同記事のXのポストでは「覇権を狙うため『ぼざろ』(『ぼっち・ざ・ろっく』)から排除したノイズとは?」とも書かれており、Yahoo!ニュースに転載された記事ではその記述にならうタイトルとなっている。
ドラマ化・アニメ化された小説『天久鷹央の推理カルテ』の著者である知念実希人氏は、「……あのさ、脚本家が原作の表現を『ノイズ』って言うの、一線を越えてない?」という批判と共に記事をリポストした。他にも、「原作の微妙なところはノイズと称して削除とか、自分の加害性には無自覚なんだ」「アニメに変な思想を持ち込むのって有害でしかない」などと批判を浴びている。
一方で、「本文を読んだら当たり前のこと書いてるだけだった」」「至極真っ当な意見」「現代において重要な視点だと思う」といったフォロー意見もとても多い。
筆者個人の結論としては、今回の吉田氏の論旨そのものは、今のアニメおよび創作物の表現において重要な問いかけをしている、とても正当なものだと思えた。しかし、たとえ覚悟のある、あえて強い言葉を用いての発言だとしても、反感を買ってしまうのも当然の、問題のある表現があったのも事実だ。まとめていこう。
原作から「お色気」描写をなくす「チューニング」は正当性がある
今回の記事内で綴られている趣旨のひとつは、筆者個人が言葉を変えてまとめるのであれば「もっと多くの人に受け入れられる作品にするためのチューニング」だ。たとえば、以下のような記述がある。「原作ではひとりちゃん(※主人公の後藤ひとり)が水風呂に入るシーンで裸になっているんですが、アニメでは水着にしてもらいました。ぼざろがそういう描写が売りの作品ならいいと思いますが、そうではないと思いますし、覇権を狙う上ではそうした描写はノイズになると思ったんです」
具体例としてあげられている「主人公が(わざと風邪をひくために氷の入った)水風呂に入るシーンでは水着を着てもらった」場面において、確かに原作漫画では高校生の彼女の裸がはっきりと見えるアングルで描かれており、それはギャグであると同時に「お色気」なサービスとも捉えられるものだった。
『ぼっち・ざ・ろっく』は「極端な“陰キャ”の主人公の言動に笑いつつも共感する」要素も、間違いなくウケた理由の一つだ。「家のお風呂で1人で水着を着るのは変では?」という意見もあるが、裸よりは水着を着ることで、よりそういうギャグとして見やすい、少なくとも見る側の「気まずさ」は確かに減ったように思える。
筆者自身の言葉でいえば、原作にはわずかにあった(作品には真に重要ではないと判断した)お色気要素を極力なくす」というのは、ファミリー層や女性に受け入れられやすくする、マス向けの調整として正しいと思えるし、アニメ『ぼっち・ざ・ろっく』が幅広い年齢層が親しめる大ヒット作になった理由の1つという見方にも、一定の説得力がある。
同記事内で吉田氏「過激な作品やR18まで振り切ったものがあってもいい」などと認めている上で、『ぼっち・ざ・ろっく』という作品は「そうではない」と考えてこその調整となったことは、記事内でも、実際に原作とアニメの両方を比べても伝わることだった。
「アニメの表現だからってなんでもありじゃない。“絵だけど、未成年だぞ”って考え方は大事にしています」といった吉田氏の言葉も理解できるものだ。これまでは大衆が見るアニメ作品でも、カジュアルに未成年者のお色気描写があったかもしれないが、確かにそれを見直す、作品によってはゾーニングもより重視される時期なのかもしれない。
『セクシー田中さん』と同一視すべきではない理由も

つまり、原作者や他スタッフが完全にないがしろにされているわけではないし、吉田氏の独断のみがアニメに採用されたというのも考えづらい。
その根拠もある。たとえば、原作者のはまじあき氏はX(アニメ放送当時ではTwitter)で「吉田さんのおかげで結束バンドどのキャラも平等にスポットが当たって皆の人気がでて感謝しております、、、!」など吉田氏への感謝の言葉を告げている。
他にも、「少年ジャンプ+」の特設サイト内のインタビューページ「ジャンプラ読切沼のわたしたちで吉田氏は「原作者のはまじあき先生がシナリオ打ち(合わせ)に毎回同席してくださった」「製作者みんなで作品を愛して、どうしたらこの面白さを伝えられるのかを、自分ごととして考えていきたい」とも語っている。他のインタビューでも、吉田氏は原作を尊重して、作品と仕事に向き合う姿勢を示している。
これらのことを鑑みれば、原作者の「必ず漫画に忠実に」という約束が反故にされ、その原作者の自死という最悪の結果を迎えてしまったドラマ『セクシー田中さん』の問題と、今回のことを同一視するべきではないだろう。
「さぁ搾取してください!」にある「加害性」の「押し付け」
