本日5月2日は、忌野清志郎の命日となる。

 ここ1年ほどを振り返るとき、とりわけ印象に残るのは、昨年6月に巻き起こった「フジロックに政治をもちこむな」「音楽に政治をもちこむな」論争だ。



 これは、「FUJI ROCK FESTIVAL'16」のトークステージにSEALDs(当時)の奥田愛基氏の出演がアナウンスされたことから始まる。これをきっかけにネット上には〈今年は絶対フジロックいかない 政治色本当やだ〉〈最近フジロックが妙に政治色おびてきてなーんか〉といったコメントが投稿され大炎上。テレビや新聞にも取り上げられる事態に発展した。

 フジロックは、言うまでもなく忌野清志郎とはとても縁の深い野外音楽フェス。生前は何度もステージに立ち、「キング・オブ・フジロック」との異名もとった。

 忌野清志郎はミュージシャンとしてのキャリアを通じ、一貫して権力への疑義を歌い続けてきた。反戦や反原発といったテーマについて、たとえレコード会社から「発売中止」を言い渡されたとしても、それらに屈することなく自分の主張を歌い通した。

 それはフジロックも同じ。エルヴィス・コステロ、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、パティ・スミスなど社会的なトピックを扱うミュージシャンを呼び、フェスとしても環境問題や反戦、反原発といった問題に関してもメッセージを発信してきた。だからこそ、忌野清志郎は「キング・オブ・フジロック」と呼ばれてもいるのである。

 そんなフジロックが、忌野清志郎亡き後、そういったフェスの歩んできた歴史を学ぶこともせず権力服従に毒されたリスナーたちの「音楽に政治を持ち込むな」という本末転倒な主張が跋扈するまでに至ってしまった。とても残念で怒りすらおぼえる。


 しかし、だからこそ、あらためて忌野清志郎を思い出し、彼の言葉にふれてもらいたい。今こそ、私たちは清志郎のメッセージをもう一度胸に刻み込みたい。

 本サイトでは、昨年の5月2日にも、忌野清志郎が反骨のメッセージを貫き通した戦いの歴史をまとめた記事を配信している。

 清志郎はたとえば、日本国憲法第9条について〈この国の憲法第9条はまるでジョン・レノンの考え方みたいじゃないか?〉と語っていた。明日は憲法記念日でもある。ここにその記事を再録するので、ぜひとも改めて忌野清志郎の残したメッセージに耳を傾けてほしい。
(編集部)

 2009年の5月2日に忌野清志郎が亡くなってから今日で7年。しかし、今でも未公開ライブ映像や音源などが定期的に発売されるなど、彼の人気は衰えない。今月14日公開の阿部サダヲ、瑛太、妻夫木聡、竹内結子、松田龍平ら出演の『殿、利息でござる!』の主題歌にもRCサクセション「上を向いて歩こう」が使われるなど、映画やドラマ、舞台などでも今でも絶えることなく彼の歌は人々に求められ続けている。

 毎年行われている追悼ライブイベント「忌野清志郎 ロックン・ロール・ショー」も、今年はサニーデイ・サービスなどをゲストに迎え、今月7日に日比谷野外音楽堂で行われる予定だ。

 そんななか、リテラは忌野清志郎の楽曲をめぐって起きた発売中止、放送中止の圧力事件、その圧力に抗し続けた清志郎の言動にフォーカスをあてて、彼の歴史を振り返ってみたいと思う。

 周知の通り、日本は今、政権からの圧力は日増しに強くなり、メディアが為政者を批判することがどんどん難しくなっている。
国境なき記者団が先日発表した報道の自由度ランキングでついに日本は72位にまで転落した。

 そんな状況だからこそ、忌野清志郎の表現の自由への姿勢に改めて触れてみたい。

 忌野清志郎の最初の「圧力」と闘いは、1988年、反核・反原発のメッセージソング「ラヴ・ミー・テンダー/サマータイム・ブルース」が発売中止になったことから始まる。同曲は痛烈な社会風刺の歌詞が満載の過激な作品ではあったが、レコード倫理審査会の審査も通過し、シングルは6月25日、同曲を収録したアルバム『COVERS』は広島原爆投下の日8月6日発売で決定していた。

 しかし、シングル発売の2週間前、清志郎は当時所属していた東芝EMIの重役から呼び出されシングルおよびアルバム発売中止の通告を受ける。そして、朝日、毎日、読売の朝刊に「素晴らしすぎて発売出来ません」というキャッチコピーとともに発売中止が発表されることになる。その理由について詳細は明かされなかったが、以下のような収録曲の歌詞に対し、親会社である東芝からEMI上層部に圧力がかかっていたというのが通説だ。言うまでもなく、東芝は原発プラント企業である。

