ポイント
・ 新たにレーザー光源を開発し、C-band全域にわたり、光子数を国家標準にトレーサブルに決定
・ 開発した光源から出力された光子を検出し、正確に検出器の検出効率を評価
・ 将来的に高速量子暗号通信の安全性、光量子コンピューターの信頼性の向上に欠かせない技術
【画像:https://kyodonewsprwire.jp/img/202507302959-O1-zRTcQqAW】
概 要
国立研究開発法人 産業技術総合研究所(以下「産総研」という)物理計測標準研究部門 上土井猛 リサーチアシスタント(研究当時)、福田大治 首席研究員、量子・AI融合技術ビジネス開発グローバル研究センター(G-QuAT) 鶴田哲也 研究員は、光通信で使われる1530 nmから1565 nmの波長帯であるC-bandと呼ばれる波長帯の波長に対応し、1光子単位で正確に出力を制御できる波長可変の光源を開発しました。
光子は光(電磁波)の最小単位であり、電子やクォークなどと並ぶ素粒子の一つです。
本研究では、レーザーパワーの国家標準にトレーサブルな波長可変光源(標準量子光源)を開発し、それを光子のものさしにすることで、光通信で使われるC-band波長帯の全域の光において光子検出器の性能を高精度に測定する技術を確立しました。この技術により、特定の波長のみならずC-band全域にわたり、光センサーの信頼性をレーザーパワーの国家標準と同水準の精度で担保できるようになることで、量子暗号通信の安全性や光量子コンピューターの精度の向上に貢献できます。
この研究成果の詳細は、2025年7月25日に「Optics and Laser Technology」にオンライン掲載されました。
下線部は【用語解説】参照
開発の社会的背景
量子技術は私たちの暮らしや社会を大きく変えると期待されています。その中でも光の最小単位である光子を使った応用が、世界中の研究と産業の注目を集めています。例えば、理論的に盗聴が不可能といわれる量子暗号通信は、「光子はそれ以上分けられない」という性質を利用して、安全な通信を実現しようという技術です。さらに、光子の量子的な振る舞いを使って複雑な計算を高速にこなす光量子コンピューターも、実用化に向けて開発が進められています。しかし、これらの量子技術が社会に普及するためには、光子を正しく扱い「光源から検出器に何個の光子が届いているか?」を正確に測ることが不可欠です。
研究の経緯
産総研では、光子を高感度に検出する技術を開発し、大容量通信を実現する量子情報通信や究極的な感度を持つバイオイメージング(2017年4月5日 産総研プレス発表)など新しい産業応用への展開を行ってきました。今回は、光量子コンピューターなどで必要とされる光子数測定技術などの開発を加速させるため、出力光子数を制御できる光源の高精度評価技術の開発に取り組みました。
なお、本開発研究は、国立研究開発法人科学技術振興機構 ムーンショット型研究開発事業 目標6「誤り耐性型大規模汎用光量子コンピュータの研究開発(JPMJMS2064)」(2020年度~2025年度)、内閣府・戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)「先進的量子技術基盤の社会課題への応用促進」(研究推進法人: QST)の研究テーマの一つ「量子コンピュータ・センサーハードウエアコンポーネントテストベッドの構築」(2023年度~2027年度)、内閣府・研究開発とSociety5.0との橋渡しプログラム(BRIDGE)「商用光量子コンピュータの構築」(2024年度~2026年度)、独立行政法人日本学術振興会 科学研究費助成事業24K01374の支援を受けています。
研究の内容
・光子の数を正確に数えるために
量子暗号通信や光量子コンピューターといった技術は、光子を用いて動作しています。これらの技術を安全かつ正確に実現させるには、光源から検出器に何個の光子が届いているかを精密に測定することが不可欠です。例えば、光子が1個届いたのか、2個だったのかを間違えると、量子暗号通信の安全性や量子計算の正確性が失われる恐れがあります。そのため、光子を検出する装置、つまり単一光子検出器や光子数識別器の性能を評価しておく必要があります。特に重要なのは「検出効率(=検出量/入射量)」と呼ばれる性能指標です。これは、光子が検出器に届いたときに、どのくらいの確率でそれを見逃さずに捉えられるか、という割合を示すものです。ところが、この検出効率を正確に測定するのは簡単ではありません。
・“光子のものさし”をどう作るか
光源がどれだけの光子を出しているのかを国家標準に準拠して明確に定義することができれば、検出器の性能を評価することが可能になります。この光源がいわば“光子のものさし”となります。ただし、1光子のエネルギーは非常に弱く、精密な測定が難しいため、実現は簡単ではありません。特に、光子数識別器のような検出器は、ただ1光子が存在するかどうかだけではなく、パルス光の中に平均して何個の光子が含まれているかという個数が厳密に定まっていなければなりません。さらに、C-band全域において検出器の性能を評価するためには、波長可変の光源である必要があります。
・今回の研究で実現したこと
本研究では、このような条件を満たす「標準量子光源」と呼べる光源を実現しました。基となる光源には、光通信波長帯で高精度に波長を調整できる波長可変連続波レーザーを採用することで、C-band全域に対応できるようにしています。このレーザーは非常に安定しており、信号を作り出すための光源として理想的な性質を持っています。この連続波の光を音響光学変調器(AOM)でパルス光に変換しました。AOMは光を繰り返し高速に遮断、通過させることができるため、非常に正確な時間幅の光パルスを作ることができます。
・検出器の性能を国家標準トレーサブルに評価する
