子役として過ごしたあの頃、渡鬼シリーズ終了後の歩み、そして現在にいたるまで——当時は語れなかったことも含めて、宇野さんが“今だからこそ”綴るエッセイ連載です(以下、宇野さんの寄稿)。
「渡鬼」には10歳から12年間レギュラー出演
たった数メートル走ったことが、私の運命を大きく変えました。皆さま、ご機嫌よう、初めまして。宇野なおみと申します。元子役で、『渡る世間は鬼ばかり』という作品に10歳から12年間、レギュラー出演していました。
現在は主にライターとして歌舞伎のことを書いたり、声優さんや俳優さんにインタビューしたり、名探偵コナンのことを取材したりしています。加えて自分のYouTube運営、通訳・翻訳などが主な活動ですね。主なこと多いな。
さて、今回は「エッセイスト」として、連載を持たせていただくことになりました! 大変うれしくて小躍りしております。まずは皆さんが知ってくださっている、「渡鬼」出演のことからお話したいと思います。
ひょんなことから決まった「渡鬼」出演
どうやって出演が決まったの? とよく聞かれるんですが、そもそもは劇場の稽古場で数メートル走ったことが事の始まりです。私はお芝居をやってみたい!と小学1年生で劇団に入りました。ある時、舞台版『おしん』のおしん役のオーディションを受け、その帰り際。帰り支度をした私に、渡鬼のプロデューサーでもある石井ふく子先生から、「私のところに走って抱きついてみて」と指示されました。
実行した結果、どうやら石井先生が私に手ごたえを感じてくださったようです。おしん役に決まり、98年5月・9月と出演。9歳のことでした。それがきっかけで「加津」役の候補に上がり、決まったそうです。大規模なオーディションで何千人から選ばれた! とかではなかったんですよ。
しかも、当初、出番はシリーズ最後にほんのちょこっとの予定だったとか。結果、なぜか12年。出演しはじめたころ、『渡鬼』の視聴率は25%~29%ほど。国民的ドラマと言って差し支えない状況でした。
私は人生初のテレビ出演。

新たな仕事の広がりにワクワクはありましたが、本当に事の重大さが分かっていなかった。今だったら、当時の己の背中に定規を突っ込んで、襟を正しておきたい。天衣無縫も大概にせえよというありさまでした。
出演2話目で渡鬼の洗礼を受ける

初めてリハーサルと本読みに参加した時は泉ピン子さんや角野卓造さんたち、『おしん』で共演していた方もいらしたのに恥ずかしくて顔が上げられませんでした。初々しい。
なんとか終わった初本読み。その後、39話の台本を受け取りました。台本は1話ごとに色が違っていて、並べるとカラフルで楽しかったものです。
台本のはじめには「香盤表」という一覧表がありまして、自分の役が出演しているシーンに丸がついています。私の役、野々下加津ちゃん(現世で本名以上に呼ばれたであろう名)はどれくらい出ているのかしらと確認してみると、
〇〇〇〇〇〇〇〇……
伏字じゃありません。ほぼ全部に丸がついていたんです。
そして内容を確認してみれば、「加津」、めちゃくちゃ喋っている。セリフ、なっがい。嘘でしょ? 最初のシーンでは「すみません、こちらに野々下長太おりますか」くらいしか喋ってなかったじゃないの。
照れている場合じゃない。なりふり構っていられない、必死に食らいつかなきゃえらいことになる。登場2話目にして、小学生ながら理解しました。
リハーサルまでにセリフを全部入れる日々

たまに、時折、しょっちゅう、め~~ちゃ長いセリフのシーンが怒涛に続いていて、それを1日でまとめて収録する週なんて事態も起きるわけです。
ぺーペーの私の脳みそのキャパシティーなんて誰も気にしちゃくれません。お忙しい方は山ほどいらっしゃいましたし、ほぼ最年少の私。脳みそが若いんだから全員分のセリフ覚えて来てねくらいのノリだったような。
収録日が終わって、次のリハまで4日。私はほかの日に収録に行くことも割とあったので、実質3日程度で覚えなくてはいけなかった。無茶だと思いますよね。ぶっちゃけ無茶だったと思います。
でも、やっていたんです。無理! ですが……今回に限り! みたいな感じで12年。多分、「天才子役」などと畏れ多くも呼んでいただくようになったのは、そんなサイクルをひたすらやった結果だと思うんですけれども。
当時はそれが普通だと思っていましたし(暑い地域で生まれた人間はそこが暑いとは知らずに育つ)、スマホもタブレットもYouTubeもなかった時代、そんな呼び名がついたことも、お茶の間にお邪魔していることもあまり実感しておらず。基本、事態をわかってなさすぎる。
でも、町で声をかけていただいたり、取材を受けて自分が誌面に載ったりするのを見て、嬉しかったことは覚えています。
ただし、生活は相変わらずセリフ覚えて撮って、合間には小説読んで学校の勉強をして、ダンスや芝居のレッスン行っての繰り返し。はしゃぐには、あまりにも毎週「次の台本」が迫り来ていたという……。
運命の分岐点は誰もわからない
あの日あの時あの場所で、なんて歌詞もございますが、何かひとつ違えば、私の運命はまるで違っていたはず。今頃は岡山県倉敷市(出生地)で図書館司書とかやっていたかもしれません。他にどれくらい候補がいたのか分かりませんが、たまさか出演が決まって、なぜか橋田先生が「こいつにセリフいっぱい言わせちゃえ」と思った結果、シリーズをまたいで出演となり。
東京23区の端っこで、図書室に入り浸り、カードキャプターさくらのアニメを見て、りぼんコミックスを買うことが楽しみだった地味~~な小学生の生活はまあまあな変化を遂げました。
人の運命ってわからないものです。
あら、なんかさわりだけ話して終わっちゃいました。思い出はたくさんありますので、引き続きお話できたらと思います。引き続き、どうぞよろしくお願い申し上げます。
あらあらかしこ。
<文/宇野なおみ>