〈何言ってんだー/ふざけんじゃねー/核などいらねー〉(「ラヴ・ミー・テンダー」)
〈熱い炎が先っちょまで出てる/東海地震もそこまで来てる/だけどもまだまだ増えていく/原子力発電所が建っていく/さっぱりわかんねぇ 誰のため?/狭い日本のサマータイム・ブルース〉(「サマータイム・ブルース」)

 かなり直接的な歌詞だが、RCサクセションというバンドは、それまで政治的なメッセージを掲げているバンドではなかった。それがなぜ原発や核に関する歌を歌うことになったのか。その理由について、彼は後にこのように語っている。

「70年代の途中から、反戦歌とかメッセージソングっていうのが一挙になくなったじゃないですか。
で、フォークなんかもどんどん軟弱になってって、そのまんま延々きちゃったでしょ。ふと、それはおかしいと気づいたんですよね」
「外国ではスティングがレーガン大統領のことを名指しで歌ったり、とかいうことがたくさんあるのに、日本の音楽界はおかしいぞって思ったんですよね」(「Views」95年2月号/講談社)

 この発売中止騒動の後、アルバム『COVERS』は、発売を強く求めるファンの声に応え、キティレコードから発売されることになるが、この一件が、表現の自由を規制しようとする体制側に対する清志郎の反骨精神に火をつける。それがかたちとなったのが、この直後に結成された覆面バンド・タイマーズだ。タイマーズというバンド名は、「大麻」と「タイマー」をかけたダブルミーニングなのだが、その名前が生まれたのは『COVERS』騒動のあと行われたレコード会社側とのある会議がきっかけだった。

〈「じゃあ、今後、なにとなにを歌っちゃいけないのか、きちんと教えておいてほしい」と清志郎は単刀直入に聞いた。
「原発のこと、そして天皇を侮辱するようなこと」
 と、東芝の人間は答えた。
「あ、そうですか。じゃあ、マリファナのことは歌ってもいいんですね」と清志郎が言うと「いいですよ」という答えが返ってきたという〉(「週刊プレイボーイ」99年10月19日号/集英社)

 その結果、〈Hey Hey We're THE TIMERS/Timerが大好き/かわいい君とトリップしたいな〉(「タイマーズのテーマ」)というテーマ曲を携えたバンドが誕生。彼らは89年にアルバム『TIMERS』をリリースするのだが、その作品は、表現の自由を奪ったレコード会社に対する皮肉に満ちた作品となっていた。

〈もしも僕が偉くなったなら/偉くない人の邪魔をしたりしないさ(中略)もしも僕が偉くなったなら/君が歌う歌を止めたりしないさ〉(「偉人のうた」)
〈冗談のひとつもいえねぇ/好きな歌さえうたえねぇ/替え歌のひとつにもいちいちめくじらを立てる/いやな世の中になっちまったもんでござんすねぇ〉(「ロックン仁義」)

 そして、怒りがおさまらない清志郎は、そのアルバム発売直前の10月13日深夜に出演した『夜のヒットスタジオ ROCK&MUSIC』(フジテレビ)で事件を起こす。生放送の番組のゲストライブコーナーに出演した彼らは、リハーサルで歌った楽曲を突如変更。いきなりこんな歌を歌い始めたのである。


〈FM東京腐ったラジオ/FM東京最低のラジオ/何でもかんでも放送禁止さ/FM東京バカのラジオ/FM東京こそこそすんじゃねぇ/おまんこ野郎FM東京〉

 FM東京への執拗な悪罵とともに〈おまんこ野郎〉という放送禁止用語が叫ばれスタジオは騒然。生放送のため演奏を途中で止めることもできず、ライブ後、司会の古館伊知郎が「放送上不適切な表現があったことをおわびいたします」と謝罪することになった。

 ここで清志郎がFM東京を罵ったのは、先の発売中止騒動に原因がある。シングル「ラヴ・ミー・テンダー/サマータイム・ブルース」が発売中止となったのはあまりにも直前だったため、各放送局にはもうすでに見本盤シングルは配られていた。だが、EMI側はそのサンプルを回収せず、エアプレイに関しても通常通り放送してもらって構わないとしていた。実際、日本有線、ニッポン放送、文化放送などではリクエストに応じてオンエアーしていたのだが、そんななかFM東京は「教育番組を流している会社であり、ふさわしくないと判断した」として放送を自粛した。局側は「圧力があったわけではない」としているが、実際は、FM東京が番組を売っている地方FM局のなかには原発誘致に積極的な地方の局もあり、そのことが放送自粛に影響していたのだろう。

 この大騒動ののち、91年にはRCサクセションが活動を休止し、その後の清志郎は数々のユニットを渡り歩くなど流動的なキャリアを歩む時期となるが、それでも彼の反骨精神は消えることはなかった。

