美しいことは美しい。
いや、本作そのものを語るというより、作品タイトルが導く主演俳優・吉沢亮が過去に認定された「国宝級イケメン」という称号についてあえて考えてみたい。吉沢演じる主人公がオリジナル場面で浮かべる顔の白さ……。本作の価値はただそこだけにあるのだとするなら。
男性俳優の演技を独自視点で分析する“イケメン・サーチャー”こと、コラムニスト・加賀谷健が解説する。
接写していたくなるくらい美しい吉沢亮
公開7週目で興行収入68億円を突破する大ヒット記録を更新中の映画『国宝』は、SNSを中心に若者からシニア層まで幅広く口コミで話題が拡散されているという。吉沢亮と横浜流星が吹き替えをせずに演じた女形の美麗極まる艶姿をスクリーン上で目撃しようと連日連夜、観客が劇場に押し寄せるこの勢い。地方館のレイトショーでさえ満席近く、社会現象と言って差し支えないだろう。だからといってSNS上で流布される「美しい」というコメントを裏打ちするだけの特別な映画的魅力がはたして本作にあるのか……。筆者はその過剰なまでの「美しい」コメントと連動する作品への高評価をそろそろ冷静になって捉え直すべきだと思っている。
主演俳優が華麗に踊る「藤娘」や「鷺娘」など人気演目場面を含みながら、約3時間の作品尺で描く歌舞伎界のプリンス激動史は、実際のところ吉沢演じる花井東一郎の顔を捉えるクロースアップで押し通す以外、これといって特筆すべき芸(演出)の工夫は見あたらないからだ。
いやたしかに本作のカメラがアップ一辺倒でひたすら接写していたくなるくらい吉沢亮が熱を込める女形は美しい(花井半弥役の横浜流星も同様)。本作がとにかく吉沢の顔、顔、顔の映画だとすると、作品タイトルがその顔とうまく連動してはいるなとは素直に納得できる。
国宝級イケメン映画の最高峰
では何がどう連動しているのか? 吉沢亮の顔と国宝。こう並べてみて導かれる(安易な発想ながら)国宝級イケメンという視点。国宝級イケメンとは、ファッション雑誌『ViVi』が半期ごとに発表する「国宝級イケメンランキング」のこと。ご時世柄、外見偏重のイケメンというワードもコンプラ的に使用が自粛されることもあるのだが、でもイケメンという言葉自体が「イケてるメンズ」と「イケてる面」のダブルミーニングである以上は、言葉の定義的に人々の眼差しが顔にばかり注がれざるを得ない。
吉沢は国内イケメンに与えられる最高賞である同ランキング2018年下半期に1位に選出された。すでに殿堂入りまで果たしている国宝級イケメン中のイケメンである吉沢の顔のアップばかり抜かれる『国宝』は、いわば国宝級イケメン映画の最高峰みたいなものである(というか同作の価値はむしろそれがすべて?)。
「平成のアラン・ドロン」という称号

「平成のアラン・ドロン」という称号である。この称号を吉沢に与えたのは、『オオカミ少女と黒王子』(2016年)で共演した二階堂ふみだった。同作ジャパンプレミアでのトークで二階堂が「現場でもメガネの奥から輝きがぼろぼろこぼれてて、平成のアラン・ドロン」とその称号を授けるかたちで吉沢を絶賛したのである。
『国宝』は『オオカミ少女と黒王子』から約10年を経て公開されている。2018年に国宝級イケメン認定される前から、世界的美男俳優であるアラン・ドロンにちなんだ称号を授けられ、『国宝』の吉沢はそうした最高峰の称号にふさわしい存在として自らの芸を外面的にも内面的にも磨いたように見える。
実際、吉沢本人が『日曜日の初耳学』(TBS系、2025年6月1日放送回)で「外見に対する世間のイメージに抗いたい時期はありました」と発言していて、主演作を重ねる過程で国宝級イケメンである外見を純粋に芝居として内面化しようとしていることがわかる。
画面上で証明する令和の文芸映画

『ヴァイブレータ』は、寺島の演技に肉薄する廣木監督の演出と逆に演出に肉薄する寺島の生々しい存在感が画面上に叩き込まれた力作である。その寺島が『国宝』では、渡辺謙演じる二代目花井半二郎を支える梨園の妻役で出演している。本作でも寺島の演技が作品全体を支えるくらい肉薄しているのだが、本作の監督が俳優の演技に対して食い込むくらいの演出を逆に施しているかは留意すべきだろう。
『国宝』の吉沢亮はたしかに美しい。だとするなら、廣木監督がまだ20代前半だった吉沢から高純度の美麗成分をオーガニックに抽出した『オオカミ少女と黒王子』の吉沢亮はもっと美しい。二階堂演じる主人公に対して伏し目がちに告白の言葉を発する場面の艶姿はたしかに「平成のアラン・ドロン」に相応しいものだった。
「洗いあげられたようにこの映画ではまっしろだった」(『若者のすべて』このヴィスコンティ作品)とアラン・ドロンの魅力を評したのは映画評論家・淀川長治だったが、淀川のこの評言をなぞるような場面が『国宝』にあったことは少なからず本作の価値を高める強みである。
落ちぶれた三代目半二郎(吉沢)が屋上で一人孤独に踊る。
そうか、本作は、国宝級イケメン映画の最高峰にして「平成のアラン・ドロン」であることを画面上で証明する令和の文芸映画なのだと、それくらいに評価を定めておきたいと思うのだが、どうだろう?
<文/加賀谷健>
【加賀谷健】
コラムニスト/アジア映画配給・宣伝プロデューサー/クラシック音楽監修
俳優の演技を独自視点で分析する“イケメン・サーチャー”として「イケメン研究」をテーマにコラムを多数執筆。 CMや映画のクラシック音楽監修、 ドラマ脚本のプロットライター他、2025年からアジア映画配給と宣伝プロデュース。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業 X:@1895cu