野芽郁も、プロの俳優として、“エガちゃんに追われる若い女性”という役割を十分に演じてみせたのだから、とやかく言うほどのものではないとする見方です。

 一方、あの永野芽郁の恐れ方は演技ではない。あれはれっきとしたセクハラ、パワハラ案件だと指摘する声もあります。
いくらバラエティ番組の演出とはいえ、親娘ほども年の離れた男性がものすごい勢いで迫ってきたら恐怖を覚えて泣き出すのも無理はないという意見です。

 そのうえで、どちらの意見にも共通しているのは、制作サイドの配慮や準備が不足していたのではないか、ということです。“江頭を生放送に出せばそういう危険性があることぐらい十分に予期しておくべきだった”と、安易に永野芽郁と絡ませる危機管理の甘さを指摘する声が多く見られました。

現在のバラエティ番組のアイデアの貧困

 筆者は、このシーンに、現在のテレビが袋小路に入っていることが如実にあらわれていると感じました。“まだそんなことやってんの?”というのが、率直な感想です。

 まず、江頭(キモい中高年=弱者男性)に永野芽郁(若くてきれいな女性)が襲いかかるという安直な構図で、ユーモアもペーソスもない、劣情に頼った笑いしか生み出せないアイデアの枯渇ですね。少なくとも、日本のバラエティは、この発想が30年ほど生き延びてしまっている。

 筆者は布袋寅泰の「CIRCUS」という曲のMVをパロディでやった江頭に、当時死ぬほど笑いました。江頭2:50のアクションには、余人に代えがたいものがある。その意味で、彼を否定するものではありません。

 けれども、唯一無二のキャラクターが多少質が悪くても笑いを確保してくれるために、江頭の安易な濫用(らんよう)に頼ってしまう。一度限りの劇薬のはずが、いつの間にか常備薬になってしまった。そこに、バラエティ番組の貧困があるように感じるのですね。


山場を無理にでも作る構造上の問題

江頭2:50暴走にネット真っ二つ!問題が“TVバラエティの限...の画像はこちら >>
 こうして、劇薬を服用することが常態化してしまった背景には、たえず刺激を与え続けなければ飽きられてしまうという制作サイドの恐れがあるのではないでしょうか。視聴者の側もまた、事件と笑いの連続によって感覚が麻痺しているからです。

 今回の江頭のケース以外でも、たとえば、『月曜から夜ふかし』(日本テレビ)における中国人女性の発言捏造(ねつぞう)や、SNS上での視聴者による誹謗中傷がヒートアップしたことで配信が中止されたと言われている恋愛リアリティーショー『恋ステ』(ABEMA)などの問題があります。

 これらは、すべて撮れ高や山場を無理にでも作らなければならないという、構造上の問題を抱えている点で共通しています。ふつうにしていれば何もないところに、人為的に事件やら笑いを設定しなければ、商品として流通させられない、ということですね。

粗品「おもんなさすぎました」変化する現在

 改めて『オールスター感謝祭』に戻ると、アンミカへの「乳もませろ!」も、永野芽郁への「俺の女になれ!」も、ふつうにしていれば何もないところに無理やり起こされたイベント、ということになります。

 これが、10年ぐらい前まではベタとして受け入れられてきたし、そういうものとして見過ごされてきたのです。

 ところが、2025年になり、状況は変わってきました。まだ少数派とはいえ、疑問を表明する人たちが出てきた。霜降り明星の粗品は、きっぱりと「おもんなすぎました」と断罪しています。

 こうした意見に対しては、“これがテレビの閉塞感の原因”とか“コンプラを気にしすぎて笑えなくなっている”とかの批判も見受けられます。

 しかし、いつもいつも笑えなければいけないものでしょうか? 心の底から衝撃的な場面ばかりを求めているのでしょうか? かまびすしい見世物の飽食状態にある時代で、つまらないものもそのままにしておく繊細さがクローズアップされてもいい頃です。

 今回、永野芽郁への江頭2:50の暴走に批判が起きたことは、そうした潜在意識もあらわしているのだと感じました。


<文/石黒隆之>

【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4
編集部おすすめ