 そして起きた騒動が、99年、忌野清志郎 Little Screaming Revue名義のアルバム『冬の十字架』が、「君が代」のパンクアレンジバージョンを収録していることにより、「政治的、社会的に見解が別れている重要事項に関して、一方の立場によって立つかのような印象を与える恐れがあり、発売を差し控えた」として、当時所属していたポリドールがアルバムの発売を中止した一件だ。これは大々的にニュースにも取り上げられ、当時官房長官だった野中広務まで「君が代の演奏のあり方については、われわれがとやかく申し上げるべきことではないと考えている」と記者会見で発言するほどの騒動にまで発展する。

 結果として、このアルバムはポリドールからの発売は諦め、インディーズのSWIMレコードから発売されることになるのだが、清志郎がこの時期にあえて「君が代」をパンク風にアレンジして歌ったのは、国旗・国歌法が十分とは言えない議論の果てにどんどん採決へと動いているにもかかわらず、世間、特に若い世代が無関心だったことに危機感を覚えたからだと言う。

「若者とかサラリーマンとか世の中の人達がさ、『政治家が勝手にやってんだから口も出せないし、関係ないや!』って諦めてる感じがしちゃったの。
とりわけ若者が、昔の若者みたいにもうちょっとだけでも政治に興味を持った方が健全なんじゃないかと思ったわけ」(「ロッキング・オン・ジャパン」99年11月号/ロッキング・オン)

 しかし、忌野清志郎という歌手が優れているのは、たんに社会的メッセージを発するだけでなく、そこにロックファンを刺激、熱狂させる仕掛けを仕込み、エンタテインメントとして成立させていたところだ。たとえば、当時「君が代」はライブハウスのなかでこのように歌われていたようだ。

〈「きみがあ、よおわー」
 キヨシローが、マイクに噛み付きそうな凄い形相で、割れ鐘のような声を張り上げた、パンクロック風『君が代』だ。
(中略)
「苔のむうすう.........」というところまでくると、キヨシローは、突然ムースを取り出した。そして、「ムース、ムース」と叫びながら、逆立てた自分の頭髪に目いっぱい塗りたくった。櫛を出して整髪し、スプレーをかけまくる、もう止まらない。
「スプレー、スプレー、スプレー」
 古色蒼然とした『君が代』の歌詞は、完全に脱線。使い終わったムースと櫛をキヨシローが客席に向かって投げた〉(「AERA」01年7月16日号/朝日新聞出版)

 こうした仕掛けはもちろん意識的なものだった。著書のなかで清志郎はこのように綴っている。

「かつて反戦歌があったけど、やっぱりユーモアが欠けていたところがあったと思うし、ユーモアが大切だと思いますよ」(『生卵』河出書房新社)

 その「ユーモア」精神が最も突き抜けていたのが、タイマーズの「原発賛成音頭」であろう。この曲は、原発反対のメッセージを出してトラブルに巻き込まれたことを逆手に取り、あえて原発賛成と歌ったものだった。

〈さあさ皆さん聴いとくれゲンパツ賛成音頭だよ/これなら問題ないだろーみんな大好き原子力/ゲンパツ賛成! ゲンパツ賛成!/うれしいゲンパツ楽しいな日本のゲンパツ世界一/なんにも危険はございませんみんな仲間だ原子力〉

 ライブではこのような歌詞を完全にバカにしきった歌い方で歌われ、〈一家に一台、原子力〉という一節まで登場する。
そして観客は音頭調に合わせ笑いながら〈ゲンパツ賛成! ゲンパツ賛成!〉と歌う。〈自衛隊に入ろう入ろう入ろう/自衛隊に入ればこの世は天国/男の中の男はみんな/自衛隊に入って花と散る〉と歌った高田渡「自衛隊に入ろう」にも通ずる諧謔的な表現手法である。

 彼の死後に起きた東日本大震災では福島第一原発が放射能事故を起こし、また、そんな大事故が起きたのにも関わらず、その反省を活かそうともせずこの国は原発再稼働へと急速に歩みを進めている。

 また、昨年は、十分な議論もなされないまま安保法案が強行可決され、憲法9条の存在すら危ういものとなり始めている。天国の清志郎が見たら、さぞや嘆き悲しむであろう状況に我々はいる。

 そして、おそらく、私たちが彼ほどの過激な行動をとり続けることは無理だろう。どんな圧力を受けても、決して自分のメッセージを曲げなかった清志郎のような強さを持ち続けることも常人には難しい。

 しかし、それでも、忌野清志郎のことを思い出し、彼の言葉にふれたら、少しだけ勇気がわいてくる。明日は憲法記念日、清志郎はこんなメッセージも残している。

〈この国の憲法第9条はまるでジョン・レノンの考え方みたいじゃないか? 戦争を放棄して世界の平和のためにがんばるって言っているんだぜ。俺たちはジョン・レノンみたいじゃないか。戦争はやめよう。平和に生きよう。そしてみんな平等に暮らそう。きっと幸せになれるよ〉(『瀕死の双六問屋』/小学館)
(新田 樹)

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