放送ラストには林田理沙アナウンサーが「ほいたらね」と締めるケースが定番だが、第80回では釜次が「ほいたらね」と読み上げるという粋な演出が炸裂。
最期が“わかる”という安堵感
これまでもいろいろな登場人物が“退場”していった『あんぱん』ではあるが、釜次の死には不思議と切なさは生まれなかった。その要因として、本作において釜次は数少ない“天寿を全うした”キャラだったことが挙げられる。
死は悲しい。それでも、最期がわかるだけでこれほどの安堵感があるのかと、釜次の死から感じた。
大切な人の死を「悲しい」と言えなかった
近しい人たちが悲しむ姿が描かれていたことも大きい。布団の中で旅立つ直前の釜次を朝田家の全員が囲み、悲しみを抱きながらも別れや感謝の言葉を伝えていた。一方、戦死はどうだろうか。当時、戦死は“名誉の死”と捉える必要があり、悲しみを見せようものなら非国民扱いを受けていた。
家族や恋人が亡くなることは耐え難い苦しみが伴う。ただ、その感情を誰からも否定されることなく、表出できることがどれだけ幸せなのだろうかとも思えた。言い換えれば、そんな当たり前な感情さえ無理やり蓋をさせようとする戦争の残酷さにゾッとせずにはいられなかった。
別れの気持ちを抱きやすい“死”の形
ちなみに、のぶの父親・結太郎(加瀬亮)、嵩の父親・清(二宮和也)、嵩の伯父・寛(竹野内豊)、のぶの夫・次郎(中島歩)などは病死している。いずれも若くして亡くなっているため、釜次とは違って寿命とは言えない。とはいえ、戦死とは異なり、親しい人に看取られながら逝っている。
戦死が遺族にもたらす後悔と罪悪感
なにより、病死であれば、どこか仕方なさがある。「医療技術がもう少し発達していれば」「体調管理に気を配っておけば」と思うこともあるかもしれない。戦争を引き起こした誰かがいる以上、「戦死は仕方のないこと」と割り切ることは難しい。戦争は急に始まることはない。戦争をしたい誰かの入念な“下準備”があって、初めて始まる。そのことを注意深く観察を続け、戦争の可能性を潰せなかったことへの後悔。
また、親しい人を兵隊にとられた時、引き止めることが許されないだけではなく、“勇敢な死”を望む言葉を告げなければいけない。言ってしまえば、死ぬことの背中を押さなければいけない。そのため、「あの時、無理にでも引き止めておけば……」「自分が“勇敢な死”を望んだから死んでしまったのでは?」といった後悔。いろいろな後悔や罪悪感が一生付きまとう。
釜じいの死が教えてくれたこと
当然、病死が「幸せなもの」と言うつもりはない。ただ、戦死と比較した際に、遺族が抱える精神的な苦痛には違いがあるのではないだろうか。
【望月悠木】
フリーライター。社会問題やエンタメ、グルメなど幅広い記事の執筆を手がける。今、知るべき情報を多くの人に届けるため、日々活動を続けている。X(旧Twitter):@mochizukiyuuki