ピエール瀧の逮捕以降、本サイトは一貫して、メディア(特に地上波テレビ)報道の問題点を指摘し続けてきた。被害者もいないただの薬物事件をまるで重大犯罪のように騒ぎ立て、ピエール瀧の人格や過去の仕事まで否定し、「一緒にグループを組んでいる」という理由だけで石野卓球への謝罪を要求する……。
なかでも悪質なのが『バイキング』(フジテレビ)だ。毎日のように「こんなに迷惑をかけた」「いいおとなが無責任すぎる」「厳罰は当然」などとピエール瀧を糾弾し、薬物に手を出せば、すべてを失って当然であるかのような“煽動魔女狩りエンタテインメント”を展開している。
石野卓球のことを攻撃した3月25日の放送については先日、取り上げたが(https://lite-ra.com/2019/03/post-4630.html)、3月28日の放送もひどかった。
この日の『バイキング』はピエール瀧逮捕を受け、出演のテレビ・映画に代役を立てたり、電気グルーヴの音源の流通を止めたりという、業界の過剰な自粛対応に対して抗議の声が起きていることがテーマだった。
最初に、薬物依存症問題に取り組む市民団体「依存症問題の正しい報道を求めるネットワーク」が松竹、セガゲームス、ソニー・ミュージックエンタテインメント、TBS、NHKなどに自粛撤回の要望書を出していることが紹介され、「過剰な自粛や極悪人のような煽動報道で、薬物依存の当事者や家族はどんどん追い詰められる」という旨の発起人のコメントがVTRで流された。「刑罰から治療へ」という薬物対策の世界的な流れから言うと、当然の主張といっていいだろう。
ところが、これを受けたスタジオの反応は真逆だった。まず、MCの坂上忍はVTRが終わるなり、「お話きいているとイマイチ僕は説得力を感じない部分のほうが多かった」「お話を伺っていると、支援のほうにだいぶこうシフトした方々なんですかね」などと一蹴。逆に「更生させるのはとても大事なことだとは思うけど、手を出すことじたいが犯罪なわけでしょ」と犯罪であることを強調し、「刑罰から治療へ」という考え方について「日本はまた全然状況が違うから、そこらへんは、なんか、世界の潮流になんでもかんでも合わせりゃいいのかってことではないと思うんだけどね」と否定にかかった。
さらには、「薬物に手を出しちゃったら、こんな大変なことになるんですよ! 出演しているものはオンエアーもできないし、損害賠償だし、大変なことになるから、(薬物は)やめてくださいよ!っていう意味も含まれている」と、バッシングや自粛が見せしめになる、と正当化したのだ。
ほかのコメンテーターも同様だ。布施博や森公美子は市民団体の主張を「比較対象が違う」「考え方が違う」と批判、薬丸裕英にいたっては「まず手を出してから依存するわけでしょ。
言っておくが、「刑罰から治療へ」が世界的な潮流になっているのは、薬物防止に効果があることが客観的に明らかになっているからだ。にもかかわらずこの連中は一切聞く耳を持たず、「ルールを破ったんだから罰を受けろ」などと、中世的な価値観丸出しで叫んでいるのである。この思考停止と前時代性には辟易とするしかない。
さらにひどかったのが、宇川直宏主宰のライブストリーミングサイト・DOMMUNEの企画をとりあげたときのことだ。DOMMUNE は26日、自粛対応への抗議の意味も込めて、「電気グルーヴ“だけ”の5時間!電気グルーヴ“だらけ”の300分!」と題し、電気グルーヴの楽曲をかけるDJイベント企画を放送。DJ WADA、KEN ISHII、SUGIURUMN、Licaxxxといった著名なDJが参加したこの放送は大反響を呼び、日本のツイッターではトレンド1位になり、46万人以上の視聴者が集まった。
●抑圧に抵抗するDOMMUNEをバカにし「売名」と攻撃した『バイキング』
ところが、『バイキング』は、このDOMMUNEの行動を悪意をもって攻撃しまくったのだった。まず、電気グルーヴの音楽が世の中に流通できない状態になっていることに疑問を呈したDOMMUNEの企画趣旨が紹介されると、坂上がいきなり「ずいぶん熱いですね……」と皮肉。続いて森公美子がこんなことを言い出した。
「DOMMUNEってわたし、聴いてなかったですけれども、ツイートのトレンドで日本1位になろうって。
そして、この発言をきっかけに、スタジオはDOMMUNEの企画が売名行為、PRではないかという話題一色になってしまう。
まず、坂上が「これやると、ここ(DOMMUNE)のこと知るよね」「おれ、森さんの話きいて、ああっ、確かにと思って。(DOMMUNE)知らなかったもの」と発言し大笑い。
これに、おそらくスタジオでただひとりDOMMUNEや企画の意義をわかっていたと思しきフットボールアワーの岩尾望が「DOMMUNEのPRだという見方をしてる人がいたんですか?(笑)」とあり得ないという感じで突っ込んだのだが、全体の空気を読んだフット後藤輝基が「そういう意味では、コマーシャルにもなりますけど」と坂上らの流れに話を押し戻し、薬丸も「うーん。どうしてもそういうふう(サイトPR)な目で見てしまいますね」と同調。
