もう80歳とは信じ難い元気さだ、とは思っていたが、まさかここまでだったとは。連日のテレビ出演に執筆、「朝まで生テレビ」(テレビ朝日系)では徹夜で激論を交わす田原総一朗。
「私はいま、熱烈な恋愛をしている」
そう、なんと田原はいま熱愛中であることを自ら暴露したのである。
田原が驚きの告白をしているのは、先日上梓した『80歳を過ぎても徹夜で議論できるワケ』(角川書店)でのこと。タイトル通り自身の健康法に老人らしい自慢話や自己啓発的説教が語られているのだが、なぜか話は脱線し......。「私はいま、熱烈な恋愛をしている」と、80歳にして現在進行中の熱愛を自ら告白するのである。
たしかに田原は、10年前にダブル不倫の末に結ばれた愛妻をがんで亡くし、いまは独り身で、恋愛は自由。とはいえ、しつこいようだが御年80歳である。相手は一体どんな女性なのか、そもそも一体どこで出会ったのか。
まずは田原のこれまでの"恋愛遍歴"を本書から紹介したい。田原は20代の頃に結婚し、2人の娘をもうけるも妻は病死。そして再婚したがやはり2度目の妻にも先立たれている。それは田原と再婚妻の共著『私たちの愛』(講談社)にも詳しいが、田原は本書でも改めてそれら"恋愛遍歴"を記している。
「最初の妻は私が49歳の時に他界した。55歳の時に再婚した二番目の妻にも、私が70歳の時に先立たれている」
最初の妻は田原の叔母の末娘・末子で、3歳年上の"従妹"だった。周囲からの反対もあったが、2人はそれを押し切って結婚。田原が26歳のときだった。その後2人の娘に恵まれたが、娘たちが小学生だった1975年末子に乳がんが見つかる。そして長い闘病生活が始まった。
だが妻が闘病生活を送るなか、いや、それ以前から田原は他の女性と恋愛関係にあった。お相手の女性は日本テレビでアナウンサーをしていた村上節子だった。
「相手にも夫と娘がいたので、ダブル不倫だった」
田原自身がこう認めるダブル不倫の関係は、1967年から始まったらしい。結婚7年目で田原が33歳の時である。
「妻の末子がガンになって以降も、節子との関係は続いた。末子に申し訳ないという罪悪感を持ちつつも、節子と別れることはできなかった。
男の身勝手とも取れるが、しかしこうした過去の"不倫"をさらっと、そして飄々と告白するところは、さすが"老人力"ともいえる。「もう昔のことだからね」という開き直りも感じられるが、しかし田原は末子を献身的に看病し、娘たちの面倒を見たという。
そして末子は1983年、53歳の若さで亡くなった。この時の心境を田原はこう記している。
「私は末子を看取る一方で、節子と恋愛していたことについて、とても申し訳ない気持ちでいた。と同時に『これで二重関係の苦悩から解き放たれる』という思いもあり、なんとも言えぬ複雑な心境であった」
本書を娘も読むかもしれないだろうに、こんな"本音"を告白する田原。生々しすぎる告白だが、それはまだまだ続く。
末子夫人が亡くなった当初は、節子と再婚する気はなかったという田原だが、夫人逝去の3年後にプロポーズ。節子はこれを1度は断ったが、さらに3年後に再びプロポーズ。田原の体調が悪かったことで、今度は節子もOKした。
だがしかし、節子もまたガンに倒れる。2004年6月、節子は67歳で亡くなった。
それから10年、田原は本書で堂々の"熱愛宣言"だ。お相手はなんと高校の同級生で、かつてマドンナだった女性だという。
「きっかけは、同窓会だった。それまでも年に一度の同窓会で会っていたが、73歳の時、同窓会の場で初めて彼女を誘った。私が二番目の妻を亡くしてから3年経った頃のことだ」
どうやら田原は妻が亡くなって3年経つと、プロポーズやら恋愛をしたくなるようだが、彼女もまた夫に先立たれていた境遇だった。
「高校時代も美貌で理知的な女性だったが、いまも見目麗しい」「彼女と一緒にいて楽しいのは、心がときめくからだ」
堂々としたこのノロケっぷり! しかも流行の同窓会恋愛だったとは! さすがである。さらに田原は彼女と集団的自衛権やTPP、安倍晋三論などの論争もするという。彼女は新鮮な意見を田原にぶつけるらしい。
「結婚していないから、お互いを縛るものも何もない。心おきなく、何の秘密もなく、話し合うことができる」
「そういう意味では、妻以上の存在といえるかもしれない。というのも、妻にはなかなか自分の弱みを見せられなかったからだ」
田原総一朗、80歳の熱愛宣言。結局、田原の健康の秘訣は、恋愛だったのかも。
(伊勢崎馨)