『春よ、来い』『オードリー』本人がモデルの朝ドラは多い

物語が終盤を迎えているNHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』。8月28日放送の第109話では、この作品の脚本家・中園ミホ氏(66)本人がモデルだという小学4年生の少女・中里佳保が登場しました。

SNSやニュースサイトのコメント欄では一部批判の声があるものの「このクセつよキャラをご本人が描いてるのが面白い」「中里佳保ちゃん、 メッチャいい味」「そういう実体験が有ればこその脚本」と、おおむね高評価なよう。


今までの朝ドラでは、“脚本家の登場”や“脚本家の実体験を投影したストーリー”は批判を浴びがちでした。筆者も賛否両論が上がる可能性を危惧していましたが、このような脚本家の登場に、あたたかい声が寄せられているのは珍しいことです。その違いはどこにあるのでしょうか。

『あんぱん』に脚本家が登場、裏方に自我は必要か? 意外と多い...の画像はこちら >>
執筆脚本家自身をモデルとした朝ドラといって思い出すのが、橋田壽賀子氏の自伝的小説をドラマ化した第52作『春よ、来い』です。この作品では、前年に橋田賞を受賞した女優・安田成美さんがヒロインとして起用されました。

その後、撮影途中で主演を降板するという、トラブルが発生しましたが、キャスティング発表当時は、自身を演じる役者に、すらっとして美しい安田さんをキャスティングするという「あつかましさ」に批判が一部で上がっていました。

また、脚本・大石静氏の半生がモデルという第63作『オードリー』では、大石氏の幼少期の経験である“実の両親や弟が暮らす隣に養母と自身が暮らしている”という設定が理解不能であると視聴者から共感を得られませんでした。

『半分、青い』や『虎に翼』にも批判的な意見が

『あんぱん』に脚本家が登場、裏方に自我は必要か? 意外と多い“本人モデル”の朝ドラ、賛否の違いはどこに
NHK連続テレビ小説「半分、青い。」オリジナル・サウンドトラック(SMJ)
北川悦吏子氏脚本の第98作『半分、青い。』も、モデルとは言わないまでも故郷が同じ岐阜県出身であり、左耳の聴力を失っている、など北川氏自身との共通点が随所に見られましたが、聴覚障がい者設定がうまく生かされていないという不満の感想が続出。

また、脚本家自身は登場していないものの、第110作『虎に翼』にも一部批判が。

日本初の女性弁護士の1人である三淵嘉子氏をモデルにした主人公でありながらも、本人のSNS発信やインタビューでの言動をからめ、「脚本家自身の主張や思想を押し付けるだけの展開になっている」という意見が上がりました。

つまり、作品の中に「脚本家の自我」が少しでも見えてくると、なぜか批判されがちです。多くの人が幅広く視聴する朝ドラは批判もさらにうけやすいのでしょう。


脚本家自身が主人公でも、批判されないパターン

ここで、朝ドラ以外も含め、他の脚本家自身をモデルにした作品や役柄を見てみましょう。

例えば、『北の国から』(フジテレビ系)などで知られる倉本聰氏は、『やすらぎの郷』(テレビ朝日系)などの作品で、自身をモデルにしたと思われる脚本家を主役にしています。

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「やすらぎの郷」DVD-BOX I(TCエンタテインメント)
映画『百円の恋』朝ドラ『ブギウギ』の足立紳氏は『こんばんは朝山家です』(ABC系)『それでも俺は、妻としたい』(テレビ大阪)などで自身や家族をモデルにしており、私小説風のテイストがある意味作風となっています。

作品の内容への評価はさておき、それらの作品で「脚本家自身の自己主張ガー」「自己顕示欲ガー」などという批判は目立ちません。これらの批判されない作品とされる作品との違いは、まず、美化しているように見えるか、否かです。

倉本氏、足立氏が描く自身をモデルにした役柄はどこか情けなく、人間的にどこか尊敬できない部分を露わに描いているのに対して、朝ドラに出た脚本家モデルの役は共感や同情を呼ぶ親しみやすいキャラクター。その先は、主人公が成功を掴むまでの道のりを描いています。

多くの人に注目される朝ドラだからこそ、作家は自身が投影された役柄を印象よく描きたいのは当然と言えるでしょう。

「鼻につく」感じが視聴者の反感を生む

ただ、一線級の役者・監督・制作など多くのスタッフの力を使って、神聖な朝ドラを個人の自己顕示欲を発散の場にしたと感じて反感を持つ視聴者もいるでしょう。

その「鼻につく」感じが批判の種になっているのかもしれません。

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(画像:「こんばんは、朝山家です。」テレビ朝日公式サイトより)
それに加え、事実は小説より奇なりというように、創作されたストーリーにポンと真実を入れ込むと、流れに沿っていなかったり、理解しがたい状況が作られることがあります。

北川氏の『半分、青い。』や大石氏の『オードリー』の設定がその例です。

『あんぱん』の脚本家登場があたたかく見守られた理由

本来なら、設定変更やカットすべきエピソードも、書くのは脚本家であり、事実という印籠があることによってストーリー上どんな違和感ある出来事でも取り込まざるを得なくなります。

そして視聴者が置き去りにされ、それによって生じるドラマ自体の批判の矛先として、脚本家が責められ、元凶として「自身をモデルにした」ことへの批判に繋がっていくのでしょう。


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連続テレビ小説「あんぱん」オリジナル・サウンドトラック Vol.1(ポニーキャニオン)
これらのことをふまえると、『あんぱん』の中里佳保登場が肯定的に受け取られた理由が見えてきます。

まず、佳保という登場人物が批判上等の憎らしい子供だったことがあげられます。実際、佳保について「こんな子、すぐにでも追い返したい」「非常識」という“役柄に対しての批判”は多くありました。実際、中園少女がどういう子供だったのかはわかりませんが、脚本家の美化アピールには見えませんでした。

まったくの創作ではないことも影響か

次に、中園氏とやなせ氏との交流のエピソードが史実だったということ。中園氏がゲストの『ファミリーヒストリー』(NHK)でも語られていたように、この出会いが朝ドラ執筆のきっかけになったと言います。

アンパンマン誕生のきっかけや2人の引っ越しなどが、佳保の手柄になってるという意見はありますが、ストーリーの方向性を微妙に変化させるためのスパイスとして自然に描かれていたのではないでしょうか。

佳保がいたことで、嵩が以前描いた元祖アンパンマンの存在を視聴者が忘れぬうちに引き出し、質素なふたりがあの家から引越しするきっかけをテンポよく作ることができました。また、当時のエピソードや、やなせ氏が実際に中園氏に書いた似顔絵が公式SNSで公開され、「もしかしたらそうなのかも」と思わせるようなフォローも十分だったと思います。

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NHK連続テレビ小説『あんぱん』勇気みなぎる名言ブック(ぴあ)
一番大きいのが、登場が1話だけでスパッと終わったところでしょう。この潔さは、あくまでもドラマの主人公は柳井嵩とのぶであるという、作品への愛と謙虚さに見えました。

作品の良し悪しは脚本家で決まると言われています。
ヒット作が出ればもてはやされキラキラしているように見えますが、出来が悪かったり問題が起これば、本来責任を負うべき監督やプロデューサーよりも批判の矛先が向かう……。

そして、自己顕示欲見えれば批判され、どのスタッフよりも謙虚であることが求められる職業なのです。

<文/小政りょう>

【小政りょう】
映画・テレビの制作会社等に出入りもするライター。趣味は陸上競技観戦
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