定年まであと1年の吉野千明(小泉今日子)と、定年後も再任用制度で市役所勤めを続ける長倉和平(中井貴一)の恋は一向に進まない。
このドラマ、巷で言われていることだが、登場人物たちがほぼ実年齢で出演しているのが興味深い。シリーズ第3弾、11年ぶりとあって、俳優も視聴者も同じように年を重ねてきたため共感を呼ぶ。
千明と長倉家が一緒に食べるのが「朝食」なのがいい
長倉家4人兄妹(中井貴一、飯島直子、内田有紀、坂口憲二)と、隣家に住むテレビ局ドラマ制作部のプロデューサーである千明との関係を中心に、この疑似家族の温かさが目をひく。こんな関係があったら羨ましいという声が続出しているのが、今の時代を象徴しているような気がしてならない。今の時代、「血のつながりを重視する家族」という関係に、うんざりしている人たちが増えているのではないだろうか。家族よりは少し距離があって、お互いの存在を大事に思いながらも必要以上には踏み込まない。だが、何かあったら駆けつけられる距離に、信頼できる人がいるというのは稀有なことだ。
千明は毎朝、長倉家で朝食をとる。毎日、顔を合わせることで、「何かあった?」という言葉も出る。夕食でなくて、朝食というのがいい。夕食だと束縛感が強いからだ。この朝食場面では、毎回、千明と和平が丁々発止、やりあうのが「お約束」。
「老い」を受け止めながら、それでも前に進んでいく
このふたり、一応、「いつかは一緒に」という口約束をしているのだが、いまだに基本的に「ですます調」で話しているのもおもしろい。そこに馴れ合いではない他人感、互いの意志で今の生活を続けていることが透けて見える。脚本の妙だと思うが、オリジナル脚本を担当している岡田恵和氏もまたアラ還である。老いを実感するアラ還だが、それを受け止める気持ちと抗う気持ちが交錯する場面が多々、見える。和平も千明も、「あの頃の私だったらこうしてた。でも今だからこうしてしまった」とさまざまな場面で思う。それぞれの経験を披露しあいながら、あの頃だったら、もう少しうまく世渡りしていたけど、今だからこそ正直でありたいと言った和平、逆にあの頃だったら正直にぶちまけていたけど、今だから思わず黙ってしまったと言う千明。
気持ちだけが前に進んで体がついていかないと和平が嘆くシーンもある。それでも、この世代、「がんばっている自分」が好きなのだ。何があっても決して投げ出さず、粘り強く、自分の限界を超えていく快感が染みついている。「バブル世代」と揶揄(やゆ)されても、昭和ど真ん中世代はがんばり続けることでしか、自らの存在価値を見いだせない。そんな哀愁も、セリフのやりとりからにじみ出てくる。
円熟の中井貴一と小泉今日子が見せる、光と闇
実年齢を演じているからこそ、役者たちは光と闇を生き生きと見せつける。超絶明るいアイドルだったキョンキョンが、ふとしたときに見せるせつない表情。順調に役者としてのキャリアを歩いてきたように見える中井貴一の円熟した演技。それぞれ年月を積み重ねてきた賜(たまもの)だろう。中井貴一という役者の微妙な間のとり方は、この人がどれだけ演技について思考と体験を積んできたかを想像させる。父は二枚目スターだった佐田啓二。2歳半のときに父を亡くし、その後は母と姉(中井貴惠)と暮らしてきた。人前ですぐに赤面するたちで、俳優になる気などまったくなかったそうだ。ところがひょんなことからオーディションを受けることになり、役者の道へ。
根が堅実な性格なのだろう、役柄も実直なものが多かったが、実は三谷幸喜監督の作品などでは、そのコメディアンぶりが話題になっていた。実直な性格だからこそ醸し出せる深い「おかしみ」がこの人にはある。背中を追いかけたくても父がいなかった実生活、その父の死因が運転手の居眠り運転だった車の事故だと知ったときの、おそらくどこにもやり場のない怒りと哀しみ。
おそらく、アイドルだった小泉今日子にも、イメージからの脱却や「女優業」を確立させるまでの塗炭(とたん)の苦しみがあったはずだ。
「芸は人なり」である。そんなふたり、そして周りを囲む俳優たち(和平の弟妹たちもまた、とんでもなく個性豊かで愛おしい)のさまざまな思いがあいまって、このドラマは「とんでもない事件」が起こるわけではないのに、一瞬たりとも目が離せないものになっている。
<文/亀山早苗>
【亀山早苗】
フリーライター。著書に『くまモン力ー人を惹きつける愛と魅力の秘密』がある。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。Twitter:@viofatalevio