このように吉田氏の発言は、論旨を取り上げればやはり真っ当そのもので、クリエイターはもちろん、作品を楽しむ視聴者にとっても参考にできる重要な指摘だと思えたのだが、残念ながら「言葉のチョイス」にははっきり問題があると言わざるを得ない。「ノイズ」よりもはるかにまずいと思ったのは、「ファンの皆さんにはキャラクターをどう捉えてもらっても構いませんし、個人で何を描いても、何を想像しても自由だと思います。
この搾取というのは「性的搾取」のことだろうが、創作物に使う言葉としてはっきり間違っている。性的なサービスシーンのある作品や、『ぼっち・ざ・ろっく』の原作漫画に親しんだ人を、ひどく不快にさせる言葉だろう。
国連では、性的搾取は「性的な目的での、相手の脆弱性や力関係、信頼関係に基づく地位を濫用する行為あるいはその試み。他人を性的に搾取することによる金銭的、社会的、政治的な利得行為も含むがそれに限られない」と定義されている。
言うまでもないが、セクシーな表現がある作品でも、現実では犯罪行為となる描写がある18禁指定の作品であっても(特にそれがフィクションであれば)、「被害者のいない」創作物を作ること、それに触れることは、性的搾取にはならない。現実でまさにひどい性的搾取が問題になる昨今で、そちらと同一視する、罪悪感を抱かせるような発言は、それらの創作物が好きな人からすればたまったものではない。
その直前には「自由」といった言葉を用いて「歩み寄ろう」とする意思も見えなくもないが、結局は「搾取」「ばら撒く」といった表現で、性的な表現のある作品への「嫌悪」をぶつけているような矛盾も感じてしまう。
何より、この言い方は『ぼっち・ざ・ろっく』の原作を、前述したような「(わざと風邪をひくために氷の入った)水風呂に入る」という本来はギャグのシーンも含めて気兼ねなく楽しんでいた人に対して、「さぁ搾取してください!」という「加害性」を「押し付けている」ように思えてしまうのだ。
また、吉田氏が重要視しているのは、原作の描写というよりも、どちらかといえば「より多くの人に受け入れられるための表現」に対してのものではあるのだろう。
だが、そのノイズや「搾取」という強い言葉が、「『ぼっち・ざ・ろっく』の原作に向けられている」と捉えられているのが現状だろう。100歩譲ってオリジナル脚本の作品で自虐的にそれらの言葉を用いるのはまだしも、原作のファンがいる作品では絶対に避けるべきだった。
「心のデスノート」という言葉も強すぎる

商業的に成功させるための努力や工夫は脚本家としてもちろん真っ当なものだが、「大ヒット作にする」「多くの人に愛される作品を目指す」という言い方だってできただろう。
さらに、終盤では吉田氏が「言ってきたその人の名前も心のデスノートから消すことができません(笑)」と発言しており、その相手に言われたのが「いろいろなジャンルで脚本を書くのはやめた方がいい」ということにも、危うさを感じてしまう。
ここだけを取り上げれば相手の善意もありそうなアドバイスに思えるのだが、それに対して冗談めかしたとしても、「死を願う」ような表現は、少なくとも公の場では避けるべきだったのではないか。
記事内で吉田氏は「加害性」という言葉を用いていない
また、少なくとも記事内で書かれている吉田氏の発言においては、記事タイトルや見出しにあるような「加害性」という言葉は用いられていない。取材・文を手がけたライターのオグマフミヤ氏、または編集を担当した恩田雄多氏の主観がある程度は反映されており、記事内の言葉のすべてが吉田氏の意志であるとは思わないほうがいいだろう。この内容を世に出したメディアにも責任はある。このトークイベントにおいて、吉田氏はあえて強い言葉を用いて問題提起をする意図があったと想像できる。ヒット作に関わった脚本家として、一定の覚悟のある発言もしているとは思う。だが、今回はさすがに度を超えた発言が、『ぼっち・ざ・ろっく』の原作やアニメ、他の創作物を楽しんでいた人にとっての「ノイズ」になるどころか、強い「加害性」を帯びてしまった。
たとえば、「もっと多くの人に受け入れられる作品にするため、お色気描写はなるべく抑えました」といった表現に留めておけば、今回のような炎上は起きなかっただろう。
何より、せっかくのアニメの表現の問題提起や、納得できる吉田氏の脚本家としての矜持よりも、こうした言葉のチョイスによるバッシングがはるかに目立ってしまうのは非常にもったいないことだ。
今回の騒動を経て、吉田氏には自分の発言を見直してほしいし、その上でアニメおよび創作物の表現について、今後の良い教訓になることも願っている。
<文/ヒナタカ>
【ヒナタカ】
WEB媒体「All About ニュース」「ねとらぼ」「CINEMAS+」、紙媒体『月刊総務』などで記事を執筆中の映画ライター。Xアカウント:@HinatakaJeF