現在、ネットでは、坂上やコメンテーターたちがライブストリーミングの草分け的存在であるDOMMUNEのことを知らなかったことに、大量のツッコミが入っているが、問題はそこではない。
『バイキング』が最悪だったのは、DOMMUNEのような動きが抑圧へのカウンターとして出てきていることにまったく理解を示さず、「売名」と決めつけて攻撃をした点だ。
自分たちこそ、金を稼いだり既得権益を守るために、長いものに巻かれているくせに、既成の価値観に違和感を表明したり、本質的な議論をしようとしたものを、目立つための行為だと嘲笑い、見下す。これは、ワイドショー的言論の典型であり、そういった同調圧力が、マイノリティを抑圧する社会をつくりだしてきたのだ。
だいたい、坂上は偉そうにピエール瀧や石野卓球を責める資格があるのか。
●飲酒当て逃げでパトカーとカーチェイスを繰り広げたこともある坂上忍
たとえば、有名なのが、1995年に飲酒当て逃げ事件で逮捕された一件だ。坂上はこのとき、友人の俳優宅でのパーティで酔っ払っていたにもかかわらず、当時、噂になっていた女優の山本未来と車で帰宅。途中で道路脇の電柱に激突し、電柱を根元から折ってしまうという交通事故を起こした。
しかも、坂上は大破した車に再び乗り込んで逃走を図り、パトカーと20分間にわたってカーチェイスを繰り広げ、酒気帯び運転で警視庁北沢警察署に現行犯逮捕されたのだ。
言っておくが、これは坂上の不祥事を責めているのではない。逆だ。
かつて逸脱していた自分を棚に上げて、いま逸脱している者を糾弾していることこそ、退廃にほかならない。自らが保身のために変節・退廃するだけなら勝手にしてくれればいいが、その自分の変節を正当化したいがために、坂上は他人の逸脱を糾弾せずにはいられないのではないか。
1984年に発行された初の著書『地球に落ちてしまった忍』(小学館)で、当時17歳の坂上は、相米慎二監督に言われた言葉を紹介しながら〈宇宙人でもいいさ〉と異端であり続けることを自負すらしている。さらにアイドルが自分の意志をもっていないことに憤慨して〈坂上流にいえば、芸能界の小学生だ!〉と罵倒した後に、〈ちなみにぼくのしたっているアイドルはデビッド・ボウイです〉と綴っている。タイトルの『地球に落ちてしまった忍』もおそらく、デヴィッド・ボウイの主演映画『地球に落ちて来た男』から取ったものだろう。
いまの坂上にとっては、こういうのもすべて若気の至りなのだろうか。
『バイキング』の全曜日MCを始める少し前の、2014年『FNSうたの夏まつり』(フジテレビ)に坂上が出演した際は、そのデヴィッド・ボウイの「Let's Dance」をいたって真面目に歌って視聴者を大いに困惑させたが、それも坂上が17歳の心を黒歴史化などさせずに保っている証拠かとも思っていたのだが……。
●ショーケンの死に『傷だらけの天使』『極妻』で共演していた坂上忍は…
ちなみに、29日の『バイキング』では、前日夜死去が報じられたショーケンこと萩原健一についての特集が、ほかのワイドショーより圧倒的に小さかった。坂上はショーケンとは、ドラマ『傷だらけの天使』で子役時代に共演、映画『極道の妻たち 三代目姐』ではショーケンを刺し殺す役を演じるなどしており、近年もバラエティでも度々共演したり、萩原とのエピソードを披露するなどしていた。他のワイドショー以上に、坂上自身が生き証人として語れること・語るべきことの多い話題だったと思うが、番組後半に20分足らずという明らかに小さな扱いだった。
マリファナの不法所持を含む4度の逮捕歴があり、著書でも薬物経験を披露しているショーケンのことも、坂上は今となっては「もう大人なのに無責任」などと思っているのか。あるいは、ピエール瀧報道での自身の論調との矛盾にバツが悪かったのか。いずれにしても、坂上が自らの変節とオヤジ化により、自縄自縛になっているのは間違いないだろう。
この自縄自縛は坂上だけに限った問題ではない。
多くのワイドショーが、「ピエール瀧を糾弾しながらショーケンは持ち上げるのか」とそのダブルスタンダードを批判されている。恐ろしいのは、現在の道徳ファシズム社会・日本では、そうした批判によって「ピエール瀧を糾弾するのは間違っていた」と省みるのでなく、逆に「ショーケンを評価してはいけない」というほうに流れてしまいかねないところだ。
音楽も映画も文学も不道徳だと糾弾され、強者のご機嫌を取り弱者をいたぶるお笑いだけがエンタテインメントとして許される。『バイキング』を見ていると、そんなおぞましい近未来すら想起せずにはいられない。その狂った世界ではもちろん「DOMMUNE知らない」のほうが常識となる。
繰り返しになるが、逸脱を許さない社会からは、新しいものは生まれない。それは芸術やカルチャーだけの話ではなく、科学技術や経済、政治などすべてにおいてだ。逸脱を許さない社会は、いま逸脱者とされている者だけでなく、すべての人にとって生きづらく、権力を握る支配者層以外にはなんのメリットもないことを認識するべきだ。
(編集部)