この標準量子光源を使って、実際に産総研が開発している光子検出器(超伝導転移端センサー:TES、図2)の性能を評価したところ、C-band以上を網羅する1510 nmから1570 nmの全域において、検出効率を評価できることが実証されました(図1右下)。検出効率評価の精度は、10 nmごとの全ての波長で相対拡張不確かさ1.5 %以下を達成しました。これは近年、海外の複数の国家計量標準機関から報告された一般的な単一光子検出器の検出効率評価における相対拡張不確かさ1.8 %と比較しても高い水準であるといえます*。
【画像:https://kyodonewsprwire.jp/img/202507302959-O2-VHffAEEa】
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今後の予定
本研究によって、光通信波長帯であるC-band全体にわたり、光子数を正確に定義できる量子光源が実現し、それを基にして光子検出器の厳密な性能評価が可能となりました。これは、特定の波長に限らず、幅広い波長にわたる光子を国家標準にトレーサブルに測定可能になったことを意味します。
このような広帯域での測定能力は、量子暗号通信や光量子コンピューターといった先端技術の発展において、今後ますます重要な基盤となっていきます。例えば、光量子コンピューターにおいて不可欠なスクイーズド光源では、通常一つの波長だけが利用されていますが、実際には広い波長帯域にわたって光子が生成されており、現在その多くは未使用のままです。これらの使われていない波長も正確に測定できるようになれば、波長多重化による並列処理や、量子計算の拡張が可能です。また、時間的に短いパルスは広い波長成分を含むため、広帯域な波長を検出できる検出器は、より高速な信号の測定に必須です。将来的には高速な演算処理において、今回の技術は不可欠な役割を担います。
論文情報
掲載誌:Optics and Laser Technology
論文タイトル:Evaluation of Detection Efficiency of a Transition Edge Sensor at C-band Wavelength
著者:Takeshi Jodoi, Tetsuya Tsuruta, Mauro Rajteri and Daiji Fukuda
DOI:https://doi.org/10.1016/j.optlastec.2025.113414
用語解説
C-band
光通信で主に使われる1530 nmから1565 nmの波長帯を指す。光ファイバーでの光の損失が最も少ない範囲として、長距離、高速通信に広く利用されている。インターネットや量子通信などの中核を担う、最も実用的な波長帯の一つ。
国家標準
国家標準とは、国が維持する最も高精度な測定基準であり、あらゆる計測の根拠となる基準である。計測器や測定値の信頼性を担保するためには、これらが最終的に国家標準にまでさかのぼることができる必要がある。このように、測定結果が国家標準に結びついている状態を「国家標準にトレーサブルである」という。
量子暗号通信
光子が持つ“それ以上分けることができず、さらに一度観測すると状態が変わる”という量子の性質を利用して、盗聴が理論的に不可能な通信を行う技術。送信者と受信者の間で、外部からの干渉があれば必ず検出できるため、極めて高い安全性が保障される。
波長多重化
異なる波長の光を同じ光ファイバーで、複数の信号をまとめて送る技術。高速大容量通信に不可欠で、通信波長帯(C-band)内で細かく波長を分けて利用する。
単一光子検出器・光子数識別器
単一光子検出器は、光子1個を検出することができる検出器であり、小型で常温動作が可能であるため可搬性に優れている。
パルス光
光を連続的に出すのではなく、ごく短い時間だけ発する形式の光。時間幅が短いほど広い波長成分を含むため、高速なデータ通信や時間分解測定に利用される。
特定標準器
長さ、質量、時間などのさまざまな物理量の単位を正確に実現・維持するために、計量法に基づき国が指定、管理する計測機器であり、産総研がその整備と管理を担っている。これを基準として、あらゆる計測機器や測定結果が国家標準にトレーサブルであることが保証される。日本の産業や科学における計量の信頼性を根幹から支える、計測インフラの要である。
トラップ型検出器
光を内部で反射させながら全てを吸収する構造を持つ高感度な光子検出器。入射した光のエネルギーを逃さずに測定できるため、国家標準として使えるほどの高い信頼性と精度を持つ。
コヒーレント
波の位相や振幅がそろっており、時間的、空間的に安定した性質を持つ光の状態。レーザー光のように干渉性が高く、通信の精度を高める上で重要となる。
超伝導転移端センサー
光子検出器の一つ。
相対拡張不確かさ
測定結果には必ず誤差があり、その値が真の値からどの程度ずれている可能性があるかを定量的に表したものが「不確かさ」である。不確かさは、測定の信頼性を評価する上で不可欠な要素であり、統計的手法に基づいて算出される。「拡張不確かさ」とは、この不確かさにカバレッジ係数k(通常はk=2)を乗じたものであり、kが2の場合は測定値がその範囲内に約95 %の確率で存在することを示すものである。測定値に対する拡張不確かさの値の割合が「相対拡張不確かさ」である。
スクイーズド光
通常の光よりもゆらぎ(ノイズ)を一方向だけ抑えた特殊な量子状態の光のこと。光には量子的なゆらぎが存在するが、光の振幅や位相の一方のゆらぎを許容する代わりに、もう一方のゆらぎを小さく抑えるように圧搾(スクイーズ)することで、一方向に限っては量子的なゆらぎを抑えることが可能である。量子暗号通信や量子計算において重要な役割を果たす。
注釈
* López, M. et al. EPJ Quantum Technol. 7, 14 (2020).
プレスリリースURL
https://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2025/pr20250806_3/pr20250806_3.html